劉真道

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劉真道(りゅう しんどう、生年不詳 - 元嘉20年7月25日[1]443年9月5日))は、南朝宋官僚軍人本貫彭城郡彭城県安上里。

経歴[編集]

劉懐敬(劉懐粛の弟)の子として生まれた。はじめ銭唐県令となった。元嘉13年(436年)、揚州で飢饉が起こり、文帝沈演之を派遣して巡察させると、真道は余杭県令劉道錫とともに良宰として名を挙げられた。真道は文帝の賞与を受けて、歩兵校尉に抜擢された。

元嘉14年(437年)、梁南秦二州刺史として出向した。元嘉18年(441年)、仇池楊難当が漢中に進攻してくると、真道は軍を率いて楊難当を討った。楊難当の進攻が止まらなかったため、文帝は龍驤将軍の裴方明に禁兵5000を与えて、真道の下につけさせた。元嘉19年(442年)、裴方明が武興に到着すると、劉康祖・梁坦・段叔文らを率いて潭谷に進軍し、仇池軍と濁水で会戦して苻弘祖ら3000人あまりを斬った。劉康祖を派遣して追撃させ、苻徳義を破った。裴方明は修城に拠る楊和・楊林・姚憲らを撃破し、赤亭まで追撃した。仇池の丞相楊万寿らは降伏し、楊難当は上邽に逃亡し、楊難当の三男の楊虎は民間に隠れていたところを捕らえられた。建威将軍・雍州刺史に転じた。

元嘉20年(443年)、先年の楊難当との戦いで鹵獲した財宝や良馬を私蔵していたため、裴方明らとともに獄に下され、死去した。

脚注[編集]

  1. ^ 『宋書』巻5, 文帝紀 元嘉二十年七月甲子条による。

伝記資料[編集]