函谷関の戦い (紀元前298年)

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函谷関の戦い
戦争合従攻秦の戦い
年月日紀元前298年 - 紀元前296年
場所函谷関
結果:合従軍が函谷関に攻め入り、が和を求めた
交戦勢力


指導者・指揮官
匡章 羋戎
戦力
300,000 数十万
損害
不詳 不詳
春秋戦国時代
春秋時代
戦国時代
秦の統一戦争
†はその国の滅亡 表示

函谷関の戦い(かんこくかんのたたかい)は、紀元前298年から紀元前296年に発生した、の三国合従軍を攻めた戦い。

函谷関の戦い[編集]

紀元前299年は盟を組み、と断交した。秦ので斉の公子孟嘗君は斉に逃避した。

紀元前298年、孟嘗君の指揮下で斉と合従し秦を攻めた。函谷関まで攻め入り、秦軍は函谷関を死守した。

紀元前297年、三国は継続して函谷関を攻めた。

紀元前296年、三国合従軍は函谷関に攻め入り、塩氏城を占領した。秦は合従軍に和を求め、魏に封陵中国語版を、韓に武遂を割譲した[1][2]

当時、趙とと秦は盟を結んでいて、合従軍には加わらなかった。しかし、趙は中山攻略戦中国語版により、秦へ援軍を派遣できなかった。は斉に亡国中国語版の仇があった。三国合従軍は函谷関の戦い後、斉将の匡章が率いる軍によって、燕軍を大敗させた[3]懐王が秦に騙され、幽閉されたまま死去した。しかし、紀元前301年に斉・韓・魏の三国合従軍が垂沙の戦い中国語版で楚軍を大敗させたため、合従に参加しなかった。

斉は勝利を獲得したが、大きな利益を得ることが出来なかった。韓・魏は秦の恨みを買い、紀元前294年白起率いる秦軍に伊闕の戦いで大打撃を受けた。

脚注[編集]

  1. ^ 史記 巻五 秦本紀》:十一年,斉与韓・魏・趙・宋・中山五国共攻秦,至塩氏而還。秦与韓・魏河北及封陵以和。
  2. ^ 資治通鑑 巻四 周紀四》:斉・韓・魏・趙・宋同撃秦,至塩氏而還。秦与韓武遂、与魏封陵以和。
  3. ^ 戦国策 巻二十九 燕策一》,蘇轍認為司馬穰苴如《戦国策》所説,是斉湣王時期的斉将。《史記》拠伝聞,称司馬穰苴是春秋景公時期的斉将,但斉景公時斉国和燕国並没有戦争,当以《戦国策》和蘇轍考証為是。

関連項目[編集]