内山岩太郎

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1962年5月21日、ホワイトハウスにてケネディ大統領(左)と。

内山 岩太郎(うちやま いわたろう、1890年2月28日 - 1971年11月19日)は、日本外交官政治家実業家神奈川県知事(公選第1・2・3・4・5代)、テレビ神奈川初代社長。日本の国際連合加盟に貢献をした人物として知られる。群馬県前橋市出身。元丸紅ブラジル会社副社長の内山勇は三男。

経歴[編集]

1890年(明治23年)、群馬県前橋市で生まれる。1902年(明治35年)、群馬県立前橋中学校(群馬県立前橋高等学校)に入学。1907年(明治40年)、東京外語学校(現東京外国語大学)スペイン科に入学。卒業後の1912年(明治45年)に外務省に入省。外務書記生に任命されスペイン公使館に勤務する。1917年(大正6年)、外交官領事官試験に合格し、チリに赴任。その後、サンパウロ総領事・リオ参事官などの要職を歴任。 1926年(大正15年)、ジュネーブ公使館二等書記官時代、第八回国際労働会議に政府代表顧問として参加[1]1937年(昭和12年)、アルゼンチン公使に就任。1943年(昭和18年)、外務省を退官。1946年(昭和21年)、官選の神奈川県知事に就任。1947年(昭和22年)、神奈川県知事選に立候補のために知事を辞任し、最初の公選知事として当選(以後在任20年・5期)。1957年(昭和32年)、日本アルゼンチン協会会長。1966年(昭和41年)、勲一等瑞宝章を受章。長年の功績がたたえられてペヘレイがアルゼンチンから移植された。1971年(昭和46年)、横浜市港北区で死去。

このほか第12回全国菓子大博覧会名誉副総裁、江の島ヨットクラブ会長などの要職を歴任した

国連加盟をめぐって[編集]

第二次世界大戦後の日本が国際連合への加盟を目指した時、ソ連をはじめとする共産圏諸国以上に大きな障壁として立ちはだかったのが、安全保障理事会非常任理事国フィリピンだった。内山はフィリピンとの交渉の中で、日本軍が破壊したマニラの大寺院の復興を条件にフィリピン側の譲歩を狙った。この戦法があたり、フィリピン側の譲歩につながった。ただし、寺の復興への協力は得られず、内山はひとりでこの事業に従事し、1958年までかかって完成させた。

人物[編集]

栄典[編集]

主な論文・著書[編集]

  • 「道州制の問題について」都市問題45(1954年)

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1975年に神奈川県神奈川区の県私学会館前に8.8mの立像が建立されたが、東日本大震災後、近隣住民より地震による倒壊を懸念する声が寄せられたため、2012年、立像を撤去した後、改めて胸像を設置している[5]

脚注[編集]

  1. ^ 第八回、第九回の代表任命『中外商業新報』大正15年3月28日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p191 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  2. ^ 第028回国会 外務委員会 第8号”. 衆議院 (1958年). 2018年5月15日閲覧。
  3. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  4. ^ 中野文庫 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧
  5. ^ 内山岩太郎元知事の立像撤去へ”. 神奈川新聞 (2012年). 2018年5月15日閲覧。

参考文献[編集]

  • 「光あらたに 内山岩太郎先生追慕の記」
  • 「横浜市史II 資料編3」
公職
先代
新設
神奈川県の旗 神奈川県知事
公選初代 - 第5代:1947年 - 1967年
次代
津田文吾
官職
先代
藤原孝夫
神奈川県の旗 神奈川県知事
官選第25代:1946年 - 1947年
次代
渡辺広
非営利団体
先代
新設
日本アルゼンチン協会会長
初代:1957年 - 1971年
次代
大久保利隆