入善小太郎

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入善 小太郎(にゅうぜん こたろう、1164年長寛2年)- 1221年)は、平安時代から鎌倉時代武将

宮崎太郎長康の嫡男越中国宮崎城主、舟見城主。

生涯[編集]

宮崎太郎長康の嫡男として誕生。

1183年寿永2年)4月27日、燧城の戦いで初陣。5月11日、倶利伽羅峠の戦い。6月1日、篠原の戦い。平家方の侍大将である高橋景綱と戦い、叔父の南保家隆と首を挙げた恩賞争いが長門本『平家物語』や『源平盛衰記』に記されている。

1185年(寿永5年)3月、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し、同年9月に父の長康が匿っていた北陸宮後白河法皇の孫)の従者として上洛を果たした。

1186年文治2年)、父の長康と弟の小次郎が新領地となる信濃国黒田村(現・長野県飯田市黒田)に赴任したことで家督を相続する。

1221年承久3年)の承久の変に際しては、後鳥羽上皇方北陸軍の大将として「入善小太郎の嫡男宮崎左衛門尉定範」の名が『吾妻鏡』に見える。親不知の戦いで宮崎定範は北条朝時率いる幕府軍に敗れた。幕府軍はその余勢で宮崎城に攻めかかり、宮崎城を落城させた。入善小太郎も敗死した。享年57。

人物[編集]

  • 小兵と長門本『平家物語』にある。

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