児玉孝一

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 児玉孝一 八段
名前 児玉孝一
生年月日 (1951-02-21) 1951年2月21日(73歳)
プロ入り年月日 1980年01月07日(28歳)
引退年月日 2011年08月10日(60歳)
棋士番号 141
出身地 福岡県北九州市
所属 日本将棋連盟(関西)
師匠 岡崎史明八段
段位 八段
棋士DB 児玉孝一
戦績
通算成績 394勝526敗
竜王戦最高クラス 1組(1期)
順位戦最高クラス B級2組(14期)
2015年3月20日現在
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児玉 孝一(こだま こういち、1951年2月21日 - )は、将棋棋士。2011年、引退。岡崎史明八段門下。棋士番号は141。福岡県北九州市出身。竜王戦1組に1期在籍。

棋歴[編集]

の囲いを放棄し、左右の銀を中央に繰り出して攻勢をとる「カニカニ銀[1]の創案者。この戦法の独創性・優秀性が高く評価され、2003年将棋大賞升田幸三賞を受賞。「カニカニ銀」と命名したのは森信雄である[2]森内俊之も実戦(1992年11月20日)で採用して勝ったことがある。

父から教わって将棋を覚えたのは12歳のときであり[3]、将棋を(本格的に)始めたのは高校1年生のときである[2]福岡県立八幡中央高等学校卒業[4]。北九州アマ王位戦でA級2位[2]となった後、1968年、第4回高校選手権で団体優勝[2]1968年アマ名人戦福岡県代表で出場し、ベスト4。

福岡大学[5]を中退し[2]1971年10月、岡崎門下で奨励会に3級で入会(関西)。このときすでに二十歳であった。入会後、1級昇級後に2級降級があったり、三段時代が4年弱あるなど苦労したが、1980年1月に28歳四段昇段を果たす(プロ入り)。なお、1978年に奨励会棋戦の第1回「若駒戦」で優勝している(準決勝の相手は福崎文吾、決勝三番勝負の相手は泉正樹)。

プロ入りした後、年度が明ける前に早速第14回(1980年度)早指し将棋選手権で予選を突破。本戦では2回戦で田中寅彦を破るが、3回戦で米長邦雄(この回に優勝)に敗れる。また、第4回(1981年)若獅子戦で準優勝。第14回(1983年度)新人王戦ではベスト4。

順位戦初参加となる第39期(1980年度)C級2組順位戦は、3勝7敗の成績で、いきなり降級点を喫する。次の第40期(1981年度)では1敗の後の7連勝で昇級争いに加わるも、8勝2敗で6位に終わる。しかし、第41期(1982年度)では9回戦終了時点で8勝1敗とし、全勝の塚田泰明(後に王座・A級)と、同じく全勝の脇謙二とともに、最終局を待たずしてC級1組昇級を決めた(最終局で塚田に負け、8勝2敗)。

第43期(1984年度)C級1組順位戦では8勝2敗・2位の成績を収め、34歳でB級2組に昇級。なお、2敗は塚田泰明と高橋道雄(元・王位、後にA級)から喫したものであった。

第47期(1988年度)B級2組順位戦は、9回戦終了時点で児玉を含み4人が7勝2敗の1位タイで並ぶ。そして、最終局でその4人が全員勝利して8勝2敗で終えたため、前期低成績でリーグ表順位が悪かった児玉は昇級できなかった。また、第49期(1990年度)B級2組順位戦も8勝2敗で終えたものの、同じく2敗でリーグ表上位の森安秀光(元棋聖・元A級)と島朗(元竜王、後にA級)が昇級した。ちなみに、このときのもう一人の2敗者は羽生善治棋王である。

順位戦B級2組には14期連続14期在籍。勝ち越しが6期、負け越しが5期、指し分けが3期であった。その中で降級点を2度消す健闘を見せたが、第56期(1997年度)・第57期(1998年度)に2期連続降級点を取り、C級1組に降級した。

1987年に創設された竜王戦第1期 (1988年度)は、順位戦でB級2組8位であったため2組からのスタート。初戦から2連敗し3組に落ちそうになるが、残留決定戦で2人に勝つ粘りで2組残留。そして、第4期(1991年度)竜王戦2組では、準決勝で大山康晴十五世名人、決勝で石田和雄八段に勝利して2組優勝し、40歳で1組昇級。本戦では初戦で勝浦修(1組3位)に敗れる。次期の第5期(1992年度)竜王戦1組では福崎文吾王座と二冠を失ったばかりの南芳一を相手に2連敗し、2組降級。この年度以降、竜王戦での昇級(復帰)はない。

第40期(1991 - 1992年)王座戦で森安(秀)、阿部隆に勝って二次予選を抜けるも、本戦トーナメント1回戦で羽生に敗れる。この期から長い王座連覇(同一タイトル連覇の新記録)を始める羽生の1人目の餌食となった。

第34回(2000年度)早指し将棋選手権で本戦出場。1回戦で有吉道夫(元棋聖)に勝ち、2回戦で羽生に負ける。

第68期(2009年度)C級2組順位戦の9回戦は、自身のフリークラスへの陥落と相手の金井恒太の昇級の両方がかかった勝負となるが、千日手指し直しの末に勝利し、自分の目の前での昇級を許さなかった。この一戦は将棋大賞で初の「名局賞特別賞」に選ばれた(第37回将棋大賞)[6]。しかし降級点を逃れることはできず、フリークラスに陥落した。

満60歳となる2010年度内に順位戦に復帰できなかったため、同年度限りで引退が決まった。しかし前年に引退した有吉道夫の引退間際のNHK杯本戦出場決定がきっかけで規定が改められた関係で、2010年度内に参戦していた棋戦については消化し切るまで指せることとなった。そして第24期竜王戦6組で2つ勝ち上がり、3回戦で船江恒平に負けて5組への昇級者決定戦に回る。他の棋戦ではすでに敗退していたため、この竜王戦が児玉にとって棋士人生最後の棋戦となった(4組に上がらないと現役残留できない)。そして、2011年8月10日大石直嗣に敗れて引退となった[7]

昇段履歴[編集]

主な成績[編集]

  • 1999年11月02日 - 通算300勝達成[9]

在籍クラス[編集]

順位戦・竜王戦の在籍クラスの年別一覧
開始
年度
(出典)順位戦 (出典)竜王戦
名人 A級 B級 C級 0 竜王 1組 2組 3組 4組 5組 6組 決勝
T
1組 2組 1組 2組
1980 39 C226
1981 40 C235
1982 41 C204
1983 42 C119
1984 43 C106
1985 44 B220
1986 45 B207
1987 46 B208 1 2組 --
1988 47 B223 2 2組 --
1989 48 B203 3 2組 --
1990 49 B213 4 2組 --
1991 50 B202 5 1組 --
1992 51 B206 6 2組 --
1993 52 B215 7 2組 --
1994 53 B207 8 2組 --
1995 54 B221 9 2組 --
1996 55 B214 10 3組 --
1997 56 B213 11 4組 --
1998 57 B221 12 4組 --
1999 58 C102 13 4組 --
2000 59 C125 14 5組 --
2001 60 C120 15 5組 --
2002 61 C122 16 6組 --
2003 62 C117 17 6組 --
2004 63 C122 18 6組 --
2005 64 C123 19 6組 --
2006 65 C201 20 6組 --
2007 66 C225 21 6組 --
2008 67 C237 22 6組 --
2009 68 C240 23 6組 --
2010 69 24 6組 --
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。
順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 )
順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。
竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。

将棋大賞[編集]

  • 第30回(2002年度) 升田幸三賞 = 「カニカニ銀」
  • 第37回(2009年度) 名局賞特別賞 = 第68期順位戦C級2組第9回戦(2010年2月2日)対・金井恒太

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「カニカニ銀」戦法は、広義では矢倉戦法、その中でも急戦矢倉の一つとして分類される。
  2. ^ a b c d e 将棋世界」(日本将棋連盟)2000年1月号付録
  3. ^ 平成10年版「将棋年鑑」(日本将棋連盟)
  4. ^ 昔ばなし――松浦隆一七段
  5. ^ 福岡大学将棋部の歴史(福岡大学将棋部 応援ページ)
  6. ^ 第37回将棋大賞決まる!|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
  7. ^ 児玉孝一七段が引退|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
  8. ^ 昇段・引退棋士のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
  9. ^ 近代将棋(2000年2月号)』近代将棋社/国立国会図書館デジタルコレクション、187頁https://dl.ndl.go.jp/pid/6047378/1/94 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]