倉地百汲

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倉地 百汲(くらち ひゃっきゅう)は、越後俳諧の指導者・宗匠19世紀の人。旗本・牧野氏6000石の用人

倉地家は、信濃小諸藩主(城主)牧野氏の用人・倉地氏の庶流であったが、越後三根山に陣屋を持っていた6000石の旗本・牧野氏家臣団において、山本氏神戸氏と並ぶ家禄・百石級の門閥の家柄であった。

倉地氏は、牧野氏戦国時代三河国宝飯郡(現、豊川市)の牛久保城主であった頃から仕えた古参の出自を持っていた。

倉地百汲は、25歳で家老であった父から家督を相続して、越後三根山に陣屋を持つ旗本・牧野氏では家老に次ぐ、重臣である用人となった。しかし、世を儚んで30歳で隠居。俳諧師として、西国を数年間旅行して歩いた。

越後長岡藩主(城主)牧野氏は、越後三根山に陣屋を持っていた旗本・牧野氏の本家(本藩)にあたるが、その長岡城下の興国寺に、1858年安政5年)滞在して、永住。

多くの門人を育てた。代表的な門人に真砂女がいる。

元治元年(1864年)には、真砂女、片山翠谷(2代目)とともに「悠久山奉額句合」の選者を務めた。江戸時代後期には江戸では、一定以上の教養を持つ町人・武士の間で、俳諧が流行していたが、越後にもこれが及んでいたことがわかる。

越後三根山に陣屋を持っていた6000石の旗本・牧野氏は、幕末の1863年に、新田開墾分5000石を打ち出して、諸侯となり無城大名に列した。

一部の解説によると、倉地百汲の父は、三根山藩の家老であったとするが、これは誤りである。倉地百汲が隠居した年でさえ、いまだ牧野氏は、越後三根山藩主に昇格していない。

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脚注[編集]