保義可汗

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保義可汗(ほぎかがん、拼音:Bǎoyì Kĕhàn、? - 821年)は、回鶻可汗国の第9代可汗[1]。名は不明。可汗号はアイ・テングリデ・クト・ボルミシュ・アルプ・ビルゲ・カガン(Ay täŋridä qut bolmiš alp bilgä qaγan)[2]で、より保義可汗の称号(美称)を加えられた。

生涯[編集]

元和3年(808年)5月、滕里野合倶録毘伽可汗が死去したので、憲宗は宗正少卿の李孝誠に新たな可汗を冊立させて愛登里羅汨没蜜施合毘伽保義可汗とした。

元和4年(809年)、保義可汗[3]は唐に遣使を送って国号を迴鶻(回鶻)[4][5]と改めたことを報告した。

元和8年(813年)4月、保義可汗は使者の伊難珠を唐に遣わして請婚した。しかし、唐がそれに応じなかったため、保義可汗は3千騎を率いて鸊鵜泉に至り、唐の辺境を脅かした。これによって唐の辺軍は戒厳令を敷き、両国に緊張が走った。憲宗は宗正少卿の李孝誠と太常博士の殷侑を回鶻に赴かせ、回鶻を説得させたが、保義可汗は求婚をあきらめず、元和9年(814年)にまた合達干(アルプ・タルカン)らを送って求婚させた。

長慶元年(821年)2月、保義可汗が薨去したので、穆宗は使者を送って弔問させ、4月に新たな回鶻君長を冊立して君登里羅羽録没蜜施句主禄毘伽可汗[6]とした。

保義可汗の碑文[編集]

保義可汗が残した碑文を『カラ・バルガスン碑文』という。『カラ・バルガスン碑文』とは、オルドゥ・バリクカラ・バルガスン)の南に保義可汗を称えるために建てられた碑文で、ウイグル語ソグド語漢語の3カ国語で記述された。初代の懐仁可汗から第7代の懐信可汗までの歴史を収録し、マニ教の導入と保護に詳しく記されているので、ウイグル可汗国の公式歴史文献であり、第1級史料といえる。現在はモンゴル国カラ・バルガスン遺跡オルホン川西岸)にある。

脚注[編集]

  1. ^ 資料によっては第8代となっている。滕里野合倶録毘伽可汗#滕里野合倶録毘伽可汗は存在したか?を参照。
  2. ^ 「月天の聖霊より幸を授かりし勇猛にして賢明なるカガン」の意。
  3. ^ 原文では「藹徳曷里禄没弭施合蜜毘伽可汗」。
  4. ^ 『旧唐書』によると、迴鶻(回鶻)の意味は「迴旋軽捷如鶻」であるという。それまでの国号は迴紇(回紇)であった。
  5. ^ この文は『旧唐書』であるが、『新唐書』では貞元4年(788年)の武義成功可汗のときに行われている。また、『宋史』外国六では「元和中、改為回鶻」とある。
  6. ^ これは『旧唐書』の記述であり、『新唐書』では「君登里羅羽録没蜜施句主禄毘伽崇徳可汗」としている。

参考資料[編集]

先代
滕里野合倶録毘伽可汗
回鶻可汗国の可汗
第9代:808年 - 821年
次代
崇徳可汗