佐伯秀男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さえき ひでお
佐伯 秀男
佐伯 秀男
燃ゆる大空』「奈良大尉」役(1940年)
本名 鬼武 秀治おにたけ ひではる
別名義
  • 三原 秀夫みはら ひでお
  • 佐伯 泰輔さえき たいすけ
生年月日 (1912-01-09) 1912年1月9日
没年月日 (2003-11-01) 2003年11月1日(91歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市赤坂区表町
死没地 日本の旗 日本 東京都
職業 俳優ファッションモデルボディビルダー
ジャンル 劇場用映画現代劇成人映画)、テレビ映画テレビドラマ新劇
活動期間 1932年 - 2003年
配偶者
  • 霧立のぼる (1942年 - 1944年)
  • 鬼武君代 (1971年 - 2003年)
著名な家族
所属劇団 築地座 (1932年 - 1934年)
主な作品
 
受賞
第26回東京ボディビル選手権大会マスターズ特別賞(1991年)
テンプレートを表示

佐伯 秀男(さえき ひでお、1912年1月9日 - 2003年11月1日)は、日本俳優ファッションモデルボディビルダーである[出典 1]。本名は鬼武 秀治おにたけ ひではる[出典 2]、1956年 - 1959年の一時期、三原 秀夫みはら ひでおと名のった時期があり[出典 3]佐伯 泰輔さえき たいすけの別名も持つ[出典 4]

人物・来歴[編集]

新劇からPCL・東宝へ[編集]

1912年(明治45年)1月9日、東京府東京市赤坂区表町[注釈 1]に生まれる[出典 5]。父・鬼武次郎は、近衛師団騎兵連隊に所属する大日本帝国陸軍軍人であった[2]

都會の怪異 7時03分』の佐伯(当時23歳、1935年)。

1930年(昭和5年)3月、旧制・青山学院中等部[注釈 2]を卒業し、同年4月、明治大学に進学する[2]。その後、同学を中途退学し、1932年(昭和7年)2月に友田恭助田村秋子夫妻らが立ち上げた新劇の劇団、築地座の第一期研修生になり、同年、研修を終えて正式に団員になる[1][2]。1934年(昭和9年)9月、同座から毛利菊枝清川玉枝らが脱退、それに同行して創作座の立ち上げに参加する[1]、とする説と、同年同月、ピー・シー・エル映画製作所に入社したとする説があり[2][4]、いずれの資料でも、同年11月15日に公開された『あるぷす大将』(監督山本嘉次郎)に出演、満22歳で映画界に登場、とする[出典 6]

同社は前年1933年(昭和8年)12月5日に設立されたばかりのトーキーのための新しい映画会社であり、同社において、「新しい感覚をもった二枚目」と評価され[2][4]、入社早々助演クラスに位置し、1936年(昭和11年)9月1日に公開された『君と行く路』(監督成瀬巳喜男)では主演の大川平八郎の弟役、1937年(昭和12年)7月1日に公開された『雪崩』(監督成瀬巳喜男)では霧立のぼる(1917年 - 1972年[20])の相手役として主演する[出典 7]。翌週の同年7月11日に公開された『白薔薇は咲けど』(監督伏水修)では入江たか子(1911年 - 1995年)の相手役を務め、『美しき鷹』(監督山本嘉次郎、1937年)、『新柳桜』(監督荻原耐、1938年)、『四ツ葉のクローバ』(監督岡田敬、同年)、『街に出たお嬢さん』(監督大谷俊夫、同年)と立て続けに霧立の相手役として主演した[出典 8]。同年5月には佐伯が歌った「ヒヤシンスの唄」(作詞佐伯孝夫、作編曲飯田信夫)というレコードが発売されている[6][21]。その間、同年9月10日には4社合併によって同社は東宝映画になり、佐伯は同社に引き続き東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)に所属した[出典 9]。同年10月に発行された『実業之日本』第19号に、佐伯は「僕の兵役」という特集に小文を掲載しており、この時点以前に兵役に就いていた[6][22]

同僚の霧立のぼると結婚(1942年)。

霧立のぼるとの結婚と別離[編集]

1942年(昭和17年)4月1日から第二次世界大戦戦時体制によって、全作品を映画配給社が一括配給することになり、各社の製作本数が激減する[23]。佐伯はひきつづき同社に所属しており、同年9月付の東宝の俳優専属者のリストにその名がみられる[17]。同年、共演者であった霧立のぼると結婚、佐伯は、同年末には、大日本映画製作(大映)に移籍した[1]。翌1943年(昭和18年)8月25日には長女・治美(のちの女優・霧立はるみ)が生まれている[20]。妻の霧立は、産前4か月に当たる同年4月29日に公開された『あさぎり軍歌』(監督石田民三)に出演したのを最後に東宝映画を退社している。同年10月21日には、京都座での川崎弘子の舞台初出演『すみだ川』が上演されたが、佐伯はこれに伊庭駿三郎とともに特別出演している[24]。同年12月1日には、同じく京都座で永田一党の『船乗り動員令』にも特別出演した[24]

霧立とは1944年(昭和19年)には離婚している[20]。霧立は同年4月には「霧立のぼるとあざみ楽団」を結成、浪花座を始めとし、実演の舞台に忙しかった[20]

1945年(昭和20年)1月25日に公開された『姿なき敵』(監督千葉泰樹)は、日本の国際放送「ラジオ・トウキョウ」を描いた作品であり、佐伯は宇佐美淳とともに出演、「小野放送小隊長」を演じている[25][26]北山節郎は千葉とのやりとりで「敗戦直後、フィルムは焼却された」との回答を得たが[25]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)は同作の上映用プリントを所蔵している[8]。佐伯は、大戦後の同年には大映を退社、1946年(昭和21年)、マキノ正博が撮影所長の時代の松竹下加茂撮影所に契約[1][2]溝口健二が監督した『女優須磨子の恋』(1947年)に出演、「東儀鉄笛」役を演じた[出典 10]。離婚した相手の霧立も、同年8月22日に公開された、同撮影所が製作した『東京特急四列車』(監督市川哲夫)に出演している[20]。同年10月15日には、マキノが構成・演出した「『のんきな父さん』音楽祭」が円山公園音楽堂で開かれ、佐伯は轟夕起子灰田勝彦柳家金語楼小杉勇らとともに出演しているが[24]、この直後に小杉を主役にした映画『のんきな父さん』(監督マキノ正博)が製作され、佐伯はこれにも出演し、同年12月1日に全国公開された[出典 10]

アサヒグラフ』(1955年11月9日号)に掲載された佐伯(当時43歳)。

脇役・端役からの脱却[編集]

1949年(昭和24年)以来フリーランスとなる、と『日本映画大鑑 映画人篇』(1955年3月発行)の佐伯の項には記載されている[1]。同書によれば、当時の趣味はゴルフボクシングであったという[1]。『日本映画俳優全集・男優編』(1979年10月23日発行)の佐伯の項によれば、1951年(昭和26年)には東宝、1956年(昭和31年)には新東宝と専属契約をした旨の記述があるが[2]、東宝が発行する資料によれば、1956年5月には三原 秀夫の名で東宝と契約している[17]。三原名義で多数の作品にほとんど端役で出演している[出典 11]。1959年(昭和34年)4月5日に公開された『まり子自叙伝 花咲く星座』(監督松林宗恵)が三原名義の最後の出演作であり、同作を期に東宝を去る[出典 11]

佐伯は同年4月13日に放送されたラジオ東京テレビ(現在のTBSテレビ)のテレビドラマ東京0時刻 制服に手を出すな』に、主演として迎えられた[15]。佐伯が新東宝の作品に初めて出演したのは、記録の上では、同年7月4日に公開された三原葉子の主演作『海女の化物屋敷』(監督曲谷守平)である[出典 12]。翌1960年(昭和35年)には、同年4月3日に放映が開始されたニッサンプロダクション(のちのNMCプロダクション)製作の連続テレビ映画怪獣マリンコング』を皮切りに、多くのテレビ映画、テレビドラマに出演を開始する[15]

1964年(昭和39年)6月に公開された『女の十戒』(監督片岡均)に出演[16]、以降、『日本拷問刑罰史』(監督小森白、1964年)、『赤い肌の門』(監督片岡均、1965年)などの独立系成人映画に出演を開始、『続・妾』(監督大橋秀夫、1964年)では主演した[出典 13]。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子橘桂子、城山路子(光岡早苗と同一人物)、内田高子香取環新高恵子松井康子西朱実朝日陽子火鳥こずえ華村明子森美沙湯川美沙、光岡早苗、路加奈子有川二郎里見孝二川部修詩とともに佐伯の名を挙げている[27]。確かに佐伯は端役・脇役の多くなった一般映画から去り、テレビ映画や成人映画に活路を見出したといえる。記録に残る独立系成人映画の最後の出演作は、1967年(昭和42年)2月21日に公開された『情欲の黒水仙』(監督若松孝二)であった[出典 13]

最高齢の肉体美[編集]

佐伯がボディビルディングを始めたのは、1968年(昭和43年)だという[4]。1971年(昭和46年)、満59歳で再婚し、台東区柳橋に居を構えるとともに、妻とともに軽食店の経営を始めた[2][5]。以降はシニアのファッションモデルとして活動し、ボディビルも継続した[4][5]。離別した前妻の霧立のぼるは、同年6月に劇団新派を退団し、佐伯の生地の近くの港区南青山のマンションに娘と二人で暮らしていたのだが、娘が渡米した留守中の1972年(昭和47年)3月22日未明に睡眠薬摂取過多により満55歳で孤独死した[20]

1976年(昭和51年)10月1日に公開された『バカ政ホラ政トッパ政』(主演菅原文太)、翌1977年(昭和52年)1月22日に公開された『やくざ戦争 日本の首領』(主演鶴田浩二)という、東映京都撮影所が製作、中島貞夫が監督した2作品に出演、佐伯 泰輔の名でクレジットされた[出典 14]。1978年(昭和53年)4月8日に公開された『多羅尾伴内』(監督鈴木則文)では「吉村会頭」役で出演、「佐伯秀男」名義では11年ぶりの映画出演であった[出典 13]

1981年(昭和56年)に地下鉄で佐伯をみかけた池波正太郎は、「先日、久しぶりで佐伯秀男を地下鉄の車内で見た。若いころ、ボクシングできたえた、がっしりとした躰にスポーティなスーツをまとい、大きな旅行鞄を二つも提げ、若い者も顔負けの足取りで、新橋の地下鉄ホームを去って行った」と記している[28]。当時佐伯は満69歳[2][4]、池波は満61歳であった[29]。1991年(平成3年)、第26回東京ボディビル選手権大会マスターズの部で特別賞を受賞する[4]。最晩年まで「現役最高齢のファッションモデル」、「現役最高齢のボディビルダー」として活動した[4][5]。1999年(平成11年)にはサンスターの歯磨広告に87歳のボディビルダーとして登場、現役ぶりを示し、2001年(平成13年)9月15日に公開された『忘れられぬ人々』(監督篠崎誠)に出演、主演の三橋達也(1923年 - 2004年)、大木実(1923年 - 2009年)、青木富夫(1923年 - 2004年)のほか、内海桂子(1922年 - 2020年)、風見章子(1921年 - 2016年)、星美智子(1927年 - )ら、佐伯よりも10歳若い世代の老優たちに交じって「戦友会の鈴木」という役を演じた[出典 15]

2003年(平成15年)11月1日、19時35分、胃がんのため死去した[4][5]。91歳没。没後半年に当たる2004年(平成16年)3月には、妻・君代の監修により著作物をまとめた『追悼 映画俳優佐伯秀男 あるがままに輝きて』が発行された[3][6]

フィルモグラフィ[編集]

特筆以外はすべて「佐伯秀男」名義、「出演」である[出典 16]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)などの所蔵状況についても記す[8]

1930年代[編集]

女優須磨子の恋』(1947年)。

1940年代[編集]

太平洋の鷲』(1953年)。

1950年代[編集]

1960年代[編集]

1970年代 - 2000年代[編集]

テレビドラマ[編集]

ビブリオグラフィ[編集]

国立国会図書館蔵書を中心とした一覧である[3][6]

掲載エッセイ等[編集]

単著[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 現在の東京都港区元赤坂近辺
  2. ^ 現在の青山学院高等部
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 「三原秀夫」名義で出演。
  4. ^ a b 「佐伯泰輔」名義で出演。
  5. ^ 「佐伯秀雄」名義で出演。
  6. ^ a b 「佐伯秀夫」名義で出演。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l キネ旬[1955], p.73.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s キネ旬[1979], p.232.
  3. ^ a b c d 佐伯秀男Webcat Plus, 2015年3月17日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 佐伯秀男コトバンク、2015年3月17日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h 佐伯秀男氏死去 俳優共同通信、2003年11月6日付、2015年3月17日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2015年3月17日閲覧。
  7. ^ a b c d e f Hideo SaekiHideo Mihara, インターネット・ムービー・データベース (英語)、2015年3月17日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 佐伯秀男三原秀夫東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年3月17日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m 佐伯秀男三原秀夫佐伯秀夫佐伯泰輔文化庁、2015年3月17日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n 佐伯秀男三原秀夫佐伯秀雄佐伯泰輔KINENOTE, 2015年3月17日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j 佐伯秀男allcinema, 2015年3月17日閲覧。
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m 佐伯秀男三原秀夫佐伯泰輔日本映画データベース、2015年3月17日閲覧。
  13. ^ a b c d e f g 佐伯秀男佐伯秀雄日本映画製作者連盟、2015年3月17日閲覧。
  14. ^ a b c d e f g 佐伯秀男三原秀夫東宝、2015年3月17日閲覧。
  15. ^ a b c d 佐伯秀男佐伯秀夫佐伯秀雄テレビドラマデータベース、2015年3月17日閲覧。
  16. ^ a b c d 佐伯秀男デジタルミーム、2015年3月17日閲覧。
  17. ^ a b c 東宝映画俳優専属者リスト、東宝、2015年3月17日閲覧。
  18. ^ a b c ゴジラ大百科 1993, p. 129, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
  19. ^ a b 中島[2004], p.85.
  20. ^ a b c d e f キネ旬[1980], p.254-256.
  21. ^ ヒヤシンスの唄、国立国会図書館、2015年3月17日閲覧。
  22. ^ 実業[1937], p.158-172.
  23. ^ 年鑑[1942], p.10/24-36.
  24. ^ a b c 国立[2005], p.93, 102, 294.
  25. ^ a b 北山[1988], p.167.
  26. ^ 桜本[1993], p.167-168.
  27. ^ 田中[1976], p.85-86.
  28. ^ 池波[2004], p.22.
  29. ^ 池波正太郎、コトバンク、2015年3月17日閲覧。
  30. ^ 東宝特撮映画全史 1983, p. 535, 「主要特撮作品配役リスト」
  31. ^ a b 東宝特撮映画全史 1983, p. 534, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」

出典(リンク)[編集]

参考文献[編集]

  • 実業之日本』第40巻第19号所収、実業之日本社、1937年10月発行
  • 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
  • 『日本映画大鑑 映画人篇』、『キネマ旬報』第113号、キネマ旬報社、1955年3月発行
  • 日本映画発達史 V 映像時代の到来』、田中純一郎中公文庫中央公論社、1976年7月10日 ISBN 4122003520
  • 『日本映画俳優全集・男優編』、『キネマ旬報』第772号、キネマ旬報社、1979年10月23日発行
  • 『日本映画俳優全集・女優編』、『キネマ旬報』第801号、キネマ旬報社、1980年12月31日発行
  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 
  • 『ラジオ・トウキョウ 敗北への道』、北山節郎田畑書店、1988年5月発行 ISBN 4803802149
  • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一Gakken〈Gakken MOOK〉、1993年12月10日。 
  • 『大東亜戦争と日本映画 立見の戦中映画論』、桜本富雄青木書店、1993年12月発行 ISBN 4250930378
  • 『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』、中島貞夫ワイズ出版、2004年7月発行 ISBN 4898301738
  • 『最後の映画日記』、池波正太郎河出書房新社、2004年10月発行 ISBN 430901674X
  • 『近代歌舞伎年表 京都篇 別巻 昭和十八年-昭和二十二年補遺・索引』、国立劇場近代歌舞伎年表編纂室、八木書店、2005年4月発行 ISBN 4840692335

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

画像外部リンク
日本拷問刑罰史
1964年10月27日公開
小森白プロダクション新東宝興業
続・妾
1964年12月21日公開
国映
激情のハイウェー
1965年8月公開
葵映画
処女の反撥
1965年10月公開
国際ビデオセンチュリー映画社
甘い唾液
1965年11月公開
東京三映社
忘れられぬ人々
2001年9月15日公開
ビターズエンドタキコーポレーション・ベンチャーフィルム・東京テアトル