京塚昌子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
きょうづか まさこ
京塚 昌子
京塚 昌子
1955年
本名 平塚 マサ子
生年月日 (1930-03-16) 1930年3月16日
没年月日 (1994-09-23) 1994年9月23日(64歳没)
出生地 東京府
死没地 東京都
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
職業 女優
ジャンル テレビドラマ映画舞台
活動内容 テレビドラマの母親役
配偶者 独身
主な作品
テレビドラマ
肝っ玉かあさん』シリーズ
かあさんの四季
ありがとう』〈第4シリーズ〉
おふくろさん
テンプレートを表示

京塚 昌子(きょうづか まさこ、1930年3月16日 - 1994年9月23日)は、日本の女優。第10回芸術祭賞奨励賞受賞。

来歴[編集]

東京都出身。1946年、疎開先の佐野高等女学校(現・栃木県立佐野女子高等学校)卒業[1]。高校卒業後、新派へ入団して研究生となる。

川口松太郎に認められて[2]、1955年「月夜鴉」で初めて主役を演じ、同年「離れ猪」「太夫さん」の演技で芸術祭奨励賞を受賞[1]

1959年(昭和34年)8月23日から1972年(昭和47年)2月6日まで放映されたTBSテレビ系列の東芝日曜劇場人気シリーズ『カミさんと私』で伊志井寛の相手役として人気を博す。

1963年には東宝演劇部入りして、舞台「マイ・フェア・レディ」などに出演[2]

1968年、伊志井の娘である石井ふく子プロデュース作品『肝っ玉かあさん』で、蕎麦屋を切り盛りするしっかり者で涙もろい母親役を好演。『ありがとう』(第4シリーズ)などでも佐良直美の母親役を演じ、1970年代のテレビ業界において、「恰幅が良く、割烹着が似合う母親役」で絶大な人気を誇った。

京塚は森光子加藤治子山岡久乃らとともに、「日本を代表するお母さん女優」と呼ばれ、CMにも起用されていた。

上記の石井プロデュース作品が当たり役となったことから、「石井組(ファミリー)」の一員に数えられていた。

1971年糖尿病を患い、1983年に公演先の愛媛県松山市脳梗塞で倒れる。1984年から1985年にかけては後遺症に耐えながら、一度は復帰したものの症状が悪化。

1986年4月には「体調が不本意なため、納得のできる仕事ができない」と休業宣言し、山梨県甲府市の病院に入院した。その後は静岡県長野県と各地の病院を転々として晩年は長い闘病生活を送り、事実上の芸能界引退状態となった。

1994年9月23日午後7時過ぎ、東京・田町の病院の一室で、心不全のため死去。64歳没。

人物[編集]

  • 母親役のイメージが強いが、私生活では数々の浮名を流し、一時は同棲していたこともあった。戸籍上は独身を貫いた。
  • 大の酒豪であり、ウイスキーのボトルを一晩で3本も空けたこともあった。
  • 馬主の経歴もあった。

エピソード[編集]

  • 山盛り食堂』(脚本・向田邦子)出演時には、当時子役だった杉田かおるが京塚に抱きつく場面を撮影中に杉田が腹の肉をつかんだと激怒した。その後に杉田は京塚の意向で降板させられた。(杉田かおる自伝「すれっからし」より)。
  • 若い頃はスレンダーな美人だったが20代の頃、盲腸の手術をしたことで体質が変わり、どんどん太り始めたという。

出演作品[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

CM[編集]

関連人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 日外アソシエーツ現代人物情報
  2. ^ a b 読売人物データベース
  3. ^ 『東京ガス 暮らしとデザインの40年 1955→1994』1996年2月1日発行、株式会社アーバン・コミュニケーションズ。128頁~131頁