于栗磾

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于 栗磾(う りつてい、生没年不詳)は、五胡十六国時代北魏軍人代郡の人。

生涯[編集]

北魏に仕え、登国年間に冠軍将軍に任じられ、新安県子に封じられた。

396年10月、寧朔将軍公孫蘭とともに歩騎2万を率いて、自ら太原にあった前漢韓信が用いた山隘の故道を密かに切り開き、後燕皇帝慕容宝中山で急襲した。魏王拓跋珪が至り、故道が修理されているのを見て大いに喜び、于栗磾に名馬を下賜した。

中山攻略の功により、新安県侯に封じられた。

永興年間、関東は群盗が多く起こり、北魏に反抗していた。于栗磾は群盗討伐の命を受け、これを全て討伐した。

410年2月、詔により、歩騎1万を率いて平陽に鎮した。

鎮遠将軍・河内鎮将に任じられ、新城県男に封じられた。統治は慰撫と教導をもってあたり、威光と恩恵が非常にあった。

416年9月、東晋太尉劉裕後秦討伐にやってきた。于栗磾は河北が混乱することを憂慮し、黄河の河上に防塁を築いて自ら守りについた。防備は厳密であり、斥候すら防塁を通ることはできなかった。劉裕はこの事態を大いに恐れ、進軍できずにいた。劉裕は于栗磾に書を送り、孫権関羽を討った先例を引用し、西進する際の不可侵を求めた。于栗磾はこの書状を明元帝拓跋嗣に送り、指示を仰いだ。拓跋嗣はこれを許し、于栗磾は劉裕の西進に対して、不可侵の対応を採った。併せて、于栗磾に黒矟将軍の号を授けた。

419年2月、東晋の相国行参軍王康が百の兵で金墉に立て籠もった。北魏の司馬文栄らが各々の兵力をもって金墉周辺に陣取り、于栗磾は遊騎兵として邙山上に布陣していた。于栗磾らは次々と金墉を攻めたが、王康は2カ月に渡って城を守り通した。劉裕は援軍を送り、于栗磾らは散じて逃げ去った。

422年11月、晋兵大将軍奚斤とともに虎牢を攻めるため、別働隊として3千を率いて河陽に屯し、南渡して金墉の攻略を試みた。これに対し、南朝宋の冠軍将軍毛徳祖は振威将軍竇晃に5百の兵で小塁、緱氏県令王瑜に4百の兵で監倉、鞏県令臣琛に5百の兵で小平、参軍督護張季に5百の兵で牛蘭を守らせた。洛陽県令楊毅が2百騎で各所への支援を行わせ、これらの防御網で于栗磾軍の渡河を阻んだ。

12月、于栗磾は麾下の長史に1千の兵で、小塁を守る竇晃・楊毅を攻めさせた。しかし、竇晃・楊毅に逆撃され、2百の兵が捕虜となった。その後、奚斤が5千騎を率い、于栗磾も渡河して共に小塁を攻めた。四方から攻撃を加え、竇晃・楊毅らの兵は少なく、竇晃らは皆、重傷を負った。

423年1月、于栗磾は金墉を攻め、南朝宋の河南郡太守王涓之は城を棄てて敗走した。豫州刺史に任じられ、洛陽に鎮した。将軍位はそのままとされ、新安県侯に封じられた。

洛陽は歴代王朝の都であったものの、長年の争乱によって城関は荒れ果て、周囲は炊煙も上っていない有様であった。于栗磾は荒れ地を切り開き、民衆を集めて慰撫した。徳刑は既存の法に則り、これによって百姓らの心を掴んだ。

拓跋嗣が盟津へ行幸した際、河に橋を架けられかと于栗磾に尋ねた。于栗磾は「その昔、杜預が橋を造ったことがございます」と答え、大船の船団を編成して冶坂[1]に橋を架けた。六軍がこの橋で河を渡り、拓跋嗣は橋の美しさに深く感じ入った。

426年9月、太武帝拓跋燾を攻めることを決め、勅令により、宋兵将軍周幾とともに陝城を攻めた[2]。夏の弘農郡太守曹達は戦わずに逃走した。于栗磾らは勝ちに乗じ、三輔まで進軍した。この功により、新安県公に封じられ、安南将軍を加えられた。

北魏軍の統万攻略後、蒲坂鎮将に遷った。当時、弘農・河内上党の三郡に盗賊等が蔓延っていたが、于栗磾はこれら全てを討滅した。

虎牢鎮大将に転じ、都督河内諸軍事を加えられた。その後、使持節・都督兗相二州諸軍事・鎮南将軍・枋頭都将に任じられた。

外都大官に任じられ、公平な裁判を行い、その仕事ぶりは高く称賛された。

75歳で亡くなり、東園の秘器・朝服1具・衣1襲を贈られ、太尉を追贈された。

人物・逸話[編集]

  • 左右どちらからでも騎射ができ、武芸は人に過ぐると称された[3]
  • 後燕との戦いに勝利した後、祝勝の宴が催された。拓跋珪は酒を置いて「卿は我の黥布彭越である」と称え、金帛を下賜した[3]
  • 拓跋珪は白登山において、が数頭の子を引き連れているのを見た。拓跋珪は振り返って、あの熊らを素手で倒せるかと于栗磾に尋ねた。于栗磾は「天地において、人は最も貴いものです。もしも素手で挑んで勝てねば、壮士を無駄に失うだけではありません。御前まで追い立ててもらえれば、坐したまま、これを制してみせましょう」と答えた。于栗磾は熊らを尽く捕え、これを見た拓跋珪は謝った[3]
  • 黒矟を好んで用い、于栗磾のトレードマーク的な存在となっていた。劉裕は于栗磾を見て、これを興味深く思い、彼への書面の題名を『黒矟公麾下』とした。宋書において、于栗磾は『黒矟公』と記されている[4]
  • 若年から晩年に至るまで軍事に携わり、事に臨んでは善く決断し、向かうところ敵無しであった。目下の者にも謙虚に接し、刑罰をみだりに加えることはなかった。拓跋燾は于栗磾の死を悼み、たいへんに惜しんだ[3]
  • 後年、の詩人の杜牧の作品『東兵長句十韻』において、黒矟将軍の名で登場している[5]

家系[編集]

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脚注[編集]

  1. ^ 『北史』第23 于栗磾では、野阪と記されている。
  2. ^ 『魏書』巻30 周幾、『北史』巻25 周幾では、洛州刺史と記されている。
  3. ^ a b c d 『魏書』巻31 于栗磾、『北史』第23 于栗磾
  4. ^ 『魏書』巻31 于栗磾、『北史』第23 于栗磾、『宋書』巻45 王鎮悪、『宋書』巻95 索虜
  5. ^ 『樊川文集』第5

参考文献[編集]