丹羽氏定

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丹羽 氏定
時代 安土桃山時代から江戸時代前期
生誕 元和元年(1615年)
死没 明暦3年4月16日1657年5月29日
別名 勘助、氏憲(初名)
戒名 興昌院殿桃雲宗萼大居士
墓所 岐阜県恵那市岩村町大名墓地
官位 従五位下式部少輔
美濃岩村藩
氏族 譜代丹羽氏一色氏
父母 父:丹羽氏信、母:水野勝成の養女(水野忠胤の娘)
兄弟 氏定
勘十郎[1](次男)
氏春(三男)
佐助[1](四男)
渡辺綱貞正室(長女)
(次女)[1]
(三女)[1]
三枝守俊正室(四女)
丹羽茂利[2]養女(五女)
鈴木光廣[3]室(六女)
上田玄蕃[4]室(七女)
正室:高木正成の娘
丹羽氏純(長男)
勘十郎[1](次男)
智鏡院(相田権左衛門室)(長女)
土井利直正室[5](次女)
多阿(加賀爪直清正室)(三女)
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大名墓地(岐阜県恵那市岩村町)丹羽氏定の墓

丹羽 氏定(にわ うじさだ)は、江戸時代前期の大名美濃国岩村藩2代藩主。氏次系丹羽家3代。

略歴[編集]

元和元年(1615年)、伊保藩主の丹羽氏信の嫡男として三河国加茂郡伊保陣屋にて生まれた。

寛永15年(1638年)4月27日に父の氏信が1万石を加増されて2万石となり、12月に国替で岩村藩から浜松藩に移封した松平乗寿の後を受けて、岩村藩に移封された。

正保3年(1646年)11月、父の氏信が没したため、岩村藩2万石を嗣いだ。同年11月11日、弟の丹羽氏春恵那郡の野井村と藤村の一部の1000石を分与して旗本としたため、1万9000石となった。同年12月30日に従五位下式部少輔に叙せられた。

正保4年(1647年)と、承応2年(1653年)に、大坂加番に任じられた。

承応年間には高坂藩主の加賀爪直清に嫁した娘・多阿姫が難産で苦しんだため、日蓮宗の日輝上人の祈祷を受けたところ安産をすることができた。氏定は、これを機会に一寺を建てて、日輝上人を迎えようとしたが、代わりに伊豆国玉沢の妙法華寺の僧・日亮を紹介されたので、日亮によって妙法寺を開山した。

慶安4年(1651年)、三河刈谷藩主の松平定政が、大名家を放棄して遁世したため、丹羽氏定と水野忠善刈谷城に赴き、城を請け取った。

明暦3年(1657年)4月16日に江戸にて没した。享年43。岩村藩主は長男の丹羽氏純が継いだ。

当時岐阜県恵那市岩村町に存在した丹羽氏の菩提寺の妙仙寺に葬られたが、現在は寺は存在せず大名墓地に墓が残されている。

正室(高木正成の娘)は元禄14年(1701年)、江戸深川の下屋敷にて83歳で没した。法号は芳春院殿蘭室永香大姉。

参考文献[編集]

  • 『岩村町史』 十五 岩村藩主時代 2 丹羽氏 p186~p192 岩村町史刊行委員会 1961年
  • 『恵那郡史』 第七篇 第二十八章 諸藩分治 其一 丹羽氏五代 p213~p218 恵那郡教育会 大正15年
  • 『恵那市史 通史編 第2巻』 第二章 諸領主の成立と系譜 第三節 岩村藩 二 丹羽家 p121~p125 恵那市史編纂委員会 1989年
  • 『寛政重修諸家譜 第2 新訂』 第八十五 足利支流―一色 二篇・丹羽 二篇 p168~p175 堀田正敦 等 続群書類従完成会 1964年

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 早世
  2. ^ 丹羽家の家臣
  3. ^ 丹羽家の家臣
  4. ^ 水野勝俊の家臣
  5. ^ 後に離婚