丹下砦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
丹下砦
愛知県
丹下砦跡付近 (2020年(令和2年)8月)
丹下砦跡付近
(2020年(令和2年)8月)
築城主 織田信長
築城年 1559年永禄2年)
遺構 なし
指定文化財 未指定
再建造物 なし(埋没)
位置 北緯35度5分11.5秒 東経136度57分1.8秒 / 北緯35.086528度 東経136.950500度 / 35.086528; 136.950500北緯35度5分11.5秒 東経136度57分1.8秒 / 北緯35.086528度 東経136.950500度 / 35.086528; 136.950500座標: 北緯35度5分11.5秒 東経136度57分1.8秒 / 北緯35.086528度 東経136.950500度 / 35.086528; 136.950500
地図
丹下砦の位置(愛知県内)
丹下砦
丹下砦
テンプレートを表示

丹下砦(たんげとりで)は、愛知県名古屋市緑区鳴海町清水寺にあった織田信長今川義元との戦いの際に鳴海城を囲むように築いた三の一つ。

概要[編集]

1559年永禄2年)の山口教継教吉親子の切腹により、鳴海城は南の大高城とともに今川義元直属の支配下となった。織田信長はこれに対抗すべく、鳴海城を取り囲むように丹下砦、善照寺砦中嶋砦の三砦を築き、さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦鷲津砦を築いた。丹下砦には水野忠光(弥三郎、帯刀)、山口守孝(海老之丞、広憲)が配置された。砦の建築は孤立した前線基地へ敵勢をおびき寄せる目的もあった。

丹下砦には鳴海城の北方、15世紀後半まで集落があった土地の古屋敷が利用された。砦は東西約64メートル、南北約50メートルと、東西46メートル、南北50メートルの2つの曲輪を中心に、その周囲に一辺100メートルの外構えを巡らしたもので、館型の城郭中心部と、広い外郭の組み合わせであった[1]

現在の光明寺(名古屋市緑区)の裏山が城跡に当たるが、大部分が宅地化され、城址碑も存在しない。砦跡を含む一帯は「清水寺遺跡」と呼ばれ[2][3]、現代における発掘調査では、丹下砦の溝状遺構のほか、縄文時代貝層平安時代経筒外容器なども発掘された。1860年には鳴海代官所がこの地に置かれた記録が残っている。

丹下砦の主な守将[編集]

丹下砦には340人ほどが駐在した[4]

脚注[編集]

  1. ^ 東西約84メートル、南北約78メートルの平山城であったともいう(日本城郭大系』 9巻、新人物往来社、1979年、293頁。 
  2. ^ 「鳴海周辺みどころ一覧3」名古屋市公式HP
  3. ^ 「マップあいち(愛知県文化財マップ)」愛知県公式HP
  4. ^ a b c d e f g 愛知の城 丹下砦”. shiro200303.sakura.ne.jp. 2023年11月25日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i 織田家の総司令官、佐久間信盛(信盛の追放)2 - 戦国徒然(麒麟屋絢丸) - カクヨム”. カクヨム - 「書ける、読める、伝えられる」新しいWeb小説サイト. 2023年11月25日閲覧。
  6. ^ 人物往来社 1966, p. 227.
  7. ^ 歴史図書社 1980, p. 185.
  8. ^ 帯刀屋敷 | 桶狭間合戦で丹下砦を守った水野帯刀の屋敷跡”. www.oshiromeguri.com. 2023年11月25日閲覧。
  9. ^ 博文館 1913, p. 424.

参考文献[編集]

  • 淡河俊之 『みどりの歴史を訪ねて 鳴海編』 みどり小さな歴史資料館、2009年、39頁。
  • 新修名古屋市史編集委員会/編 『新修名古屋市史』 名古屋市、1998年、623-625頁、673頁。
  • 濱田昭生 『桶狭間の戦い』 東洋出版、2007年、82-83頁。

関連項目[編集]