中島浩司 (サッカー選手)

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中島 浩司
名前
愛称 コージ、ナカジ、国王
カタカナ ナカジマ コウジ
ラテン文字 NAKAJIMA Koji
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1977-08-20) 1977年8月20日(46歳)
出身地 大阪府堺市南区赤坂台
身長 182cm[1]
体重 68kg[1]
選手情報
ポジション MF[1]
利き足 右足
ユース
赤坂台JSC(赤坂台小
1990-1992 堺市立赤坂台中学校
1993-1995 仙台育英高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1996-2002 ブランメル仙台/ベガルタ仙台 83 (4)
2003-2008 ジェフ市原/ジェフ市原・千葉 96 (2)
2009-2013 サンフレッチェ広島 99 (5)
1. 国内リーグ戦に限る。2014年1月22日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

中島 浩司(なかじま こうじ、1977年8月20日 - )は、日本の実業家、元サッカー選手大阪府堺市南区赤坂台出身。仙台育英学園高等学校卒業

株式会社ベアフット代表取締役。

来歴[編集]

実兄の影響で小学5年生から地元赤坂台JSCでサッカーを始め、赤坂台中学時代は一学年下の岡山一成らとプレーした[2]。高校時代は仙台育英高校へ越境入学、高校3年時に東北代表として高円宮杯出場[3]

1996年、当時JFLのブランメル仙台(現ベガルタ仙台)に入団[1][4]。同期に千葉直樹などがいる。チームは1999年から始まったJ2に加盟、中島は背番号10番を背負った時期もあったが、その後出場機会が激減。2002年限りで戦力外通告を受けた[2][3]

Jリーグ合同トライアウトを経て[3]、2003年からジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)へ完全移籍した[1][4]イビチャ・オシム監督に評価され[2]、本職はボランチの他リベロなどユーティリティープレイヤーとして起用され[5]、中盤やイリアン・ストヤノフのバックアッパーとして多くの出場機会を得た。2005年および2006年のナビスコカップ連覇に貢献する[4]。2008年途中にアレックス・ミラーが新監督に就任すると出場機会が激減、同年オフに戦力外通告を受ける[2][3]

リベロおよび中盤ができる器用さを評価され、2009年よりサンフレッチェ広島へ完全移籍[4][5]。再びチームメイトとなったストヤノフのブルガリア代表招集による欠場と怪我および森崎和幸の長期離脱に伴いレギュラーに定着、チームに負傷者が続出する中でチームを支え続けた中島をミハイロ・ペトロヴィッチ監督は「ゴールドマン」と評した[6]。2010年にはキャリア最多となるリーグ30試合出場、翌2010年AFCチャンピオンズリーグ2010も含めた過密日程の中でも試合出場を重ね、チームを支えた[2][7]森保一監督以降は貴重なバックアッパーとして20122013年のJリーグ連覇に貢献、2013年限りで現役を引退[1]。連覇を決めた最終節の鹿島アントラーズ戦では後半48分に途中出場し、引退に華を添えた[4]

2014年、イベントプランナーの奥大地と共に、広島にてスポーツ関連のイベントプロデュースを手がける(株)ベアフットを設立し代表に就任[8]。現役時代からの東北人魂を持つJ選手の会での活動も続ける他、自身も広島を拠点にサッカー解説などの仕事をこなしている。

エピソード[編集]

人物[編集]

家族
  • 息子達もプロサッカー選手の道を歩んでいる。

長男の永弥は、サンフレッチェ広島ユース広島皆実高等学校を経て、ポーランドサッカーリーグ1部(エクストラクラサGKSピアスト・グリヴィツェの練習に参加、高評価を受け同チームとプロ契約を締結した[10]。セカンドチームからのスタート[11]

次男の洋太朗は、サンフレッチェ広島ユースに所属、U-16日本代表、U-17日本代表に選出。2023年9月にサンフレッチェ広島トップチームとプロ契約を締結した(2種登録選手)。父親と同じ背番号35を背負う[12]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1996 B仙台 27 旧JFL 0 0 - 0 0 0 0
1997 17 1 0 0 1 0 18 1
1998 10 21 1 4 0 4 1 29 2
1999 仙台 J2 26 2 2 1 2 1 30 4
2000 8 19 0 1 0 0 0 20 0
2001 0 0 0 0 0 0 0 0
2002 15 J1 0 0 0 0 0 0 0 0
2003 市原 3 0 3 1 3 0 9 1
2004 16 0 5 0 1 0 22 0
2005 千葉 11 1 5 1 2 0 18 2
2006 26 1 4 0 1 0 31 1
2007 27 0 2 0 1 0 30 0
2008 13 0 3 1 1 0 17 1
2009 広島 35 30 0 6 1 2 0 38 1
2010 32 2 4 0 2 0 38 2
2011 33 2 1 0 2 0 36 2
2012 2 1 5 0 0 0 7 1
2013 2 0 0 0 0 0 2 0
通算 日本 J1 195 7 38 4 15 0 248 11
日本 J2 45 2 3 1 2 1 50 4
日本 旧JFL 38 2 4 0 5 1 47 3
総通算 278 11 45 5 22 2 345 18
国際大会個人成績 FIFA
年度 クラブ 背番号 出場 得点 出場 得点
AFCACLクラブW杯
2010 広島 35 6 0 -
2012 - 0 0
2013 4 0 -
通算 AFC 10 0 0 0

その他の国際公式戦

タイトル[編集]

クラブ[編集]

ジェフユナイテッド市原・千葉
サンフレッチェ広島

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 中島浩司選手 現役引退のお知らせ”. サンフレッチェ広島公式 (2010年9月25日). 2014年1月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e 天の邪鬼の躍動 中島浩司”. サンフレッチェ広島公式 (2010年9月25日). 2011年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月29日閲覧。
  3. ^ a b c d 紫熊倶楽部2009年8月号、30-35頁
  4. ^ a b c d e 優勝の瞬間をピッチで迎えた広島MF中島「サッカー人生に悔いなし”. ゲキサカ (2013年12月7日). 2014年1月29日閲覧。
  5. ^ a b 2009サンフレ新戦力<下> MF中島浩司(31)”. 中国新聞 (2009年1月28日). 2009年8月9日閲覧。
  6. ^ 「Jリーグプレーヤーズガイド2011」108頁
  7. ^ 中島、いぶし銀の献身 「経験伝える」”. 中国新聞 (2010年10月29日). 2014年1月29日閲覧。
  8. ^ Jリーガーとイベントプランナーが広島で会社を立ち上げた。”. ひろしま移住メディア HIROBIRO. 2021年6月20日閲覧。
  9. ^ @ogaogaoga399 パンサー尾形 2013年11月26日
  10. ^ サッカーキング (2022年1月11日). “広島皆実の中島永弥がポーランド1部のクラブ ピアスト・グリヴィツェと契約「恩返しができるように」”. サッカーキング. https://www.soccer-king.jp/news/world/20220111/1607809.html 2024年2月9日閲覧。 
  11. ^ TOYA NAKAJIMA ZOSTAŁ NOWYM ZAWODNIKIEM PIASTA II GLIWICE!”. ピアスト・グリヴィツェHP(ポーランド語). 2024年2月9日閲覧。
  12. ^ ゲキサカ (2023年9月1日). “広島がU-17日本代表MF中島洋太朗とプロ契約!! トップチーム背番号は父・浩司氏と同じ「35」に決定”. ゲキサカ. https://web.gekisaka.jp/news/jleague/detail/?391082-391082-fl 2024年2月9日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]