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中華民国建国初期の政党である「進歩党」とは異なります。
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中国進歩党(ちゅうごくしんぽとう)は、日本の明治中期の政党(1894年(明治27年)5月4日 - 1896年(明治29年)3月1日)。代表者は犬養毅。実質的には岡山県を中心とする中国地方の地域政党だった。名前に中国とされているが、中国地方の事のため、中国とは関係がない。
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岡山県で選出された犬養をはじめとする立憲改進党の代議士4名が同党を離党し、これに無所属代議士1名が合流して計5名で結党。当初は改進党と院内会派「議員集会所」を形成して改進党の実質的な別働隊として活動した。同年9月1日の第4回総選挙で1議席を失い、これ以後は独自の会派を形成したが、いわゆる硬六派の一会派として改進党との協調路線を執り続けたことに変わりはなかった。その後この硬六派が合流して進歩党を立党した際に解散した。