上井秀秋

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上井秀秋
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正20年(1592年
改名 秀秋→伝斉(法名)
別名 次郎左衛門
主君 島津義弘
氏族 上井氏諏訪氏
父母 父:上井薫兼、養父:上井親秋
兄弟 覚兼秀秋吉利忠澄正室、桂忠詮正室、
神九郎鎌田兼政
里兼兼政
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上井 秀秋(うわい ひであき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将島津氏の家臣。兄に上井覚兼

上井薫兼の次男として生まれるが、祖父・上井為秋(諏訪為秋)の弟・親秋の養子となった。

島津義弘の家臣として日向国飯野(現・宮崎県えびの市)に在住した。元亀3年(1572年)の「木崎原の戦い」で軍功を上げ、天正4年(1576年)には馬関田(同・えびの市)地頭に任命される。義弘が肥後国守護代として八代に入るとそれに従うが、その際に義弘より家老に任命される。秀秋は当初それを固辞するが、義弘に説得する様に依頼された兄・覚兼に諭されて天正10年(1582年11月28日ようやくそれを了承した。

その後、小林地頭を務め、更に地頭となったが、そのまま綾にて病没した。

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