ヴァフタング1世 (ムフラニ公)

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ヴァフタング1世
ვახტანგ I

ムフラニ公
在位期間
1539年1580年
先代 バグラト1世
次代 テイムラズ1世

出生 1511年
死亡 1580年10月1日
家名 ムフラニ家グルジア語版
父親 バグラト1世
母親 エレネwikidata
配偶者 ホラムゼwikidata
子女
信仰 ジョージア正教会
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ムフラニ公ヴァフタング1世グルジア語: ვახტანგ I მუხრანბატონიグルジア語ラテン翻字: Vakhtang I Mukhranbatoni1511年1580年10月1日)は、カルトリ王国の貴族(タヴァディグルジア語版)。バグラティオニ王家グルジア語版の傍系であるムフラニ家グルジア語版の創始者バグラト1世の嫡男で、1539年にムフラニグルジア語版バトニ)となった。また同時に内カルトリグルジア語版軍管区グルジア語版職権上の司令官でもあった。カルトリ王シモン1世サファヴィー朝イランの捕虜となった際には親サファヴィーのダーウード・ハーングルジア語版政権に対抗するため、貴族たちはヴァフタングを摂政に任命した(1569年–1579年)。

家系[編集]

ヴァフタングはムフラニ家の創始者であるバグラト1世の嫡男として生まれた。バグラトの父で、ヴァフタングの祖父にあたるコンスタンティネ2世は、統一ジョージア王国における形式上の最後の王であった。カルトリ王ルアルサブ1世グルジア語版は従兄にあたり、ルアルサブ1世の子シモン1世は従甥にあたる。弟にはアショタングルジア語版アルチル英語版が、妹にはデディシメディグルジア語版がいた[1][2]

ムフラニ公[編集]

ヴァフタングは1539年に父バグラト1世が修道院に隠遁したことを受けて、ムフラニ公の地位を継承した。ムフラニグルジア語版は敵対するカヘティ王国と国境にある緩衝地帯であり、ヴァフタングはムフラニ家の当主として、幾度かの軍事衝突を経験した。1554年、サファヴィー朝イランの侵攻により、ヴァフタングとその家族は一時的にサムツヘ公国グルジア語版に亡命することを余儀なくされた。弟の一人であるアルチル英語版は1557年にサファヴィー朝に捕らえられ、もう一人の弟アショタングルジア語版は1561年にプホヴィグルジア語版の山岳民族がムフラニを襲撃した際に殺害された[3][1]

カルトリの摂政[編集]

1569年、サファヴィー朝イランのシャータフマースブ1世はカルトリ王シモン1世を捕虜にすると、シモン1世の弟ダヴィトグルジア語版(ダーウード・ハーン)をカルトリ王とした。カルトリ国内のキリスト教徒の貴族のほとんどは、イスラム教徒であったダヴィトを君主として認めず、ヴァフタングをカルトリの摂政とした。これによりダヴィトの権限は、イラン軍が厳しく管理する地域に限定された。1578年、カルトリは再びオスマン・サファヴィー戦争英語版の戦場となった。ダーウード・ハーンは首都トビリシを焼き払い、ララ・ムスタファ・パシャ率いるオスマン帝国の軍にトビリシを明け渡し英語版した。ヴァフタングはカルトリの摂政として戦乱を終わらせるため、アミラフヴァリ公バルジムグルジア語版とクサニ公エリズバルグルジア語版を派遣し、合意を成立させた。この合意について18世紀の歴史家ヴァフシティ・バグラティオニは「滅亡から人々を救った」と述べている[3][1][4]

1578年10月、シャーによる捕虜から解放されたシモン1世はカルトリに戻り、オスマン帝国の守備隊や、古くからの敵を攻撃した。その中で旧敵の一人アミラフヴァリ公バルジムグルジア語版が捕縛された際、ヴァフタングは仲裁に入ったが、ヴァフタングもまたケフヴィ城グルジア語版に投獄された。この件についてはシモンの妃ネスタン=ダレジャングルジア語版が諫めたことで、ヴァフタングはすぐに釈放された。ヴァフタングはその後間もなく1580年に死去。ヴァフタングの甥エレクレ1世英語版の摂政のもと、息子テイムラズがムフラニ公を継いだ[3][1]

結婚と子供[編集]

ヴァフタングはカヘティ王レヴァングルジア語版の娘ホラムゼwikidataと結婚し、男子3人――テイムラズ1世カイホスログルジア語版、バグラト――をもうけた[5]。歴史家キリル・トゥマノフの研究では、このうちテイムラズとバグラトは同一人物であったと見なしている[6]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d Bagrationi, Vakhushti (1976). Nakashidze, N.T.. ed (Russian). [History of the Kingdom of Georgia]. Tbilisi: Metsniereba. pp. 39–43. オリジナルの2013-10-29時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131029195829/http://www.nplg.gov.ge/dlibrary/collect/0001/000029/Istoria_Carstva_Gruzinskogo.pdf+2013年12月7日閲覧。 
  2. ^ Allen, W.E.D., ed (1970). Russian Embassies to the Georgian Kings, 1589-1605. Cambridge: Cambridge University Press. p. 545 
  3. ^ a b c Brosset, Marie-Félicité (1831) (French). Chronique géorgienne, traduite par m. Brosset jeune membre de la Société asiatique de France [Georgian Chronicle, translated by Mr. Brosset, junior member of the Asiatic Society of France]. Paris: De l'Imprimerie royale. pp. 13–22. https://books.google.com/books?id=Q__UAAAAMAAJ&q=Souram+Nestan&pg=PA14 
  4. ^ Rayfield, Donald (2012). Edge of Empires: A History of Georgia. London: Reaktion Books. p. 176. ISBN 978-1780230306 
  5. ^ Metreveli, Roin, ed (2003) (Georgian, English). ბაგრატიონები. სამეცნიერო და კულტურული მემკვიდრეობა [Scientific and Cultural Heritage of the Bagrationis]. Tbilisi: Neostudia. p. Table 8. ISBN 99928-0-623-0 
  6. ^ Toumanoff, Cyrille (1990) (French). Les dynasties de la Caucasie Chrétienne: de l'Antiquité jusqu'au XIXe siècle: tables généalogiques et chronologique [Dynasties of Christian Caucasia from Antiquity to the 19th century: genealogical and chronological tables]. Rome. p. 556 

参考文献[編集]