モー・モーラム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
The Right Honourable Dr
モー・モーラム[1]
Mo Mowlam
内閣府担当閣外大臣英語版
ランカスター公領長官
任期
1999年10月11日 – 2001年6月7日
首相トニー・ブレア
前任者ジャック・カニンガム英語版
後任者ガス・マクドナルド英語版
北アイルランド大臣英語版
任期
1997年5月3日 – 1999年10月11日
首相トニー・ブレア
前任者パトリック・メイヒュー英語版
後任者ピーター・マンデルソン
影の北アイルランド大臣英語版
任期
1994年10月20日 – 1997年5月2日
指導者トニー・ブレア
前任者ケヴィン・マクナマラ英語版
後任者アンドルー・マッケイ英語版
影の国民遺産大臣英語版
任期
1992年9月29日 – 1994年10月20日
指導者ジョン・スミス
前任者アン・クルーイド英語版
後任者クリス・スミス
影の女性・機会均等担当大臣英語版
任期
1992年7月18日 – 1993年10月21日
指導者ジョン・スミス
前任者ジョー・リチャードソン英語版
後任者クレア・ショート英語版
影のランカスター公領長官
任期
1992年7月18日 – 1992年9月29日
指導者ジョン・スミス
後任者マイケル・ミーチャー英語版
レッドカー選挙区英語版選出
庶民院議員
任期
1987年6月11日 – 2001年6月7日
前任者ジェイムズ・ティン英語版
後任者ヴェラ・ベアード英語版
得票差21,667 (44.3%)
個人情報
生誕マージョリー・モーラム
Majorie Mowlam

(1949-09-18) 1949年9月18日
イングランドの旗 イングランド ハートフォードシャーワトフォード
死没2005年8月19日(2005-08-19)(55歳)
イングランドの旗 イングランド ケントカンタベリー
政党労働党
配偶者
ジョン・ノートン[注釈 1] (m. 1995)
出身校ダラム大学トレヴェリアン・カレッジ英語版
アイオワ大学
画像外部リンク
en:File:Mo mowlem informal image.jpg
2005年の追悼記事(BBCニュース)に掲載された写真

モー・モーラム(英: Mo Mowlam[mˈəʊlæm][1])の名前で知られるマージョリー・モーラム(英: Marjorie Mowlam1949年9月18日 – 2005年8月19日)は、労働党に所属していたイングランド出身の政治家である。1987年から2001年までレッドカー選挙区英語版選出の庶民院議員として当選し、第1次ブレア内閣では北アイルランド大臣英語版内閣府担当閣外大臣英語版ランカスター公領長官を務めた。

モーラムの北アイルランド大臣在任中には、1998年のベルファスト合意(聖金曜日協定)という歴史的一件があった。彼女自身のカリスマ性と分かりやすい話し口という世評から、多くの人に「新労働党英語版」("New Labour") で最も人気のある政治家のひとりとも考えられた。トニー・ブレアが1998年の労働党大会英語版で彼女に言及した時には、モーラムに対するスタンディングオベーションが起きた。

2001年の総選挙を機に庶民院議員を引退したが、その後は政治評論家や人生相談欄回答者として活動した。議員としての活動中から脳腫瘍を患い、2005年に死去した。

幼少期[編集]

モーラムはハートフォードシャーワトフォード、キング・ストリート43番地(英: 43 King Street)で、ティナとフランク夫妻の間に、3人きょうだいの真ん中として生まれた[2]。彼女は父が副郵便局長になったことから、コヴェントリーに移ってここで育った[2][3][4]。1999年にはコヴェントリーの名誉市民権英語版を得た[5]。彼女はきょうだい3人の中で、唯一イレヴンプラス英語版(11歳試験)に合格した[2]。彼女は西ロンドンのチジック女子グラマースクール (Chiswick Girls' grammar school) に通い始め、その後、国内初の総合学校のひとつだった、コヴェントリーのカウンドン・コート・スクール英語版に転校した[2][5]。卒業後はダラム大学トレヴェリアン・カレッジ英語版社会学人類学を学んだ[6]。また1年生の時には労働党に参加した[2]。彼女は当時労働党の国会議員だったトニー・ベンの調査アシスタントとしてロンドン[7]、またアメリカ人作家アルビン・トフラーのためにニューヨークで働き、その後当時のボーイフレンドと共にアメリカへ移住してアイオワ大学政治学を学び、スイスの国民投票制度英語版に関する論文でPhD学位を取得した[2][8][9]

モーラムは、1977年にウィスコンシン大学ミルウォーキー校政治学部で、また1977年から1979年にかけてタラハシーフロリダ州立大学で講師を務めた。タラハシーにいる時には、何者かにアパートメントを荒らされる被害にあったが、モーラム自身は35人の若い女性を殺したとされるシリアルキラーレイプ犯テッド・バンディだったのではないかと疑っていた[2]

モーラムは1979年にニューカッスル・アポン・タイン大学での職を得てイングランドに帰国した[2]。またバーンズリーノーザン・カレッジ英語版で、大学に通う機会を失った生徒向けの成人教育も担当した[7]。1981年には、ニューカッスル大学の副学長だったローレンス・マーティン英語版が、その年のラジオ講座『リース・レクチャーズ英語版』で行っていた授業に対抗した講義を開講した。この授業は Debate on Disarmament(「軍備縮小に関する論議」の意味)として出版され、売上金は核軍縮キャンペーンの資金として寄付された[2]

私生活[編集]

モーラムはシティ・オブ・ロンドンのバンカー、ジョナサン・ノートン(英: Jonathan Norton)と1995年6月24日にカウンティ・ダラムで結婚した[10]。ノートンは2009年2月3日に亡くなった[11]。夫妻の間には実子はおらず[12]、姉弟の養子がいた[13]

国会議員として[編集]

核軍縮キャンペーンへの参加などから1983年イギリス総選挙の候補者に選出されなかったモーラムは、その後ジェイムズ・ティン英語版の引退に伴って、比較的安定とされるレッドカー選挙区英語版を引き継いだ[7]。彼女は1987年イギリス総選挙で初当選し[7]、この年の遅くに北アイルランドに関する労働党のスポークスマンに就任した[2]。影の大臣だったジョン・スミスと共に、モーラムは労働者の経済的公正に関する英国経済部門の再保証に尽力する、労働党の「プローン・コックテイル・オフェンシヴ英語版」創設者のひとりになった[14]

モーラムは1992年にジョン・スミスが党首就任したのに合わせて影の内閣入りし、影の国民遺産大臣英語版に就任した[2]。在任中、彼女はバッキンガム宮殿を取り壊して、公財で「近代的な」("modern") 宮殿に建て替えるとして君主制支持者・共和主義者双方の反感を買った[15]。後に、その後の影響も厭わずに自分の考えを述べる彼女の態度は、支持者からモーラム最大の強みと考えられるようになった。

1994年にスミスが亡くなった後は、ピーター・キルフォイル英語版と共に、トニー・ブレアの党首選挙キャンペーンの主要スタッフとなった。ブレアの勝利後、モーラムは影の北アイルランド大臣英語版に就任した。当初彼女は経済大臣になりたいとしてこの役職を拒んでいたが[2]、申し出を受け入れた後は職に邁進した。

内閣において[編集]

1997年、レッドカー選挙区に出馬したモーラムは、得票差を21,667票まで伸ばした[16]1997年イギリス総選挙で労働党は地滑り的大勝利を上げ、彼女は女性として初めて北アイルランド大臣英語版に就任した[17]。モーラムはIRA暫定派との停戦合意に手腕を発揮し、シン・フェイン党など多党派で北アイルランドの将来について会談した[18]。平和交渉へ参加するようアルスター・ロイヤリストを説得した時には、危険性も顧みず先例の無いメイズ刑務所英語版訪問を行い、殺人で有罪になったロイヤリストの収監者と、同伴者無しで直に会談した[19][20]

モーラムは1998年のベルファスト合意(聖金曜日協定)当時の担当大臣であり、この合意で権力委譲された北アイルランド議会の一時的設立が実現した[18]。しかしながら、ユニオニスト英語版政党との連携はどんどん困難になり、彼女の会議での役割は首相に就任したブレアやそのスタッフに引き継がれてしまい、モーラムは当時のアメリカ大統領だったビル・クリントンに対して、「知らなかったの?私はこの辺の新しいお茶汲み嬢なんです」と自虐するほどだった[21]

1999年10月のモーラム解任とピーター・マンデルソンの北アイルランド大臣就任は、ユニオニストとの関係悪化が大きな理由だったが、より立場の低い内閣府担当閣外大臣英語版に回されたことには、彼女の健康面や人気など、その他の理由も絡んでいたとされる[22]。モーラムは閣外大臣への配置換えに憤慨し、「『トゥデイ英語版』プログラム担当大臣」(英: "Minister for the Today programme")とけなしたほどだった[23]。内閣府担当閣外大臣として、モーラムはブレア内閣の「執行者」("enforcer") になろうと追い求めた[24]

モーラムは内閣の反ドラッグ運動の責任者だったが、2002年には国際的合法化に賛成の意を示した[25]。2000年には、「マリファナをやったとは言いましたが、あれが特に好きだったわけではないし、クリントン大統領と違って、わたしがやったのは吸入です」と述べて学生の時に大麻を使用したと認め、議論を呼んだ[26]

引退[編集]

2000年9月4日、モーラムは庶民院議員からの引退と、2001年イギリス総選挙での候補者辞退を発表した[27]。引退後は政府の諸政策に対する評論家となり、特に2003年のイラク戦争3月のイラク侵攻)の際に活躍した。彼女はヴァネッサ・レッドグレイヴ、遅れて表明したトニー・ベンタリク・アリ英語版ケン・リヴィングストンビアンカ・ジャガー英語版と並んで、イラク戦争反対抗議英語版に参加した[28]

引退に引き続き、モーラムは男性向け雑誌『ズー英語版』の人生相談欄英語版回答者になった[29][30]。また、国会議員としての仕事が恋しいとも述べた。その後は、リハビリを成功させた薬物使用者を助け、障害を持つ子どもたちの親や介護者に支援を行うチャリティ事業、「モーモー・ヘルプス」(MoMo Helps) を立ち上げたりした[31]。2002年には、個人的回想記 Momentum: The Struggle for Peace, Politics and the People を出版している[32]

闘病と死[編集]

労働党に政権をもたらした1997年イギリス総選挙の5ヶ月前、モーラムは脳腫瘍と診断されたが、タブロイド紙に自身の顔貌を嘲笑される記事が載るまでこの事実をひた隠しにしようとした。彼女は完治に成功したと述べたが、多くの治療法を行う中で、彼女の髪はほとんど抜けてしまった。その後はよくを付けて生活したが、「とっても厄介だわ」("such a bother") として、公衆の面前で何気なく外すこともしばしばだった[33][34]

2005年8月3日、BBCは、モーラムがロンドンキングズ・カレッジ病院英語版で危篤状態に陥っていると報じた[24]。彼女は放射線療法の結果平衡障害にも陥っていた[35]。夫によれば、この放射線療法が原因で、2005年7月30日に倒れ、頭部外傷を負ってそのまま意識を回復しなかったという[36][37]蘇生措置拒否を求めた生前の意志があり、これが尊重された。

2005年8月12日、彼女はケントカンタベリーのピルグリムズ・ホスピス (Pilgrims Hospice) に転院し、7日後に55歳で死去した[38]。後には夫のジョン・ノートンと、2人の養子が残された[13]。モーラムの死から13日前には、1997年の新労働党内閣でともに働いたロビン・クックも亡くなっていた。

2010年1月には、彼女の元主治医から、モーラムの脳腫瘍は悪性であり、1996年に3年の余命と診断されていたことが公表された[39]。医師側の勧めにもかかわらず、彼女はブレア首相や選挙区の有権者には本当の病状を隠し、中でもブレアには自身の脳腫瘍は良性ですぐ公務に復帰できると嘘をついていたという[39][40]

モーラムは無神論者であり、1980年代に活躍したバンド・カミュナーズ英語版のメンバーだったリチャード・コールズ英語版が執り行った非宗教的葬儀の後、2005年9月1日にシッティングボーン英語版で火葬された[41][13]遺灰の半分は北アイルランド大臣公邸のヒルズバラ城英語版に撒かれ、もう半分は以前の地盤だったレッドカー選挙区に撒かれた[42]

メモリアル[編集]

モーラムを偲ぶ会は2005年11月20日にシアター・ロイヤル (ドルリー・レーン)英語版で行われ、同年12月1日にヒルズバラ城英語版、また12月3日にレッドカーで行われた[43]

モーラムを記念し、レッドカー・アンド・クリーヴランド単一自治体英語版は公式に記念のモザイクを作成し、レッドカーで新しく建て替えられたボート用で2009年10月23日にお披露目した。800枚のタイルが用いられた複雑なモザイクは、3メートルの輪の中に作られ、地元の芸術家であるジョン・トッド (John Todd) が彼女の人生や興味を表現したものである。中心には彼女の肖像が描かれ、これを彼女が散策を愛した浜辺や、結婚式も行われたレッドカー競馬場英語版の競走馬、レッドカー鉄工所、ゼットランド (救命艇)英語版北アイルランド平和交渉英語版の象徴である握られた手とウェストミンスター宮殿(国会議事堂)などが描かれている[44]

ドキュメンタリードラマ[編集]

2009年、チャンネル4で、1997年の労働党勝利から2005年の死まで彼女の人生を追うドキュメンタリードラマ映画、『モー・モーラム 〜不可能を可能にした女〜英語版』が制作された[45]。この映画ではジュリー・ウォルターズがモーラムの役を演じた[46]。作品は2010年1月31日に放送され[47]、350万人に視聴されたことで、チャンネル4としては2001年以来最高視聴率を記録したドラマになった[48]。映画は批評的にも成功し、労働党国会議員のアダム・イングラム英語版は「[ドラマが]モーの本質を家庭に届けた」と述べた[49]。作品は英国アカデミー賞テレビ部門単発ドラマ賞[50]ゲイリー・ルイスは助演男優賞にノミネートされたほか[51]、ウォルターズが主演女優賞を獲得した[52][53][54]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 英: Jon Norton

出典[編集]

  1. ^ a b 小西友七; 南出康世 (25 April 2001). "Mowlam". ジーニアス英和大辞典. ジーニアス. 東京都文京区: 大修館書店 (published 2011). ISBN 978-4469041316. OCLC 47909428. NCID BA51576491. ASIN 4469041319. 全国書誌番号:20398458 {{cite encyclopedia}}: |access-date=を指定する場合、|url=も指定してください。 (説明)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l “Mo Mowlam”. The Guardian (London). (2005年8月20日). https://www.theguardian.com/news/2005/aug/20/guardianobituaries.politics 2010年1月31日閲覧。 
  3. ^ Bentley, David (2017年7月15日). “20 amazing things that Coventry gave the world”. コヴェントリー・テレグラフ英語版. 2018年1月4日閲覧。
  4. ^ Mo Mowlam”. History TV. 2018年1月4日閲覧。
  5. ^ a b “City remembers schoolgirl Mowlam”. BBC News Online (BBC). (2005年8月19日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/coventry_warwickshire/4165334.stm 2009年9月23日閲覧。 
  6. ^ Mo Mowlam: College Principal recalls a student rebel with a love of people”. ダラム大学 (2005年8月19日). 2018年1月7日閲覧。
  7. ^ a b c d Mo Mowlam”. デイリー・テレグラフ (2005年8月20日). 2018年1月7日閲覧。
  8. ^ Loewenberg, Gerhard (2006). “Marjorie Mowlam”. PS: Political Science & Politics 39 (1): 167–168. doi:10.1017/S1049096506240319. 
  9. ^ Mowlam, Marjorie (1979). “Popular access to the decision-making process in Switzerland: The role of direct democracy”. Government and Opposition 14 (2): 180–197. doi:10.1111/j.1477-7053.1979.tb00671.x. 
  10. ^ Marriages England and Wales 1984–2006”. Findmypast.com. 2008年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月13日閲覧。
  11. ^ Cecil, Nicholas (2009年2月7日). “Mo Mowlam's widower, John Norton, dies at the age of 53”. The Daily Mail (London). http://www.dailymail.co.uk/news/article-1138142/Mo-Mowlams-widower-John-Norton-dies-age-53.html 2010年2月7日閲覧。 
  12. ^ The Biography Channel”. The Biography Channel. 2012年9月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月13日閲覧。
  13. ^ a b c Henrietta And Freddie Norton (2010年1月23日). “Magic Mo Mowlam... Our mischievous, determined, loving and captivating stepmother”. デイリー・メール. 2018年1月7日閲覧。
  14. ^ The Scotsman”. Thescotsman.scotsman.com. 2010年4月13日閲覧。
  15. ^ Watt, Nicholas (2000年6月28日). “We shall not be moved, say the royals, as Mo Mowlam's palace coup falls flat”. ガーディアン. 2018年1月7日閲覧。
  16. ^ “Results & Constituencies”. BBC News. http://news.bbc.co.uk/hi/english/static/vote2001/results_constituencies/constituencies/472.stm 2014年6月17日閲覧。 
  17. ^ FORMER WOMEN MINISTERS IN UK GOVERNMENTS”. Centre for Advancement of Women in Politics. クイーンズ大学ベルファスト. 2018年1月8日閲覧。
  18. ^ a b Good Friday Agreement”. History. 英国放送協会. 2018年1月7日閲覧。
  19. ^ Mullin, John (1998年1月10日). “Mowlam visits the Maze”. ガーディアン. 2018年1月7日閲覧。
  20. ^ Boggan, Steve (1998年1月9日). “Ulster Peace: The immoral Maze: where the prisoners rule the roost”. 2018年1月7日閲覧。
  21. ^ “Mowlam 'sidelined by Blair'”. BBC News Online (BBC). (2000年9月10日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/918365.stm 2010年2月3日閲覧. "In one incident, the book says, the prime minister practically ignored Dr Mowlam in front of President Clinton, prompting her to tell the US leader: "Didn't you know? I'm the new tea lady around here"." 
  22. ^ Watt, Nicholas (1999年6月23日). “Trimble calls for Mowlam's head”. ガーディアン. 2018年1月7日閲覧。
  23. ^ Asthana, Anushka (2005年8月20日). “Mo Mowlam”. The Times (London). オリジナルの2011年6月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110604164825/http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/obituaries/article556973.ece 2010年1月31日閲覧. "She knew that this was a dead end; she had dismissed the post as “Minister for the Today programme”." 
  24. ^ a b “Mo Mowlam condition 'unchanged'”. BBC News Online (BBC). (2005年8月5日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/4739329.stm 2010年2月3日閲覧. "In 1999 she was replaced as Northern Ireland secretary by Peter Mandelson, and became Tony Blair's cabinet "enforcer"." 
  25. ^ Wintour, Patrick (2002年9月19日). “Legalise all drugs worldwide, says Mowlam”. ガーディアン. 2018年1月7日閲覧。
  26. ^ “I smoked cannabis, admits Mowlam”. BBC News Online (BBC). (2000年1月16日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/605565.stm 2010年2月3日閲覧. ""I said I tried marijuana, didn't like it particularly and unlike President Clinton I did inhale. But it wasn't part of my life then and that's what happened."" 
  27. ^ “Mowlam to stand down”. BBC News Online (BBC). (2000年9月4日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/909831.stm 2010年2月3日閲覧。 
  28. ^ “'Million' march against Iraq war”. BBC News Online (英国放送協会). (2003年2月16日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/2765041.stm 2015年12月29日閲覧。 
  29. ^ Whitehead, Jennifer (2004年7月9日). “Mo Mowlam takes up job of agony aunt at Zoo magazine”. キャンペーン英語版. 2018年1月7日閲覧。
  30. ^ Byrnes, Sholto (2005年2月9日). “Mo Mowlam: 'People like me. I've no idea why'”. インデペンデント. 2018年1月7日閲覧。
  31. ^ Robson, Dave (2011年8月24日). “Mo Mowlam charity MoMo Helps raise cash with walk”. GazetteLive. 2018年1月7日閲覧。
  32. ^ Mowlam, Mo (2002). Momentum: The Struggle for Peace, Politics and the People. London: Hodder & Stoughton. ISBN 0-340-79394-5 
  33. ^ Mo Mowlam's vote is number one”. MyVillage (2002年11月22日). 2007年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月7日閲覧。 “Mowlam lost most of her hair during the cancer treatments and wears a wig, which she finds uncomfortable. She often removes it during meetings and drops it on the table, saying, "It's such a bother."”
  34. ^ “Life in pictures: Mo Mowlam”. BBC News. (2005年8月19日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_pictures/4742349.stm 2011年11月27日閲覧. "[Mowlam] wore a wig after her illness caused her hair to fall out. … [She] famously removed her wig in discussions leading to the signing of the 1998 Good Friday Agreement." 
  35. ^ 'Remarkable' Mo Mowlam dies at 55”. BBCニュース. 英国放送協会 (2005年8月19日). 2018年1月7日閲覧。
  36. ^ Campbell, Clare (2005年11月11日). “I miss you so, my darling so”. デイリー・メール (PressReader). https://www.pressreader.com/uk/daily-mail/20051111/281857228936987 2018年1月7日閲覧。 
  37. ^ WALTERS, SIMON (2005年8月21日). “Radiotherapy killed Mo, not her cancer”. Mail on Sunday. デイリー・メール. 2018年1月7日閲覧。
  38. ^ Lyons, Jamie (2005年8月19日). “Mo Mowlam dies in hospice”. インデペンデント. 2018年1月7日閲覧。
  39. ^ a b Merrick, Jane (2010年1月17日). “Mo Mowlam lied to Blair about her brain tumour”. London: Independent.co.uk. https://www.independent.co.uk/news/uk/politics/mo-mowlam-lied-to-blair-about-her-brain-tumour-1870413.html 2010年4月13日閲覧。 
  40. ^ Wansell, Geoffrey (2010年1月18日). “Mo Mowlam lied to Tony Blair that her brain cancer was benign so she'd get a Cabinet job, new film reveals”. デイリー・メール. 2018年1月7日閲覧。
  41. ^ Mail on Sunday, 23 October 2005.
  42. ^ “Celebration of Mo Mowlam's life”. BBC News Online (BBC). (2005年12月1日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/northern_ireland/4489516.stm 2010年1月31日閲覧。 
  43. ^ An Evening For Mo and Friends”. Momowlam.co.uk. 2009年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月13日閲覧。
  44. ^ “Mowlam memorial mosaic unveiled”. BBC News Online (BBC). (2009年10月23日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/tees/8321773.stm 2009年10月24日閲覧。 
  45. ^ Dowell, Ben (2009年3月25日). “Julie Walters to play Mo Mowlam in Channel 4 drama”. The Guardian (London). https://www.theguardian.com/media/2009/mar/25/julie-walters-mo-mowlam-channel-4 2010年1月31日閲覧。 
  46. ^ Hough, Andrew (2010年1月20日). “Julie Walters nearly quit playing Mo Mowlam in new Channel 4 drama”. Daily Telegraph (London). http://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/politics/7031098/Julie-Walters-admits-she-feared-playing-Mo-Mowlam-in-new-Channel-4-drama.html 2010年1月31日閲覧。 
  47. ^ Little, Ivan (2010年1月31日). “Face to face with Mo... again”. Belfast Telegraph. http://www.belfasttelegraph.co.uk/sunday-life/face-to-face-with-mo-again-14660326.html 2010年1月31日閲覧。 
  48. ^ “Mo Mowlam biopic gets 3.5m viewers”. BBC News Online (BBC). (2010年2月1日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/northern_ireland/8491112.stm 2010年2月3日閲覧。 
  49. ^ Scots MP reveals agony over Mo Mowlam TV drama”. デイリー・レコード英語版 (2010年1月31日). 2010年2月1日閲覧。 “That brought home the essence of Mo.”
  50. ^ 2010 Television Single Drama”. BAFTA Awards. 英国映画テレビ芸術アカデミー. 2018年1月7日閲覧。
  51. ^ 2010 Television Supporting Actor”. BAFTA Awards. 英国映画テレビ芸術アカデミー. 2018年1月7日閲覧。
  52. ^ Singh, Anita (2010年6月7日). “Bafta TV Awards: Julie Walters wins Bafta for poignant role as Mo Mowlam”. デイリー・テレグラフ. 2018年1月7日閲覧。
  53. ^ 2010 Television Leading Actress”. BAFTA Awards. 英国映画テレビ芸術アカデミー. 2018年1月7日閲覧。
  54. ^ BAFTA to Host ‘A Life In Television’ with Julie Walters”. 英国映画テレビ芸術アカデミー (2014年11月4日). 2018年1月7日閲覧。

外部リンク[編集]

グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会
先代
ジェイムズ・ティン英語版
レッドカー選挙区英語版選出庶民院議員
1987年2001年
次代
ヴェラ・ベアード英語版
公職
先代
ケヴィン・マクナマラ英語版
影の北アイルランド大臣英語版
1995年–1997年
次代
アンドルー・マッケイ英語版
先代
パトリック・メイヒュー英語版
北アイルランド大臣英語版
1997年–1999年
次代
ピーター・マンデルソン
先代
ジャック・カニンガム英語版
内閣府担当閣外大臣英語版
ランカスター公領長官

1999年–2001年
次代
ガス・マクドナルド英語版