モハマド・ナスリル・ヌルディン

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モハマド・ナスリル・ヌルディン
名前
本名 モハマド・ナスリルビン・マット・ヌルディン
Mohd Nasril Bin Mat Nourdin
ラテン文字 Mohd Nasril Nourdin
基本情報
国籍 マレーシアの旗 マレーシア
生年月日 (1986-04-17) 1986年4月17日(38歳)
出身地 ルムト
身長 179cm
体重 75kg
選手情報
ポジション GK
ユース
2002-2004 マレーシアの旗 ペラFA
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2005-2008 マレーシアの旗 ペラFA 14 (0)
2008-2009 マレーシアの旗 セランゴールFA 17 (0)
2009-2010 マレーシアの旗 ATM FA 43 (0)
2010-2012 マレーシアの旗 ペラFA 35 (0)
2012-2016 マレーシアの旗 パハンFA 29 (0)
2017 マレーシアの旗 プルリスFA 19 (0)
2018-2022 マレーシアの旗 ランカウイ・シティFC 39 (0)
代表歴
2005-2009  マレーシア U-23 14 (0)
マレーシアの旗 マレーシアリーグXI
2010-2011 マレーシアの旗 マレーシア 3 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

モハマド・ナスリル・ヌルディンマレー語: Mohd Nasril Nourdin1986年4月17日 - )は、マレーシアの元サッカー選手。現役時代のポジションはGK

クラブ歴[編集]

ブキット・ジャリル体育学校を卒業。2002年のスカン・マレーシアMajlis Sukan Sekolah-Sekolah Malaysiaの一員として参加[1]。2006年の同大会ではペラ州代表として参加した[2]

ペラFAの下部組織に在籍し、リザーブチームでの出場はあったものの、正ゴールキーパーのモハマド・ハムサニ・アマドが負傷しても、スティーブ・ダービー監督に起用されるのはタイ・シン・キャットであり、トップチームでの起用機会はなかなか来なかった。2005年12月4日のスルタン・ハジ・アフメド・シャー・カップセランゴールFA戦でトップチーム初出場、この試合はペラFAの4-1の勝利に終わり、彼のパフォーマンスはメディアや監督からも絶賛された。その後、ハムサニが怪我から復帰した後もペラFAに残り続けた。

2006年にはマレーシアサッカー協会選定の最優秀ゴールキーパー賞にノミネートされた。ノミネートされたのは三人で彼とモハマド・シャムスリ・ムスタファアジゾン・アブドゥル・カディルであった。受賞したのはシャムスリで彼は受賞を逃した[3]。同年9月、イングランドブラックバーン・ローヴァーズFCが彼を追っていた事が明らかになった。ブラックバーン・ローヴァーズのスカウト、マイク・リグスは彼をトライアルに呼びたがっているとの内容であった。しかし、プレミアリーグで戦う為にはマレーシア代表のFIFAランキングが70位以内で無ければならなかったが、マレーシア代表のランキングは154位であった。結局2007年4月にこの話は潰えた[4]

2009年にはハムサニと共にセランゴールFAに移籍[5]。正ゴールキーパーはハムサニとなり、出場機会に乏しかったため、1シーズンで退団し、ATM FAに移籍した[6]

2011年にペラFAに復帰し、ノリザン・バカル新監督の下、正ゴールキーパーとなった。2シーズンの在籍で2011シーズンはマレーシア・スーパーリーグで4位、2012シーズンは6位であった。しかし2013シーズンは放出されたので、マレーシア・プレミアリーグから昇格してきたパハンFAに移籍。トレンガヌFAへ移籍したワン・アズラーイ・ワン・テーの後継者としての加入であった。パハンFAではセランゴールFA時代の監督であるダラー・サラーと再開。2013年1月9日のジョホール・ダルル・タクジムFC戦で移籍後初出場となった。

代表歴[編集]

2006年1月24日、トップチーム初出場から僅か1ヶ月であったが、代表合宿に招集され、ニュージーランド代表との親善試合にも帯同した。2007年にはU-23代表として北京オリンピックサッカーアジア予選に出場しシリア代表日本代表と対戦した。その後のピアラ・アンタラ・ベヌアでもイラク代表ナイジェリア代表と対戦した。

A代表にはその後も選出される事はあれど、出場機会は無かった。他方でマレーシアリーグXIとしては2011年7月13日のアーセナルFC戦に出場している[7]

タイトル[編集]

パハンFA

参考文献[編集]

外部リンク[編集]