モデスト・エムバミ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モデスト・エムバミ
マルセイユでのエムバミ
名前
ラテン文字 Modeste M'bami
基本情報
国籍 カメルーンの旗 カメルーン
生年月日 (1982-10-09) 1982年10月9日
カメルーンの旗 カメルーンヤウンデ
没年月日 (2023-01-07) 2023年1月7日(40歳没)
フランスの旗 フランスノルマンディー地域圏 セーヌ=マリティーム県 ル・アーヴル
身長 172cm
体重 67kg
選手情報
ポジション MF (DH)
利き足 右足
ユース
1999-2000 カメルーンの旗 ディナモ・ドゥアラ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2000-2003 フランスの旗 スダン 68 (0)
2003-2006 フランスの旗 パリ・サンジェルマン 83 (1)
2006-2009 フランスの旗 マルセイユ 77 (1)
2009-2011 スペインの旗 アルメリア 58 (1)
2011-2012 中華人民共和国の旗 大連阿爾濱 0 (0)
2011 中華人民共和国の旗 長春亜泰 (loan) 15 (3)
2012-2013 サウジアラビアの旗 アル・イテハド 20 (0)
2014 コロンビアの旗 ミジョナリオス 14 (0)
2014-2015 フランスの旗 ル・アーヴル 8 (0)
通算 343 (6)
代表歴
2000-2009 カメルーンの旗 カメルーン 37 (3)
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
2000 シドニー サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

モデスト・エムバミModeste M'bami, 1982年10月9日 - 2023年1月7日)は、カメルーンヤウンデ出身の元サッカー選手。元同国代表。現役時代のポジションはMF

経歴[編集]

クラブ[編集]

初期[編集]

エムバミは、14歳の時にカジ・スポーツアカデミー英語版が主催する大会で活躍したことで元カメルーン代表ミシェル・カムフランス語版に見出され、同クラブで訓練を受けた[1]。その後、ディナモ・ドゥアラフランス語版に参加し[1]、2000年夏にCSスダン・アルデンヌに移籍した。まだ、若手ながら1年目からリーグ・アンの舞台で10試合に出場し、チームの5位に貢献。翌シーズンから2年の間にレギュラーを務め60試合に出場したが、2003年にリーグ・ドゥに降格。その後、ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCと4年契約で一旦合意したものの、代理人がそれを翻し、最終的にパリ・サンジェルマンFCへ5年契約で加入した[2]

パリ・サンジェルマン[編集]

パリ・サンジェルマンでの1年目は、リーグ戦2位、クープ・ドゥ・フランス戦で優勝と非常に良いシーズンを迎える中で経験はまだ乏しかったものの、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督の素晴らしい指導を受け、別の若手守備的MFロリック・カナと共に中盤を形成し、チームに大きく貢献した。しかし、翌シーズンは、チーム事情の悪さから1月の移籍市場での移籍を望んでいた[3] が、UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05PFC CSKAモスクワ戦で試合開始早々にイジー・ヤロシークのタックルを受けたことで3ヶ月の離脱を余儀なくされ[4]、その願いは叶わずに残留となった。2005-06シーズンは、レギュラーを奪取し再びクープ・ドゥ・フランス優勝に貢献した。

マルセイユ[編集]

2006年8月に3年過ごしたパリ・サンジェルマンに別れを告げると、ライバルのオリンピック・マルセイユと移籍金250万・3年契約で加入し、前シーズンに加入していたロリック・カナと再びコンビを組むこととなった[5]。マルセイユは、近年ライバルのパリ・サンジェルマンから2004年夏に副主将のフレデリック・デウファブリス・フィオレーズフランス語版の獲得を成功させると、2005年にロリック・カナ、そして2006年夏にエムバミと立て続けに4人もの選手を補強させていた。

マルセイユでは1年目からレギュラーとしてプレーし、トロワAC戦で決勝点を挙げる活躍を見せたことでサポーターの人気を集めた。2年目は、ジュリアン・ロドリゲズフランス語版の度重なる負傷とガエル・ジヴェのパフォーマンスの低下からカナがCB、ベノワ・シェイルが左サイドに移ったことで、エリック・ゲレツ監督が就任してからも主力の1人としてプレーし、UEFAカップ 2007-08FCゼニト・サンクトペテルブルクとの第1戦では、パスの出し手として高い技術を披露した。マルセイユで浮き沈みのある3シーズンを過ごしながらも活躍していたが、シーズン終了後は、契約満了と新たに就任したディディエ・デシャン監督の構想外となり退団した。その後、同じくフリーエージェントとなった同僚のタイエ・タイウォと共にプレミアリーグへの移籍を模索し始め[6]ポーツマスFCボルトン・ワンダラーズFC、ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズ、ウィガン・アスレティックFCと次々とプレミアリーグのクラブのトライアルに参加[7] し、ウィガンでは、短期ながら契約の申し出があったもののそれを拒否する[8] と、2009年9月30日にスペインUDアルメリアのトライアルを経て、同クラブと契約した[9]

その後[編集]

2011年7月、フアニートスペイン語版と共にアルメリアから放出されたエムバミは、中国2部大連阿爾濱足球倶楽部に加入すると、すぐさま同国1部長春亜泰足球倶楽部に貸し出された。しかし、2012年に大連阿爾濱へ復帰するも外国人枠の関係からプレーすることは出来ず[10]、同年8月1日にサウジアラビアアル・イテハドへ2年契約で移籍した[11]

2023年1月7日、心臓発作により死去。40歳没[12]

代表[編集]

ユース時代は、1999年4月に開催された1999 FIFAワールドユース選手権に出場し、ベスト16に進出。ベスト16のU-20マリ戦で得点を挙げたが、4-5で敗退した。翌年のシドニーオリンピックでチームは優勝した際に決勝戦でエムバミの出番は無かったが、準々決勝・ブラジル戦でゴールデンゴールを決めるなど活躍した。

A代表としては、2000年6月18日のリビア戦で初招集され、FIFAコンフェデレーションズカップ2003で準優勝した。しかし、翌年11月11日にヴィンフリート・シェーファー監督の戦術を批難し、代表引退を表明していた[13]。その後、シェーファー監督の解任に伴い代表復帰し、2006 FIFAワールドカップ・アフリカ予選のメンバーとして戦っていたが、チームはコートジボワールと勝ち点差1で本大会行きを逃した。

タイトル[編集]

代表[編集]

カメルーン代表

クラブ[編集]

パリ・サンジェルマン
アル・イテハド

脚注[編集]

外部リンク[編集]