モスクワの金

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モスクワの金(モスクワのきん)、もしくは共和国の金(きょうわこくのきん)は、スペイン内戦勃発数カ月後にスペイン銀行の金保有量の72.6%に当たる510トンの金がマドリードからソビエト連邦に移送された作戦を指す。この移送は第二共和制スペイン共和国政府の命令として共和国大統領によって指示され、財務大臣の指揮によって行われた。またこの頁ではソビエト連邦に対する金の売却だけではなく、その後金と引換に得られた資金の用途も記述する。ソビエト連邦に輸送されなかった残りの金、193トン相当はフランスに移送されそこで通貨に交換された。この作戦はパリの金と呼ばれる。

参考[編集]

元々、モスクワの金と言う単語は反ソビエトのプロパガンダであり、共産主義を掲げる政党や欧米における労働組合の共産主義に対する金銭的な援助に対して不信感を持たせるために用いられた。1935年以前、ヨシフ・スターリン率いるソビエト政府は”プロレタリア階級による世界的な共産革命”を掲げ外交政策を推し進めた。タイム誌などの英字メディアはこのソビエトの国際的な赤化運動をモスクワの金と言い表した。また同時期にはアメリカ、そしてイギリス国内でもこの赤化運動に影響を受ける者が見受けられた。1990年初頭にはフランスでも用いられ同様にフランス共産党に対して不信感を抱かせる為に用いられた。

"モスクワの金"という語はスペイン国内では主にスペイン内乱、またフランコ率いるスペイン国初期に用いられることが多かった。1970年代以降、このモスクワの金について当時の公文書や記録を基にして多くの論文が書かれ文学が作られた。また、スペイン国内においては長きに渡って論争の火種となっており史学のディベートにおいても頻繁に議題に上がる。論争の中心となっているのは金の移送の動機及びその使い道に対する政治的解釈の相違、移送による内戦の激化、金の移送がもたらした内戦後の亡命政府に対する影響、そしてフランコ率いるスペイン国政府とソビエト連邦の外交関係である。

背景[編集]

移送時のスペイン国内の状況[編集]

1936年7月19日、第二共和制スペイン共和国政府に対して軍隊の一部がクーデターを決起したが不完全なものに終わり、国内の3分の1を反乱軍が、残りを共和国政府が抑える形でスペイン内戦が勃発する。反乱軍側である民族独立主義派はフランシスコ・フランコに率いられ、内戦を勝ち抜くべく必要な物資の支援を取り付けるためにドイツとイタリアとの交渉にあたった。一方、同様の交渉を共和国政府はフランスと行った。この交渉は両陣営共に内戦を続けるのに必要な物資が不足しているが故のものであったが、他国を巻き込むことにより内戦は国内だけの問題ではなく、徐々に国際的なものとなっていく。

内戦勃発時、フランス政府は中道政党の急進党を含む人民戦線が支配しており国内の政情は不明瞭なものであった。時のフランス首相レオン・ブルムフランス共産党と共に共和国側を支援し軍事介入を行おうとしたが、急進党はそれに反対しブルム率いる政府への支援を取り消すと脅した。イギリスでは当時首相であった保守党スタンリー・ボールドウィン宥和政策を阻害する恐れがあるとして、同様に内戦に介入しないことに同意した。これにより1936年7月25日、フランス政府はスペイン国内で交戦中の共和国側、そしてフランコ率いる反乱軍側双方にフランス本国から物資を支援することを禁止する法案を可決した。欧米の民主主義国家が内政不干渉の原則の則り内戦に対して介入しないことを決めた同日、ドイツのアドルフ・ヒトラーはモロッコ内の反乱軍に対して航空機と乗組員、整備の為の技術者の支援を送り込むことに同意した。その直後、イタリアのベニート・ムッソリーニも輸送機と他の物資を送ることに同意し、この輸送機は同年7月29日、アフリカの反乱軍の部隊を当時反乱軍支配下にあったスペイン本土の南部の都市セビリアに送り込む目的で使用された。

1936年8月1日、フランス政府は"スペイン内戦に対する内政不干渉"を提案し国際世論に訴えかけた。8月7日、イギリス政府はこの提案に対して支援すると表明した。ソビエト、ポルトガル、イタリア、そしてナチス・ドイツは当初この提案に同意し同年9月9日に設立されたスペイン内戦不干渉に関する委員会に参加したが、うち3国は反乱軍側に対して物資及び兵站支援を続けた。一方、共和国側はメキシコやブラックマーケットから物資を得ていた。

反乱軍は8月から9月にかけて次々と勝利を重ね、8月14日に起こったバダホスの戦い後ポルトガルとの国境付近を支配下に置き、9月14日にはイルンを占拠、フランス領バスクと接する国境を封鎖した。反乱軍の各地での進軍を受け、ソビエト政府は方針を転換し内戦に干渉する事を決定、共和国側と外交関係を結んだ後、8月21日にはスペイン共和国への大使を任命した。

9月終盤、各国の共産党にコミンテルン及びモスクワから国際旅団の参加者を募集し組織するよう指令が下った。国際旅団は同年11月より実際に内戦に参加した。その間、トレドにおいて戦闘が起こり反乱軍によって包囲作戦が展開され陥落した。この勝利は反乱軍にとって象徴的なものとなり、勢いづいた反乱軍のマドリードに対する包囲作戦は激しさを増した。

10月を通してソビエト政府はフランシスコ・ラルゴ・カバリェーロによるスペイン人民戦線の新共和国政府に対し救援物資を支援した。この行動に関してソビエト大使イワン・マイスキーは10月23日に行われた不干渉委員会において、以前から行われているドイツ及びイタリアによる反乱軍に対する支援は各国の不干渉の同意に対する侵害であると非難し、ソビエト政府の共和国側に対する支援を弁護した。

金準備とスペイン銀行[編集]

スペイン内戦が勃発する直前の1936年5月、スペインの金準備は世界第四位を誇っていた。この金は主にスペインが中立であった第一次世界大戦中に蓄積されたものである。スペイン銀行の記録によると行方の分かっていなかった金準備は主にマドリッドのスペイン銀行に保管されており、残りは各地方のスペイン銀行の支店やパリに保管されていた。この金準備の内訳は主にスペインや国外の金貨によるもので骨董品の様な形で保管されていたものは全体の0.01%ほどであった。金塊としての金も64インゴットと決して多くはなかった。当時のスペインが保有する金準備の価値は様々な文献から窺い知ることが出来る。1936年、8月7日、ニューヨークタイムズはマドリッドに保管されているスペインの金準備は当時のアメリカドルにして7億1800万ドルに達すると報じた。これは純金635トンに相当するものである。1936年7月1日にスペイン銀行によって発行された統計によると、内戦3週間前の6月30日時点での金準備は52億4000万ペセタに達したと記録されている。(これは当時の7億1800万ドルに相当する。2005年時点での金額はインフレ指数の変動を含めると97億2500万ドルに相当する)。これと比較し2か月後の9月時点でのスペインの金準備の総額は当時の75億900万ドルと急増する。スペイン銀行は1936年にジョイント・ストック・カンパニーとして設立され、資本金は1億7700万ペセタであった。銀行自体は国有ではなかったが銀行の総裁を任命する権限は政府が有し、また銀行の理事会の中には財務省にあたる官庁によって任命された理事が含まれておりスペイン銀行は両者の影響下におかれることになる。

1921年12月29日に施行された銀行法(当時の財務大臣、フランシスコ・カンボにちなみカンボ法とも呼ばれる。)はジョイント・ストック・カンパニーであったスペイン銀行を中央銀行、並びにプライベートバンクに指定し、金準備の使用に関し議会の正式な承認が必要とされる事を明記した。また同法はペセタの為替の誘導、及び国際的な為替市場、貨幣市場に干渉する際に大蔵省から要求がある場合のみ、政府はスペイン銀行に金準備を売却する事を要求出来る権利を有すると明記した。

歴史家の中には戦時下の金の移送に関して疑問を呈す者もおり、スペイン銀行からの金の移送はカンボ法を明らかに違反していると主張している。