メイ・パン

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メイ・パン

May Pang
2002年
生誕 May Fung Yee Pang
(1950-10-24) 1950年10月24日(73歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークマンハッタン
職業 個人秘書、プロダクション・コーディネーター、ジュエリーデザイナー、著作家
著名な実績 公私に亘るジョン・レノンとの関係
配偶者 トニー・ヴィスコンティ
子供 2人
公式サイト www.maypang.com
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メイ・フン・イー・パン(May Fung Yee Pang、1950年10月24日 - )は、アメリカ合衆国の元音楽エグゼクティブ。ジョン・レノンオノ・ヨーコの個人秘書、プロダクション・コーディネーターとして働いた。1973年、レノンとヨーコは倦怠期に陥り、パンとレノンは18ヶ月以上の間愛人関係にあった。この時期は後にレノンの「失われた週末」と呼ばれる。パンは彼らの関係について2冊の本を上梓した。伝記『Loving John』(Warner、1983年)と写真集『Instamatic Karma』(セント・マーティンズ・プレス、2008年)である。

1989年から2000年にかけてプロデューサーのトニー・ヴィスコンティと結婚しており、2人の子供が生まれた。

前半生[編集]

ニューヨーク州ニューヨークマンハッタンに生まれる。彼女は中国からの移民の娘で、中国で生まれた姉と養子の兄と共にニューヨークのスパニッシュ・ハーレムで育った[1]。母親は洗濯業を営んでいたが居住していた借家が取り壊される事になったため、パン一家はマンハッタンの97番街と3番街近くのアパートに転居した[1]

セント・マイケル・アカデミーを卒業後、ニューヨークシティ・コミュニティ・カレッジ英語版に通った。彼女はモデルを志望したがモデルエージェンシーから民族色が強過ぎると言われた[2]。最初の仕事はソング・プラガーであった。これは曲を吹き込むアーティストをサポートする意図もあった。1970年、アラン・クレインがマネジメントするアブコ・レコードの受付係となる。同社は当時アップル・レコードと3人の元ビートルズメンバー、ジョン・レノンジョージ・ハリスンリンゴ・スターが代表であった[3]

1970年12月、パンはジョン・レノンとオノ・ヨーコの前衛的な映画プロジェクト『Up Your Legs Forever and Fly』を手伝うよう依頼された[2]。その後、ニューヨークとイギリスでレノンとオノの秘書兼雑用係になるよう依頼され、1971年にレノンがロンドンからニューヨークに転居するにあたり、彼らの個人秘書としての永続的な地位に就いた[4]。1971年10月9日、ニューヨーク州シラキュースエバーソン美術館で開催された、オノの「This Is Not Here」アートショーの美術展をコーディネートした[5]。オノのショーはレノンの31歳の誕生日と同時期に行われ、ホテル・シラキュースでパーティーが開催され、リンゴ・スターフィル・スペクターエリオット・ミンツ英語版などが参加した[5]

失われた週末[編集]

レノンはパンと18か月の愛人関係にあった期間を、後に同タイトルの映画小説から「失われた週末」と呼んだ[6]

1973年半ば、パンはレノンのアルバム『マインド・ゲームス』のレコーディングに取り組んでいた。当時レノンとオノは夫婦間の問題を抱えており、別居することにした。そしてオノはパンにレノンの同居人になる(交際する)よう提案した[3]。オノはレノンとうまくいっておらず、言い争いをしては仲違いしていると説明し、レノンは他の女性に目移りするだろうと言った。更にレノンがパンを性的に魅力的だと思うと言っていたと伝えた。パンは彼女の雇用主でありオノの夫でもあるレノンとの関係を始めることは絶対にできないと返答した。オノはパンの抗議を無視し、すべて予定通り手配すると言い渡した[7]。オノは後のインタビューでこのやり取りを追認した[8]。オノから「(ジョンとの交際は)いいと思う」と促され、メイとの交際を促されたジョンも戸惑っていたが、最終的にはメイを追いかけることになる。1973年10月、レノンとパンは『マインド・ゲームス』のプロモートのためニューヨークを離れてロサンゼルスに向かい、友人宅にしばらく滞在した[2]

滞在中、レノンは2つのレコーディング・プロジェクトに着手するように勧められた。ミュージシャンになるきっかけとなった古いロックン・ロールの曲を集めたアルバムの作成と、他のアーティストのプロデュースである。1973年12月、レノンはフィル・スペクターと協力して、オールディーズのアルバム『ロックン・ロール』をレコーディングした。酒に焚き付けられたレコーディング・セッションは伝説的なものとなった。ロサンゼルスのすべてのミュージシャンが参加を望んだが、直ぐにレノンの飲酒とスペクターの常軌を逸した行動(スタジオのコントロール・ルームでの銃の発砲など)によりセッションは中断した[9]。その後、スペクターは自動車事故に遭って、レコーディングテープが行方不明になったと主張した。

1974年3月、レノンはハリー・ニルソンのアルバム『プシー・キャッツ』の制作を開始した。このアルバムタイトルは、トルバドール英語版での2度の飲酒事件でメディアから刻印された「バッドボーイ」のイメージに対抗するため名付けられた。一度目はレノンが額に生理ナプキンを付けて、当時お気に入りのレコードの1つであった「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」をリリースしたアン・ピーブルスのコンサートでウェイトレスと乱闘し、二度目はその2週間後、レノンとニルソンがスマザーズ・ブラザーズ英語版野次った後、クラブから叩き出された。レノンはミュージシャンが時間通りにスタジオに集まれるように1つ屋根の下に住むのは良い考えだと判断したので、パンはサンタモニカに彼女とレノン、ニルソン、リンゴ・スター、キース・ムーンが住むためのビーチハウスを借りた。この時期、パンはレノンに家族や友人に手を差し伸べるよう勧めた。彼とポール・マッカートニーは関係を修復し、ビートルズの解散後初めて一緒にプレイした(ア・トゥート・アンド・ア・スノア・イン・'74を参照)。更にパンはジュリアン・レノンが、ほぼ4年ぶりに父親のもとに訪れるよう手配した[10]

ジュリアンは、より定期的に父親と会うようになった。レノンは1973年のクリスマスにジュリアンにギブソン・レスポールのギターとドラムマシンをプレゼントし、いくつかコードを弾いて見せてジュリアンの音楽への興味を促した[11][12]。「父と私の関係は以前よりずっと良くなった」とジュリアンは回想する。「彼がメイ・パンと一緒にいた時、私たちはとても楽しく、沢山笑い、全般的に素晴らしい時間を過した。父とメイとの当時の私の思い出は非常に鮮明だ。―それは私が彼らと共に思い出せる最も幸せな時間だった。[13]

1974年6月、レノンとパンはマンハッタンに戻った。レノンは飲酒をやめ、レコーディングに集中した[14]。レノンは以前リバプールのミミ伯母英語版の家に住んでいた時、猫を飼っていた。彼とパンはメジャーとマイナーと名付けた2匹の猫を飼った[15][16]。同年初夏、2人は東52番街434のペントハウスアパートメントに移り、レノンはアルバム『心の壁、愛の橋』に取り組んだ。8月23日、レノンとパンは、クイーンズのパノラマビューを望むテラスからUFOを見たと語った。デッキに辿り着くため、2人は台所の窓から登らなければならなかった[17]。その夜、裸のレノンが興奮してパンを呼び寄せ、外のデッキで合流した。2人は共に100フィート以内の距離に静かに浮かぶ円形の物体を見た[15]。レノンは、彼の「公認の」写真家であるボブ・グルーエン英語版に電話し、起こっている事を話した。グルーエンは警察を呼ぶべきだと提案したが、レノンは笑い飛ばし、新聞を呼んで「私はジョン・レノンです。昨夜空飛ぶ円盤を見ました」と言うつもりは無いと言った。グルーエンは地元の警察署に電話し、他に3人の目撃証言があることを確認した。デイリーニューズはレノンとパンが住むニューヨークの同じ地域で5人の目撃証言がある事を報じた[15]。レノンは自身の曲「ノーバディ・トールド・ミー」で、この事件について言及している。

『心の壁、愛の橋』はアルバムチャートでトップの座に上り詰めた。更に「真夜中を突っ走れ」で、生涯で唯一のアメリカにおけるナンバーワン・シングルを達成した。パンは「夢の夢」でレノンの名前を囁いている。「予期せぬ驚き」はパンについて書かれている[6]。ジュリアンはアルバムの最後のトラック「ヤ・ヤ」でドラムを演奏した[18]。『心の壁、愛の橋』のレコーディング中、キャピトル・レコードのプロモーション担当副社長アル・クーリー英語版は、スペクターの混沌としたセッション・テープを手に入れ、ニューヨークに持ち込んだ。レノンは『心の壁、愛の橋』で組んだのと同じミュージシャンと共に、オールディーズのアルバム『ロックン・ロール』を完成させた。パンは『心の壁、愛の橋』でRIAAゴールド・レコード賞を受賞し、アルバム『ロックン・ロール』の制作コーディネーターとしての仕事を続け「Mother Superior」としてクレジットされた。また、ニルソン、スター、エルトン・ジョンデヴィッド・ボウイのアルバムにも取り組んだ[2]

ニューヨーク州モントーク英語版アンディ・ウォーホルの屋敷にミック・ジャガーを訪ねた時、レノンとパンはモントーク・ポイント灯台英語版の近くで売りに出されているスコットランド風のコテージを見かけた。1975年2月、レノンは不動産ブローカーに買い取りを依頼した[19][20]。同月、レノンとパンは、ウイングスがアルバム『ヴィーナス・アンド・マース』をレコーディングしているニューオーリンズにポールとリンダ・マッカートニーを訪問する計画を立てていたが、オノがレノンの喫煙習慣に対する新しい治療法があると言った後、訪問予定の前日にレノンはオノに従った[21][22]。会合の後、レノンは家に帰ることもパンに電話することもできなかった。パンが翌日電話をかけた時、オノはレノンは催眠療法の施術後で疲れ果てているので面会はできないと言った。2日後、レノンは共通の歯科予約で姿を見せた。パンがレノンは洗脳されたに違いないと思う程、彼はぼうっとして混乱していた。レノンはパンにオノと和解したので、2人の関係は終りだと語った[23]。その後の数年間、パンは内密にレノンと数回会ったが、彼らの関係が再燃する事は無かった[24]

レノンはこの期間を公的には後悔してみせているが、私的には後悔していない。1964年からレノンと親交のあるジャーナリストのラリー・ケイン英語版は、「失われた週末」の期間を詳述したレノンの包括的な伝記を書いた。ケインとのインタビューで、レノンはパンと過した時期について「ラリーの知っての通り、私は今までで一番幸せだったかも知れない...私はこの女性(パン)を愛し、何曲か美しい音楽を作り、大酒やたわ言やその他もろもろで色々とやらかした。」と説明した[25][26]

レノンに関するパンの著書[編集]

1983年

レノンがオノのもとに戻った後、パンはユナイテッド・アーティスツ・レコードアイランド・レコードPRマネージャーとして働き[14]ボブ・マーリーロバート・パーマーのアルバムに取り組んだ。

1983年、回想録『Loving John』を出版(後に改訂され、『John Lennon: The Lost Weekend』に改題)。オリジナルの500ページの『Loving John』は、主にレノンのアルバムとセッションにおけるパンの役割に焦点を当てていた[27]。それは300ページに編集され、主に彼らの関係のセンセーショナルな側面に濃縮された。また、レノンが1970年代後半に世界中を旅した時にパンに書いたハガキも掲載された。パンは彼女とレノンは1977年まで恋人であり続け、彼の死去まで連絡を取り合っていたと主張している[28]

パンの写真集『Instamatic Karma』は2008年に出版された[29]。この本には、ありのままの私的なポートレートに加え、ビートルズの正式な解散に署名するレノンや[30]、レノンとポール・マッカートニーの既知の最後の写真の1つなど、歴史的に重要な写真が何点か載せられている[31]シンシア・レノンは裏表紙の推薦文を提供し、レノンと疎遠になっていた長男ジュリアンとの再会にパンが果した役割に感謝した[29]

ジュエリー[編集]

パンは自身のジュエリー・ビジネスを始め、ステンレス鋼の風水ジュエリーをデザインしている[32][33]

その後の私生活[編集]

1989年、音楽プロデューサートニー・ヴィスコンティと結婚、2人は2000年に離婚した[1]。彼らには2人の子供がいた。パンはレノンとの交際期間からの人々との関係を維持しており、ポール・マッカートニーは彼女をリンダ・マッカートニーの追悼式に招待した[21]。2002年にはジョージ・ハリスンの追悼コンサート「コンサート・フォー・ジョージ」にゲストとして招待され、シンシア・レノンとレノンの長男ジュリアン・レノンの近くに座った[34][35]

2006年10月9日、レノンの66回目の誕生日に30年間連絡を取っていなかったオノにアイスランドで偶然出会った。オノはレイキャヴィークで彫刻を発表するためアイスランドに来ており、同じホテルに滞在していた[6]

彼女はニューヨークのアニマル・ヘブンと言う動物保護施設でボランティアをしており、ハリケーン・カトリーナの後に救助された犬を飼っている[36]。また、インターネットラジオ「blogtalkradio.com」のトーク番組「Dinner Specials with Cynthia and May Pang」の司会をパートナーのシンシア・ネイルソン英語版と務めている[37]

脚注[編集]

  1. ^ a b c May Pang is a legend in the Rock n' Roll world”. Asiancemagazine (2003年9月1日). 2013年5月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧。
  2. ^ a b c d Harry 1990.
  3. ^ a b Grant, Peter (2005年4月4日). “My love for 'lost' Lennon”. Liverpool Echo. 2011年5月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧。
  4. ^ 1970s”. The Liverpool Lennons. 2008年1月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧。
  5. ^ a b James, Gary. “Gary James' Interview With John Lennon's Girlfriend, May Pang”. Classic Bands. 2021年3月27日閲覧。
  6. ^ a b c White, Dave. “Interview: May Pang‐Lennon's "Lost Weekend" Lover”. About, Classic Rock. 2012年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧。
  7. ^ Brenda, Geoffrey Giuliano (1998). Press Release Interview with May Pang. ISBN 978-0-7119-6470-9. https://books.google.com/books?id=kVpXvJn0ZZIC&q=%22may+pang%22&pg=RA2-PA260 2021年3月27日閲覧。 
  8. ^ Kane 2005, p. 70.
  9. ^ William, Richard (2009). Phil Spector: Out Of His Head 
  10. ^ Lennon 2005, pp. 336–340.
  11. ^ Memorabilia: The Julian Lennon Collection”. Lennon.net. 2011年6月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧。
  12. ^ Lennon 2005, p. 345.
  13. ^ Brooks, Richard (2009年6月13日). “Julian Lennon gives family peace a chance”. The Times (London). オリジナルの2011年6月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110617012950/http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/music/article6492509.ece?token=null&offset=12&page=2 2021年3月27日閲覧。 
  14. ^ a b Rowan, Terry (2012). Penny Laine´s Anthology. pp. 213 
  15. ^ a b c Warren, Larry. “There's UFOs Over New York and John Lennon Wasn't Too Surprised”. UFO Evidence. 2021年3月27日閲覧。
  16. ^ John Lennon and May Pang”. kamasutra. 2008年11月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧。
  17. ^ A history of UFOs”. Pilot online. 2011年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧。
  18. ^ Lennon 2005, p. 344.
  19. ^ Pang reveals her side of affair with John Lennon”. Beatles Unlimited (2007年11月21日). 2011年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧。
  20. ^ Pang reveals her side of affair with John Lennon” (2007年11月19日). 2021年3月27日閲覧。
  21. ^ a b Friedman, Roger (2001年9月5日). “Beatles: Lennon planned to meet McCartney in 1974”. Fox News. オリジナルの2009年3月5日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090305072325/http://www.foxnews.com/story/0,2933,35067,00.html 2021年3月27日閲覧。 
  22. ^ Sweet Bird of Paradox”. Angelfire. 2007年12月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧。
  23. ^ Harry, Bill (2000). The John Lennon Encyclopedia. Virgin. pp. 700–701. ISBN 0-7535-0404-9 
  24. ^ The ballad of John and Yoko's secretary” (2005年5月4日). 2021年3月27日閲覧。
  25. ^ Lennon Revealed”. 2005年12月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧。
  26. ^ Kane 2005, p. 237.
  27. ^ Interview with May Pang”. Ear Candy. 2007年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧。
  28. ^ Lennon 2005, p. 379.
  29. ^ a b Instamatic Karma : photographs of John Lennon. New York: St. Martin's Press. (March 4, 2008). ISBN 978-0312377410. https://archive.org/details/instamatickarmap0000pang 
  30. ^ Giles, Jeff (2015年12月29日). “40 Years Ago: John Lennon’s Signature Dissolves the Beatles”. Ultimate Classic Rock. 2015年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧。
  31. ^ Last Known Photos of John Lennon and Paul McCartney Together in 1974”. Vintag (2018年2月11日). 2021年3月27日閲覧。
  32. ^ Taylor, Alex. “Life with John Lennon: Pomona's May Pang tells all” (英語). The Journal News. 2020年10月6日閲覧。
  33. ^ May Pang Reflects on Her Lasting "Weekend" With John Lennon”. The Observer (2011年6月28日). 2020年10月6日閲覧。
  34. ^ Friedman, Roger (2003年9月30日). “Beatle Wife, Girlfriend, Come Together”. Fox News. オリジナルの2009年3月5日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090305073334/https://www.foxnews.com/story/0,2933,98660,00.html 2021年3月27日閲覧。 
  35. ^ Cynthia's New Bio Called "John"”. 2011年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧。
  36. ^ Haught, Lori (2006-12-15). Getting Fifi to pay for abandoned mutts' care. 19. Downtown Express. オリジナルの2011-06-12時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110612174209/http://www.downtownexpress.com/de_188/gettingfifitopayfor.html 2021年3月27日閲覧。. 
  37. ^ May Pang”. Listen Notes. 2021年3月27日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]