ボラト (ジョチ家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ボラト・ハン(بولاد būlād、? - 1410年)は、バトゥ家断絶後のジョチ・ウルスハントカ・テムル系ノムカン王家の出で、先々代のハンテムル・クトルクの子にあたる。プーラード、プラドとも。

マングト部のエディゲによって推戴された傀儡ハンの一人。

概要[編集]

ボラトはジョチの十三男トカ・テムルの末裔で、トカ・テムルの孫のノムカンを始祖とする「ノムカン家」の出身であった[1]。ノムカン家のテムル・ベクオロス・ハンの没後にオルダ・ウルスでハンに即位しており、テムル・ベクの子のテムル・クトルクの子がボラトとなる[2]

テムル・ベクはトクタミシュ・ハンに敗れて亡くなり、トクタミシュはジョチ・ウルスの再統一を達成するも、南方のティムールと対立して没落した[3]。トクタミシュの没落後に台頭してきたのがマングト部のエディゲで、エディゲはテムル・ベクと自身の妹の子であるテムル・クトルクを擁立し、バトゥ・ウルスの大部分を支配した[4]

テムル・クトルクの没後にエディゲはその従兄弟にあたるシャディ・ベクを擁立したが、シャディ・ベクはエディゲを排斥しようとしたために逆にエディゲによって殺されてしまった[5]。シャディ・ベクの死後にエディゲが擁立したがのがボラト・ハンであり、ヒジュラ暦812年(1409年-1410年)にティムール朝シャー・ルフの下に使者を派遣したことが記録されている[2]

しかし、その翌年のヒジュラ暦813年(1410年-1411年)に息子を残さず急逝してしまったため、ハン位は弟のテムル・ハンに移ることになった[2]

トカ・テムル系ノムカン王家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 赤坂2005,87-90頁
  2. ^ a b c 赤坂2005,300頁
  3. ^ 川口2002,84-85頁
  4. ^ 坂井2007,42-44頁
  5. ^ 坂井2007,41-42頁

参考文献[編集]

  • 赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』(風間書房、2005年2月)
  • 赤坂恒明「ペルシア語・チャガタイ語諸史料に見えるモンゴル王統系譜とロシア」『北西ユーラシアの歴史空間』(北海道大学出版会、2016年3月)
  • 川口琢司「キプチャク草原とロシア」『岩波講座世界歴史11』(岩波書店、1997年
  • 川口琢司「ジョチ・ウルスにおけるコンクラト部族」『ポストモンゴル期におけるアジア諸帝国に関する総合的研究』(2002年
  • 坂井弘紀「ノガイ・オルダの創始者エディゲの生涯」『和光大学表現学部紀要』(第8号、2007年
先代
シャディ・ベク
ジョチ・ウルスのハン
1407年 - 1410年
次代
テムル・ハン