ブリアテクスト

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Briatexte

行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) オクシタニー地域圏
(département) タルヌ県
(arrondissement) カストル郡
小郡 (canton) グロレ小郡
INSEEコード 81039
郵便番号 81390
市長任期 ベルナール・バカブ
2014年-2020年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté d'agglomération du Rabastinois - Tarn et Dadou - Vère Grésigne et Pays Salvagnacois
人口動態
人口 2020人
(2014年)
人口密度 135人/km2
住民の呼称 Briatextois, Briatextoises
地理
座標 北緯43度45分07秒 東経1度54分31秒 / 北緯43.7519444444度 東経1.90861111111度 / 43.7519444444; 1.90861111111座標: 北緯43度45分07秒 東経1度54分31秒 / 北緯43.7519444444度 東経1.90861111111度 / 43.7519444444; 1.90861111111
標高 平均:150m
最低:119 m
最高:294m
面積 15km2
Briatexteの位置(フランス内)
Briatexte
Briatexte
公式サイト site de la commune
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ブリアテクストBriatexteオック語:Britèsta)は、フランスオクシタニー地域圏タルヌ県コミューン

地理[編集]

ブリアテクストは、ジルサンスとグロレの中間、ダドゥ川と県道631号線に面する。

歴史[編集]

ブリアテクストは、1287年にカルカソンヌの奉行であったシモン・ド・ブリズテストによって建設されたバスティッドである。ブリズテストはフランス王フィリップ4世の代理である。ブリアテクストの地には、かつて1212年にシモン・ド・モンフォールによって壊滅させられたカタリ派の村、トゥエルがあった。この新しいバスティッドは隣接するサン・ゴーザンスからの侵入を阻止していた。

ブリアテクストは王権の確立が成功した例であった。その設計図には長方形が含まれ、全てが幾何学上に表されていた。広場の正方形の四辺は、メインストリートを形成し、様々な大きさの区画を区切っていた。

14世紀に要塞化されたブリアテクストは、ユグノー戦争の混乱の中に落とされた。プロテスタントに改宗した住民たちは、どんな攻撃もされないように要塞を作ったのである。広場の南半分を占めていた教会は、1574年頃に破壊された。そこにプロテスタントの教会が建てられた。この苦しんだ時代からの優れた建物もあり、シャトー通りにある。そこは、17世紀初頭のプロテスタントのコンシュル、モンタリヴェの住居であった。

1622年に起きた第一次ユグノー反乱のさなか、ヴァンドーム公セザール率いる7000人の歩兵と500人の騎兵からなるカトリック軍が、ロンベズを攻略し燃やし尽くした後にブリアテクストを包囲した。この地を指揮したのはフォーコン隊長、そしてこの地方のプロテスタント派首領であるマローズ侯爵アンリ・ド・ブルボン(アンリ4世が洗礼時の代父)であり[1]、500人の兵士たちの首領となっていた。援軍と、マローズ侯爵が提供した火薬のおかげで、フォーコン隊長は一か月に及んだ包囲を支援し、5度の攻撃を押し戻した。支援者であったマローズ侯爵は、サン・ポール・ド・ダミアットにおいて2000人の歩兵と200人の騎兵とともにあった。モンペリエを包囲していたルイ13世による援軍を知らされ、ヴァンドーム公は2000発の大砲を放って1500人の兵士を失った後に、包囲を解いた。

ナントの勅令廃止後にカトリックが国教に戻ると、1629年にバスティッドは自らの防衛設備を取り除かれ、1685年にプロテスタント教会は破壊された。

現在、教会は古い防衛設備の外側にたっている。ダドゥ川は町における防衛の最後の砦となって残る。橋に立つと、絵画のように美しい風車や鳩小屋を見ることができる。

人口統計[編集]

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2014年
1340 1546 1791 1865 1800 1662 1701 2020

参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[2]、2006年以降INSEE[3][4]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]