ヒュームの法則

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ヒュームの法則(ヒュームのほうそく、Hume's law)、またはヒュームのギロチン(Hume's guillotine)とは、「~である」(is)という命題からは推論によって「~すべき」(ought)という命題は導き出せないという原理である。

概要[編集]

デイヴィッド・ヒュームは『人間本性論』第三巻第一部第一節「道徳的区別は理性から来ない」末段において道徳的判断は理性的推論によって導かれないことを主張した(ちなみにどうして道徳的判断をするのかについての彼の積極的な答えは感情に起因するというものである)。ヒュームの法則はその議論の一環である。しかし、それは――20世紀以降の英米のメタ倫理学における注目とは裏腹に――ヒューム自身の中心的な論点ではなく、彼の倫理学における扱いは思いのほか軽い。現にそれはその節の最後の一段落で申し訳程度に述べられているのみであり、これ以降の箇所でのヒュームの哲学倫理学の理論において言及されておらず、能動的役割を果たしてもいない。つまり、「それは先行する論点を補援し、その応用として因みに、付随的に加えられた『いささか重要な』論述にすぎない」(杖下, p.148)。

どの道徳体系ででも私はいつも気がついていたのだが、その著者は、しばらくは通常の仕方で論究を進め、それから神の存在を立証し、人間に関する事がらについて所見を述べる。ところが、このときに突然、であるではないという普通の連辞で命題を結ぶのではなく、出会うどの命題も、べきであるべきでないで結ばれていないものはないことに気づいて私は驚くのである。この変化は目につきにくいが、きわめて重要である。なぜなら、このべきであるべきでないというのは、ある新しい関係、断言を表わすのだから、これを注視して解明し、同時に、この新しい関係が全然異なる他の関係からいかにして導出されうるのか、まったく考えも及ばぬように思える限り、その理由を与えることが必要だからである。 — ヒューム『人性論――精神上の問題に実験的推論方法を導き入れる試み』土岐邦夫訳、中公クラシックス、2010年、188-189ページ

この直後に「ところで、道義の体系を説いた人々はこうした〔理由を与えるという〕用心をしないのが普通である。それゆえ、私は読者がこれをするように敢えて勧めよう。そして私は堅く信ずるが、この僅かな注意は道徳性に関する一切の卑俗な体系を覆すであろう」(大槻春彦訳『人性論(四)』岩波文庫、1952年、34ページ)……と続く。以上、ヒューム自身の叙述に即すると、「である」から「べし」へと短絡する道徳論にひそむ論理の飛躍を看破しつつも、懐疑論はそれら規範意識(や価値判断)を頭から否認し去るのでなく、その飛躍を埋める理由(そこで自明視された暗黙の前提など)を明らかにすべきことを説いた、とも読める[1]。しかし後世もっぱら、存在と当為とを峻別して事実命題から価値命題(や規範)への推論の不可能性を説く禁則として受け取られてきた――その場合、価値観(望ましい)と規範(すべし)とが重ねられがちだが、望ましいからとて必ずしもしなければならない(すべき)とまでは強制できない不完全義務の例(慈善、親切等)や倫理道徳とは別に審美的価値もある通り、何かが価値あることが直ちに何かをなすべきだと命じる規範になるのかも批判にさらされよう――。

類似した事柄をG・E・ムーアも『倫理学原理』において述べており、彼はあることが自然的であることから、道徳的判断を導いたり(例えば「~するのがあたりまえである」から「だから~すべきだ」のように)、善を定義づけることは不可能であるとした。こちらは自然主義的誤謬と呼ばれている。『倫理学原理』にヒュームの一節への言及は無かったが、ムーアに影響された人々はその先駆としてヒュームを引用し、中でもリチャード・マーヴィン・ヘア『自由と理性』が「ヒュームの法則」と称した[2]

批判[編集]

ジョン・サールは「How to Derive 'Ought' From 'Is'」において約束をするという行動はその定義のために義務の下にあり、その義務は「べき」となることを表す、と主張した。

現代の自然主義哲学者たちは「である」から「べき」の導出は可能であると見なし、それは「Aが目的Bを達成するためにAはCすべきである」(In order for A to achieve goal B, A ought to do C)という言明に分析できるとした。これならば、検証または反証されうる。しかし、目的は「べき」を暗示しており、「べき」から「べき」の導出に過ぎないとも言いうる。

一部の自然主義者は単純な倫理的な「べき」―「汝殺すことなかれ」のような信念―は人間の生物学的な衝動から自然的に出てくるのであるとし、より複雑な倫理的規則は社会の共通の利益に由来している、とする。そして任意のグループ内で如何にして社会的な規則が生まれるのかのより広い調査の発展は社会生物学の科学的な分野に属する。

純粋な「である」と「べき」とに峻別する絶対的な二分法自体に疑義を示し、「事実と価値の絡み合い」を基本とする議論[3]もある。「濃い概念」(厚い概念 thic concept)と「薄い概念」とを区別する論法によれば、「残酷である」「勇気ある」といった語は「である」としての事実記述をすると同時に「やめるべきだ」とか「模範とすべきだ」といった価値評価的な(ひいては規範的な)含意をも伴った「濃い倫理的概念」であって、「である」と「べき」が混じり合った状態にある。対して、伝統的な倫理学が重んじてきた「善悪」「正義」といった抽象度の高い(具体性に乏しい)用語はもっぱら評価的・規範的な意味しかない「薄い倫理的概念」とされる[4]。さらには、規範的含意を一切伴わない文や発話行為が果たしてあるのかどうかも問題になる[5]主観性抜きの純然たる価値自由(没価値判断)な客観認識が可能かとも換言できよう。

脚注[編集]

  1. ^ A・C・マッキンタイア、竹中久留美訳「ヒュームのISとOUGHT」『国際哲学研究』3号、東洋大学国際哲学研究センター、2014年3月
  2. ^ 塚崎智「ヒュームの'ls-Ought'Passageについて」大阪大学文学部『待兼山論叢 哲学篇』第8号、1975年1月
  3. ^ ヒラリー・パトナム藤田晋吾・中村正利訳『事実/価値二分法の崩壊』法政大学出版局、2006年
  4. ^ バーナド・ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』森際康友・下川潔訳、ちくま学芸文庫、2020年
  5. ^ 一ノ瀬正樹『英米哲学入門――「である」と「べき」の交差する世界』ちくま新書、2018年、p.327

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]