ハインリッヒ・パノフカ

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ハインリッヒ・パノフカ

ハインリッヒ・パノフカ: Heinrich Panofka1807年10月3日(リーマンの音楽事典では2日) - 1887年12月18日)は、ドイツ出身の作曲家声楽家ヴァイオリニスト

生涯[編集]

シレジア地方のブレスラウ(現ポーランドヴロツワフ)で生まれた。最初はヴァイオリンをシュトラオホとフォルスターに習い、10歳ですでに演奏会で弾いている。17歳のときにブレスラウの大学を去り、ウィーンへヴァイオリンと作曲を学ぶために赴く。そこでヴァイオリンはマイゼーダーに、作曲はヨアヒム・ホフマンに学んだ。

20歳のとき、ウィーンで独奏会を開いたのち、1829年、22歳でウィーンからミュンヘンに移り、さらに勉学のためベルリンに住むことになったが、1831年に父の死去のため一時ブレスラウに帰る。

1834年になって、彼はヴァイオリニストとしての演奏活動をパリで行い、ベルリオーズのもとで音楽会を開いている。またその頃より声楽に興味を示し、コンセルヴァトワールにおいて、当時声楽家として著名だったボルドーニに歌唱技術を学ぶ。

1842年、ボルドーニと共に、パリに声学院 (Académie de Chantdes Amateurs) を設立し、声学教授も務めた。1844年、彼はロンドンに赴き、王立劇場のアシスタントの一人として契約し、声楽教師として、ジェリー・リンドなど有名歌手を助ける仕事もしたのである。この時代に出版した「Practical Singing Tutor」によって、彼は広く声楽教師としての名を知られるようになった。

1852年、再びパリに戻り、ヴァイオリンの演奏会を行ったり、ヴァイオリン曲(変奏曲ロンド、その他小品や練習曲)などを作曲すると同時に、新聞の音楽評論等も書くようになる。

1866年からフィレンツェに住むようになるが、これはイタリアの声学の歴史および歌唱様式を学ぶためであった。しかしフィレンツェでの生活は長く続かず、1887年12月18日(リーマン、ベイカーの事典では11月)、この地で彼は世を去った。

参考文献[編集]

  • 『パノフカ 作品81b(中・低声用)』畑中良輔 全音楽譜出版社 1998年12月10日 ISBN 978-4117125023