ノート:0.999...

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この記事について[編集]

この記事は英語版 en:0.999... の翻訳です。元記事は英語版において秀逸な記事に選ばれているようです。その記事の意図するところを損なわないように翻訳したつもりですが、日本語の文としてぎこちないところや、翻訳のミスがあるかもしれませんので、校正にご協力ください。--Tsukapee 2007年1月19日 (金) 16:34 (UTC)[返信]

全部を理解しているわけではありませんが、たいへん面白い記事です。どうもありがとうございます。- euske 2007年2月18日 (日) 00:01 (UTC)[返信]

翻訳記事を日本版の秀逸な記事に選ぶのはいかがなものか、とも思いますがいかがでしょう? 少しくやしいですね。花水木 2007年4月29日 (日) 01:50 (UTC)[返信]

関連しますが、参考文献に日本語のものがないのにもかかわらず、「長きにわたり教科書にも記され」とあるのは日本語版としていかがかと思います。実際のところ日本の教育現場ではどうなのでしょう?--+- 2007年4月29日 (日) 09:20 (UTC)[返信]
どうなんでしょうか? 秀逸な記事の選考基準の説明をみると内容が一定基準を満たせば良いとなっているので、翻訳であることを理由に退けるのは困難と考えます。(むしろ、基準のレベルはその時々の日本語版での審査員に依存するので、他の国の秀逸記事が日本語版で直ちに秀逸になるという保証はないです)。また、(「関連しますが」と書いておられるので、秀逸な記事の選考条件について論じておられるのだと推測すると)秀逸な記事の条件として内容に瑕疵があってはならないと書いてあるわけでもないです。また「日本語版は日本語で記述されているという意味であり、日本の状況・環境に制限して編集されたものではない」とも言われるようなので、翻訳であったり、日本の現状に即して書かれていなくても記事としては仕方ないかなと考えます(記述において「日本では」と内容が地域限定されていて、且つ現状がそうでなければ訂正しなくてはならないですが…)また、日本固有の事情や教育的慣習があるのであれは、それを記事に追記することは歓迎されると考えますし、秀逸な記事に選考されたら項目を追加してはいけないというルールもないので、それはそれ、秀逸な記事の選考は選考で良いように考えます。--あら金 2007年4月29日 (日) 15:29 (UTC)[返信]

秀逸な記事を運営する元々の趣旨・目的とはずれるけど、まあいいか的なことですね。花水木 2007年4月30日 (月) 04:59 (UTC)[返信]

無審査でFAになったわけでないので、「まあいいか」だと考えます。(論旨は別ですが最後は私も「まあいいか」でOKを出しましたが。)--あら金 2007年5月1日 (火) 07:37 (UTC)[返信]

まあ、別にいいんですけれども。本音をいえば、翻訳記事は対象外でしょうね、常識的には。花水木 2007年5月1日 (火) 14:25 (UTC)[返信]

この概念が成立した時の概念と現代では微視化に関する実感が大きく異なる、つまり時代ズレが激しいため、現代の感覚において本項が成立するかどうかをよく確認する必要がある。例えば0.3の小数第一位循環小数の3倍は0.9の小数第一位循環小数ではなく1である。1を3等分したものは3倍すると1になることは、惑わされてはいけない事実である。統計関数は収束した値にみなす裏で、実はその数値ではないという後ろめたさがあり、利用には倫理道徳面において十分な配慮が必要である。

「教育現場でのとまどい」の記事について[編集]

「教育現場でのとまどい」の記事は要らないと思います。 なぜならば、

 若干の主観が入っている。  国際的に統一化された普遍的な情報としての記事に成り得ない。  この記事の正確性を証明するものが特に無い。  記事としてのqualityがあまりない。

       --124.99.251.226 2008年2月21日 (木) 06:02 (UTC)[返信]

Wikipedia について何某かの誤解があるように思います。執筆者が自分の主観によって記事を書いたならば問題ですが、ご指摘の部分はきちんと出典がしめされており、その内容を述べているだけですから問題ありません。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:出典を明記するなどをお読み下さい。quality がないとおっしゃいますが、それこそ主観であり、教育関係者にとっては示唆に富む興味深い内容だと私には思われます。まあ、それも主観ですけれども。--白駒 2008年2月21日 (木) 11:06 (UTC)[返信]

 編集者の偏見が含まれているような気がします。もう少し 1≠0.999 を肯定することを書いたほうがいいと思います。これでは、 1=0.999 を正しいと思っている人を侮辱しているようです。--キハ28系 2009年12月14日 (木) 20:29 (UTC)[返信]

何をおっしゃりたいのか分かりません。「偏見」も何も、1≠0.999 は明らかに正しく、1=0.999 は明らかに誤りと私は思います。--白駒 2009年12月14日 (月) 13:19 (UTC)[返信]

細かい表現について[編集]

「0.999... とは何か」の2段落目
ここでの "..." の用法は、言語もしくは 0.999...9 における "..." の用法とは異なる。後者の用法は、有限 な部分を明言しなかったり省略したりする用法である。

の「後者」ですが、文脈からは「言語もしくは 0.999...9 における "..." の用法」をさすものと思われます(つまり「ここでの "..." の用法」が前者)。しかし、普通に読んだ場合には「0.999...9 における "..." の用法」が後者で「言語」が前者のように読めてしまいます。「後者の」を「この」にするか、もっとダイナミックに

ここでの "..." の用法は、言語もしくは 0.999...9 における "..." の用法、つまり有限 な部分を明言しなかったり省略したりする用法とは異なる。

とでもした方が読みやすくなるでしょう。さらにいうと「言語」という語がちょっと唐突に現れる気がするので、「一般的な言語表現」くらいのほうがいいかもしれません。--Pacusi 2008年6月24日 (火) 19:30 (UTC)[返信]

私の解釈は「前者」=「言語における "..." の用法」で「後者」=「0.999...9 における "..." の用法」です。言語におけるリーダは必ずしも省略を意味しないからです。リーダー (記号) を参考にされてください。えっと、要するにこの文は「0.999... の ... は、有限個の 9 を省略しているのではないよ、無限個の 9 を省略しているんだよ」(←やや微妙な表現ですが) ということを言いたいのですよね。特にわかりにくいとは思いませんでしたが、それは私が元々知っている話題だからかもしれません。「一般的な言語表現」も悪くはないと思いますが、そもそもリーダ自体が欧文由来のものであって、この部分は英語版の翻訳として残っているだけでしょうから、いっそのこと「言語」の部分を除去してはいかがでしょうか。--白駒 2008年6月25日 (水) 11:26 (UTC)[返信]

可能無限の観点からの0.999...への記述がなされていない[編集]

現在、数学界や教育の現場などでの主流となっている無限の捉え方「実無限」の観点からの記述しかなく、「可能無限」の立場からの記述が決定的に欠けている、と思います。可能無限の立場においては0.999...は1と等しくならないわけですから、これは非常に重要だと思います。もっとも無限の捉え方は「実無限」「可能無限」どちらを支持するかという数学界における宗教みたいなものであって、結論のつかないものですから、併記が望ましいのですが、あまり平等に併記しすぎるのも問題と思います。なぜなら「可能無限」も確かにひとつの考え方ですが、まず一般的な数学では「実無限」の考え方で問題ないのであり、それこそ余り平等に併記したゆえに教育現場における混乱を招く危惧もあるからです。

あまりうまく説明できていませんが、そこらへんもろもろ含めて「可能無限」の観点からの記述のなさについて意見提起したいと思います。みなさんどう思いますか?--思索は円環の時間を為して 2009年8月3日 (月) 10:14 (UTC)[返信]

可能無限についてあまり詳しくないんですが、可能無限だと「0.999...」は何だと考えるんですか?可能無限って、そもそもそんなものを考えることはできないという立場かと思ってたのですが。--122.29.83.144 2009年8月3日 (月) 10:43 (UTC)[返信]
正直な事言わせてもらうと、私も数学者でもなんでもなく余り詳しくないんです。ただ可能無限の観点からの記述がないということだけ気づいたので指摘してみました。
私の答えられる範囲で言えば(間違っている点に気づいた方いたら指摘してください)、「0.999...」はそんな数存在しないか、存在するが1に向かって近づいていくという一種流動的な数であって特定の値を持つ数とは言えない(当然「=1」ともいえない)のどっちかです。どちらかひとつが正しいという事ではなくその両面を持ちます。0.999...という数自身は122.29.83.144さんのいうとおりで、「可能無限」の立場は無限そのものが現に存在するという考えを認めませんから、「そんなものを考えることはできない」で正しいです。ただ、0.999の後に私たちの頭の中で9をひとつ書き更に9をひとつ書き、という風に桁数を増やしていく事は可能であって(正しくこれこそ可能無限の立場の人たちのいう無限ですから)、その思考のプロセスそのものが「0.999...」の定義だ、という風に0.999...を位置づける事は出来ます。無論思考のプロセスであるからして、たとえ同じ数の仲間であるにしても他の数と同等に扱うことはできません。
というのが、たしか私の認識では、可能無限における0.999...の扱い方だったと思います。--思索は円環の時間を為して 2009年8月4日 (火) 07:53 (UTC)[返信]
「可能無限」の立場というのがそもそもどのようなものなのか存じ上げないので、思索は円環の時間を為してさんによる0.999...に関する説明がその立場に照らして妥当なものなのか否か判断することはできないし、そもそもそのような立場を記事に記録するべきなのかどうかも現状では判断がつきません。一般論として、記事に書くことについては検証可能かつ特筆すべきものに限るべきです。まずは「可能無限」についての検証可能性を与える、権威のある出典を示していただけませんか。--Makotoy 2009年8月4日 (火) 09:20 (UTC)[返信]
近頃は恐ろしいもので、検索すると出てきました。市川秀志『カントールの区間縮小法』という本の102頁に言及があります。但し対話篇形式で書いてあることもあり、この本に「権威がある」かどうかは問題があるかもしれません。私ももっといい出典がほしいです。本記事はあまりに一方的立場からの折伏という感じで、よく秀逸に通ったなと感じますので。--КОЛЯ 会話 2009年8月4日 (火) 10:45 (UTC)[返信]
この本はおそらく自費出版物であり、「可能無限」(それがなんであれ)および付随した概念の解説のための情報源とすることはできません(Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源:二次情報源としての使用)。今の場合、情報源とはWikipedia:信頼できる情報源#自然科学、数学と医学に挙げられている基準をクリアするものか、高等教育で教科書として広く用いられている確立された書籍(参考:Wikipedia:管理者への立候補/Makotoy_20061113#記事の出典と検証性についてなど)等に限るべきであって、権威ある情報源のない記述の追加は認められないし、КОЛЯさんがあげられているような書籍はКОЛЯご自身が認めておられるように出典として不十分です。--Makotoy 2009年8月4日 (火) 14:02 (UTC)[返信]

実無限は en:Actual infinity の、可能無限は potential infinity の訳です。今は手元にありませんが、『無限論の教室』ISBN 978-4061494206 で可能無限の考え方が分かりやすく解説(ただしこれも対話形式)されていたように記憶しています。無限を認めるかとか、二律背反を認めるかといったことは、現代でも哲学の分野でしばしば話題になるようですが、数学とは独立したものと考えた方がよいでしょう。記事のあり方としては、0.999... について可能無限の立場から論じたきちんとした文献がもしあれば、それにしたがって本項に記述を追加することは問題ないと考えます。ただし、この方面は数学に対する無理解により、トンデモになっていることが多々ありますので注意が必要です。--白駒 2009年8月4日 (火) 23:05 (UTC)[返信]

書き込んでから一日も経たずにこれだけの反応があって、意見提起した者としてちとばかり恐縮しております。
『無限論の教室』はノンフィクションで、登場人物たちの対話を主軸として無限に関する解説をする本です。私も手元にはありませんが、図書館などに行けば簡単に手に入ります。ただ可能無限に関して解説はしていましたが、0.999...に対して解説を行っていたかは微妙です(記憶の範疇にあらず)。
ところで信頼できる情報源の件について、白駒さんはトンデモ本の可能性を示唆されており、たしかにその危惧はあると私も思いますが、その点についてはどのように気をつければいいのでしょうか?トンデモかどうかの判断は大分難しい(よもや無理?)と思うのですが...。--思索は円環の時間を為して 2009年8月5日 (水) 02:01 (UTC)[返信]
↓下でКОЛЯさんが指摘している通りで、ノンフィクションは誤りです。当該部分を訂正しておきました。
前々からフィクションとノンフィクションの定義を取り違える所が私にはあって、今回もその単純な勘違いです。--思索は円環の時間を為して 2009年8月5日 (水) 14:53 (UTC)[返信]
『無限論の教室』は私も昔読んだことがあり、いたく感心してしまいましたが、実無限・可能無限のくだりは私も全く覚えていません(汗) ただ、これはフィクションのはずです。--КОЛЯ 会話 2009年8月5日 (水) 12:05 (UTC)[返信]
◆一般論として、トンデモかどうか自身で判断が付かないのであれば、記事には手を出さない方が無難です。特に数学記事では、そういったことが原因で揉め事が起こりやすいのです。さて、可能無限の概念は、数学史的には注目すべきであって、現代でも哲学で扱われると聞いてはいますが、もはや数学の話題でありません。本項の主題と可能無限について、何某かの強い関係が出典付きで示されなければ、記述する必要はないでしょう。極端な話、小数やら微分法やら、無限が関わる全ての項目に可能無限の考え方を加筆するのはナンセンスです。可能無限について数学の哲学に加筆するか、可能無限または実無限という項目を立てて頂くことにして、本項では「関連する問題」節あたりで一言述べるくらいが妥当な線と考えます。なお、『無限論の教室』は物語形式で著者の主張が分かりにくく、出典とするには不向きと思います。--白駒 2009年8月5日 (水) 16:59 (UTC)[返信]
白駒さんの考えには一理ありますね。記事の主題とする数自身が無限を含むものなので、可能無限の観点からも記述すべきかと思ってこうして意見提起したのですが、数学の哲学への加筆か可能無限(or実無限)の記事の新規作成をもってそれを補う事といたします。とはいえ、私にはできそうにない……。
ですが、「『無限論の教室』は物語形式で著者の主張が分かりにくく、出典とするには不向き」というのはちょっと納得がいきません。物語の形式をとった教則本ですから、著者の主張云々というのはそもそもないのではないでしょうか?もっとも、実無限の説明に入ったり可能無限の説明に入ったりと刹那刹那に玉虫色の説明を見せる先生ですが、可能無限・実無限の理解については充分にあの本で行えるので、出典足りうると思いますが。
もっともどちらにしろ、『無限論の教室』を出典として書こう、という事はないわけですが・・・・・・。--思索は円環の時間を為して 2009年8月6日 (木) 01:46 (UTC)[返信]

(インデント戻し) さて旧宅に行って野矢茂樹『無限論の教室』を掘り出してきました。65頁に「可能無限派」の「タジマ先生」という登場人物が、「1に近づきはするけれど、けっして1にはならない」との述べております。それから先に挙げた市川秀志氏のもう1冊の著書(同じ出版社です)が最寄の図書館にありましたので借りてみました。経歴を見ますと、お医者さんです。数学も哲学も素人の方でした。やはり出典とするにはまずかろうと思います。ところで野矢茂樹『無限論の教室』のあとがきを見てみますと、「産婦人科の先生」から手紙をもらって、しばらく文通していたと書かれています。アレッと思って先ほどの市川氏の経歴を見直してみますと、やはり産婦人科医なわけです。これは偶然とは思えません。両氏のアイデアには、影響関係がありそうです(どちらからどちらへはまだわかりません)。

ところでこれらの本を出典に使えるかどうかですが、使うにしてもややこしい注記が必要かと思います。つまり、野矢氏は“登場人物「タジマ先生」に言わせている”というような言い方にならざるを得ず、それが野矢氏の主張というわけではないからです。例えば大江健三郎左翼の論客でしょうが、「セヴンティーン」という小説では右翼に目覚める少年の視点で書いています。その少年の主張を大江氏の主張とするわけにはいきません。--КОЛЯ 会話 2009年8月7日 (金) 17:10 (UTC)[返信]

わざわざ調べていただいて申し訳ないです。
早速本題に入らさせていただきますがあなたのいわれている「主張」というものは必要なのでしょうか?と、言うと非常に唐突な感じですが、即ち記事に加筆するのにはその加筆した内容が決して誤りではない、という根拠(=出典)が示されればいいのであり、その文献を書く者自身の主張というものを取り上げる必要があるのでしょうか?
野矢茂樹さんが「タジマ先生」に言わせているような内容を指示する立場の人である、とは無論КОЛЯさんの言われている通り決していえませんが(特にこの本については1人の登場人物が可能無限・実無限の立場で人格を分けて(確か実無限を語るのが「マジタ」?でしたっけ。)論じているので、むしろ筆者がそのような主張ではないという方に自信を持って主張する事が可能ですが)、しかし可能無限の立場においては、0.999...は「1に近づきはするけれど、けっして1にはならない」と解釈するということは充分その部分の記述でわかるのであり、即ちそれだけで可能無限の観点からの0.999...について記述する出典足りうると思うのですがどうでしょう?私の解釈の方が間違ってますかね?(まだ初心者なので方針については自信が無いです……)
長文すいません。書きでの説明が余り上手くないもので・・・・・・。--会話-履歴 2009年8月8日 (土) 14:43 (UTC)[返信]
私の考えではこうです。厳密に言うと、「可能無限の立場においては、0.999...は1に近づきはするけれど、けっして1にはならない」と考えているのはタジマ先生であって野矢先生ではない、ということになると思います。野矢先生もまたそういう考えをお持ちかもしれませんが、そうだとしたら別に相応しい出典があるはずでそちらを挙げるべきであろうと思います。例えて言うとガリレオ・ガリレイの『天文対話』は地動説の出典になるかということだろうと思いますが、後の科学史家がそう見なしたのであれば出典になるだろうけれども、0.999...の研究史における『無限論の教室』の評価・位置が定まっていない現状では、なかなか出典にはしがたいのではないかということです。繰り返して言えば、「野矢氏は〜〜と登場人物「タジマ先生」に言わせている」という書き方であれば出典として書き込むことはできましょう。しかし除去したい側には一理も百理もありますので除去されても文句は言えないでしょう(また正統的数学プロパーにしてみればきっと除去したいでしょう)。それだったら、可能無限派の立場をよりストレートに表現している出典を探す方がベターではないかということです。--КОЛЯ 会話 2009年8月8日 (土) 16:10 (UTC)[返信]
小説ならともかく、フィクションの形式をとった教則本なのだから、いくら登場人物の発言とはいえ誤った情報を書くはずがない(しかも作中で先生役に当たる人物が)、と好意的にとることはできませんか?--会話-履歴 2009年8月10日 (月) 09:22 (UTC)[返信]
「登場人物の発言とはいえ誤った情報を書くはずがない」という根拠を任意の第三者が検証するためにアクセス可能な資料として「出典」の提示を求めているわけですが、思索は円環の時間を為してさんは(フィクションの形式をとっているとはいえ)ある事実(「可能無限」のことです)が「登場人物の発言とはいえ誤った情報を書くはずがない」という判断に至った根拠は「著者への共感」に基づいて判断されたのか、それとも他の人に説明可能な資料に基づいて判断されたのか、どちらでしょうか?(残念ながらWikipediaでは基本方針で事実であっても任意の第三者がアクセス可能な資料に基づかない加筆はご遠慮いただいているというのが現実です。事実について出典が求められるのは、この記事だけというわけではないのでご承知ください。)--あら金 2009年8月10日 (月) 10:30 (UTC)[返信]
『「著者への共感」に基づいて判断されたのか、それとも他の人に説明可能な資料に基づいて判断されたのか』の2択でいけば、残念ですが『「著者への共感」に基づいて判断』しました。少しあなたの言われていることがキャパの小さい私には難しく感じられるのですが、どうやら内容を察するに「他の人に説明可能な資料」がない現段階では、そんな好意的な取り方による記事へのややこしい注記なしの加筆はできないということでしょうか?--会話-履歴 2009年8月11日 (火) 06:11 (UTC)(草々)[返信]
(意見の主題である事実は公開されていても)すでにWikipedia以外の何らかの信頼できる情報源と認められる手段で第三者に公開されていない見解はここで述べられている理由で、Wikipediaでは投稿をご遠慮いただく方針ということです。(つまり対象がなんであれ説明というのは事実と見解との両方を含むので、両方ともWikipediaの三大方針に適合することが求められます)。見解の内容が良し悪しというではなく、その見解が情報としてどのような環境におかれているかということについては収載する方針として厳格な基準が設けられていると云うことです。--あら金 2009年8月11日 (火) 08:30 (UTC)[返信]
たしかに信頼できる情報源に基づき加筆するというのは記事の正確性を高める上で重要な考えの1つではあると思います。それがウィキペディアでの体質であり基本方針なら仕方ないでしょう。「郷に入っては郷に従え」です。とりあえず現段階のように他の信頼できる情報源がない状態ではややこしい注記なしでの加筆は諦める、と致します。とはいっても、他の文献が手に入ったところで私に加筆できる自信はありませんが……。--会話-履歴 2009年8月11日 (火) 11:41 (UTC)[返信]
(コメント)「可能無限」は哲学(要するに形而上学)の概念でしょうか?、数学の概念でしょうか?たとえばゼノンのパラドックスは無限分割を扱っていますが、数学ではなく形而上学の命題として理解されていると考えますが。(もちろん近代以前であれは哲学と数学とで明確な区別はありませんでしたが、現代では哲学と数学とは明確に区別されています。)--あら金 2009年8月8日 (土) 16:43 (UTC)[返信]
どちらかといえば形而上学になるでしょう。この概念を導入したのはアリストテレスであり、いまのところ可能無限についてなされている研究発表は「数学の哲学」にとどまっていて、一定の前提に基づいた厳密な証明によってあらたな命題を示す分野としての数学における研究事例はほとんどないといってよいとおもいます。これに似たものとして直観主義の立場というものがあり、こちらは数学といってよいでしょう。今のところ可能無限についての僕の意見は、無限で解説すればよく、この記事で触れる必要はないというものです。「0.9, 0.99, 0.999, ... という数の列が近づいていく先は 1 である」という「0.999...=1」の妥当な解釈についてアリストテレスの意味での可能無限の立場との間に何らかの衝突があるとは思えないし、何らかの衝突を示している権威ある情報源(著者以外の学者の査読を受けた文献)も提示されていません。--Makotoy 2009年8月8日 (土) 22:38 (UTC)修正--Makotoy 2009年8月9日 (日) 02:05 (UTC)[返信]
(数自体の概念は哲学的な研究対象になり得りますが)一方、数の表記法は数学上の定義に属するように考えますが? この記事は数の表記法と無限との関係について説明されているわけですが、「哲学上の無限」に対して「数学上の無限」から定義した数の表記法を適用できるかどうかというのは根拠(出典)が必要な説明事項であり、信頼できる情報源(信頼できる第三者もそのように考えているとわかる出典)の提示が必要と考えますが。--あら金 2009年8月9日 (日) 03:18 (UTC)[返信]
ここで注意しないといけないのは、「可能無限」という概念と「0.999...=1」が学問的にどの程度関連があるか(あり得るか、今までに学問の場で考察されているか)ということです。アリストテレスの時代には少数表記はなかったので、彼本人が「実無限」「可能無限」という対比の文脈において「0.999...=1」に関し直接には言及していないことは明らかでしょう。そして、僕が上で表明した疑念というのは、「0.999...=1」の理解無理解に関わる問題とアリストテレスの提唱した「実無限」「可能無限」の区別の問題との間にたいした相関はないのではないか、ということです。可能無限のたちばで認められないのは、少数表記で表される数の総体とか、番号1,2,3,...のうちからいくつかのものを選び出すときに具体的な手続きを指定しないような議論をもちいてしまう、というようなこと(のよう)です。(上で書いたように、0.999...=1は直接これらの問題に触れることはありません。)少なくとも直観主義と呼ばれる立場についてはこのように解説されることが普通だし、可能無限に関するアリストテレスの提唱もおおむねこのように解説されているようなので、無限の項などでこの線で解説することはありだし、なんらかの出典を見つけられるのではないかと思います。--Makotoy 2009年8月9日 (日) 14:00 (UTC)[返信]
あら金さんのご質問にちゃんと答えられていないような気もするので別の側面についても改めて書いておきます。上で白駒さんも書かれているように、現在の数学の教育や研究における包括的な方法論として可能無限の立場が採用されることはほとんどなく、学問の場においてこれが取り上げられるとすれば数学史や哲学史などにおける歴史的な興味に基づくものに限られるでしょう。また、アリストテレス自身がこの問題を今でいう意味の哲学に属するものとして考えたのか、あるいは数学に属する問題として考えたのか、ということを切り分けることは無理だと思います。彼の時代にはこれらは自然科学とあわせて渾然一体となった知の体系をなしていたからです。さいごに、少数や無限集合に関する様々な数学的操作を含んだ解説は、アリストテレスの時代にはなかったが後世の我々がその概念を理解する手助けとして曖昧さのない具体例たるものとして与えられているのであって、それらの数学概念じたいの発展や記述に際し可能無限の概念が直接に介在することはなかったし、いまもないとするのが妥当ではないかと思います。--Makotoy 2009年8月9日 (日) 14:59 (UTC)[返信]

「可能無限の立場においては0.999...は1と等しくならないわけですから」とありますが、可能無限の立場では0.999...の...には9が有限個しか並びませんから、当然そうなります。「0.999...は1に向かって近づいていく流動的な数」と考える立場はあるでしょうが、可能無限の立場とは異なります。--Diagonal 2010年6月12日 (土) 11:31 (UTC)[返信]

野矢茂樹の「無限論の教室」は読んだことがあります。タジマ先生の可能無限の立場においては、0.999...は「1に近づきはするけれど、けっして1にはならない」と解釈する立場は面白いけれども、アリストテレスのいう可能無限とは異なります。野矢茂樹はあとがきで、ヴィトゲンシュタインを意識した、とありますが、これも野矢茂樹がヴィトゲンシュタインの言葉から影響を受けて考えたという意味で、実際には野矢茂樹(あるいはタジマ先生)の哲学的立場だと考えるのがよろしいでしょう。0.999...に関する考え方の一つとして、野矢茂樹の「無限論の教室」を引用するのはよいですが、あくまで野矢茂樹(もしくはタジマ先生)個人のものとするのが、よいと思います。--Diagonal 2010年6月12日 (土) 11:55 (UTC)[返信]

概要「・・・有理数から実数を構成する・・・」について[編集]

本文中下記の内容

「それは有理数から実数を構成することによって明示的に示されることであり、またそのような実数の構成というものは 1 = 0.999... をも直接に証明してしまう。」

ですが、実数は有理数と無理数から構成されるのでは? 詳しい説明が必要だと思います。--119.30.220.118 2012年6月16日 (土) 04:14 (UTC)[返信]

コメント ≪有理数から実数を構成すること≫に関する≪詳しい説明≫は、当該記事の「実数」節に書かれていることそのものだと思っているのですが、私の勘違いでしょうか?自然数から整数や有理数を代数的手順によって構成するのとは別の手順が必要、ということが詳しく書かれているように思います。説明の順番が不適切かもしれないという指摘であれば、そうかもしれません。「それは後述の有理数から実数を構成すること手順によって明示的に示されることであり」といったあたりではダメでしょうか?--NISYAN会話2012年6月16日 (土) 07:24 (UTC)[返信]
ここでいう「構成」は construction の意味ですね。有理数を材料にして(というと語弊があるかもしれないけど)実数を作る手順の話です。私には自然にそういう意味だととれるのですが、辞書を見てみると構成という日本語は composition のことだと書いてあるんですね。確かに構成という日本語に composition の意味しかないならば「有理数から実数を構成する」は意味不明で、実数は有理数と無理数からできています。--211.1.206.228 2012年6月16日 (土) 09:41 (UTC)[返信]
後述の「実数」の章を読むと、「有理数から実数を得る手順」、「この拡張の手順」というように、「構成する」という動詞を避けているようです。
「それは後述の有理数から実数を構成することを拡張して実数を得る手順によって明示的に示されることであり」が、より親切な表現かと思います。問題なければ変更しますが、いかがでしょうか?--119.30.220.118 2012年6月16日 (土) 11:06 (UTC)[返信]
私に異論はありません。当の議論提起者さんであるIPさんが問題なければ、とくに問題ないと思います。--NISYAN会話2012年6月16日 (土) 13:36 (UTC)[返信]
反対です。例示の部分は「構成」と言う単語を避けているのではなく、特定の手順の総体を「構成」あるいは「構成法」と呼んでいるのだと考えれば筋が通るのではないでしょうか。少なくとも、避けているといわれた文のすぐあと「これらの構成法を」とか「実数の構成が一つ与えられたなら」とか普通に「構成」を用いた文章が続くことからして、避けているという受け取り方は無理筋に思えます。また、挙げられている「それは~示される」という文章は、その「手順」によって構成されたと言っている「実数」について、実数に関する命題を「手順」に従って有理数の上の構造(切断やコーシー列の同値類)についての命題として記述することで「明示的」な証明ができるという趣旨の文章であって、「拡張の手順」そのものが証明を与えるとは言っていないので、そのように変更してしまうと語弊があります。
数学的な文章として contruction の意味で「構成」を使うことはふつうです(consists of の意味なら「構成される」とは書かずに「からなる」と書くんじゃないかと思います)が、それを知らない人間が日常的な意味で取って consists of のことだろうと勘違いするから避けるべきだとするのは、本当に親切なのでしょうか。似た事例がノート:ラムダ計算#評価にもありますが。--Veeseezee会話2012年6月16日 (土) 17:06 (UTC)[返信]

専門的なご意見ありがとうございます。しかし、Veeseezeeさんが述べる「~のだと考えれば筋が通るのでは」というのは個人的な見解、「数学的な文章として contruction の意味で「構成」を使うことはふつうです」、という点は出典がないままでは独自研究になりますので返答しかねます。また、ぜひ「ウィキペディアはマニュアル、ガイドブック、教科書、学術雑誌ではありません」を一読ください。「数学的な文章」ではなく「一般的な文章」を目指しましょう。--以上の署名のないコメントは、119.30.220.118会話)さんが 2012年6月17日 (日) 09:56 (UTC) に投稿したものです(119.30.238.115による付記)。--119.30.238.115 2012年6月17日 (日) 10:01 (UTC)[返信]

原文は実はかなりハードルが高いことが分かりました。一点お願いですが、「それは有理数から実数を構成することによって明示的に示されることであり、またそのような実数の構成というものは 1 = 0.999... をも直接に証明してしまう。」の各代名詞が具体的にどの言葉を指すのかご教示いただけますでしょうか。この点を理解しないままコメントするのは危険かと思いましたので・・・--119.30.238.115 2012年6月17日 (日) 10:32 (UTC)[返信]

「独自研究」という用語を勘違いされているようですが、「数学的な文章として contruction の意味で「構成」を使うことはふつう」であるという執筆者の感覚に基づいて本文を執筆することは独自研究ではありません。これが、本文中に出典なしで「数学的な文章として contruction の意味で「構成」を使うことはふつう」と書き込んだならば独自研究です。この違いを区別してください。また、いくら一般の方にとってわかった気になる文章だとしても数学的に誤っていれば意味がありませんので、「「数学的な文章」ではなく「一般的な文章」を」というナイーブな言い方には(気持ちはわかりますが)諸手を挙げての賛成はできません。前回「構成という日本語に composition の意味しかないならば」と「数学的」に言ってしまったために伝わりにくくなってしまったかもしれないと反省していますが、私の感覚としてもこの意味で「構成」を使うことは違和感なく受け入れられるため、「構成」を避ける必要はないと考えています。
それは有理数から実数を構成することによって明示的に示されることであり、またそのような実数の構成というものは 1 = 0.999... をも直接に証明してしまう。」は「これらの誤解は実数の体系の中で考えるとするならば誤っているということは有理数から実数を構成することによって明示的に示されることであり、また有理数から実数を構成する実数の構成というものは 1 = 0.999... をも直接に証明してしまう。」でしょうね。文脈から考えて私には他の読み方はできません。--211.1.206.228 2012年6月17日 (日) 11:33 (UTC)[返信]

かなり分かりやすくなったように思います。もう時間も遅いので、少しだけ。

・上記の私のコメントは、「『構成』を避けている」ではなく「『構成する』という動詞を避けている」という指摘でして、私も「構成」自体を避ける必要はないと思います。

・「誤解は・・・誤っているということ・・・」というのは、重ね言葉でしょうか?

あと、独自研究と書いたのはちょっと失敗だったかもしれませんね。言いたかったのは、Veeseezeeさんや211.1.206.228さんが想定している読者というのは専門知識を持った人に限られていますよ、ということです。「数学的な文章として contruction の意味で「構成」を使うことはふつう」というのは専門外には戸惑うことです。そうではなくて、「構成」という言葉をcontruction の意味で使っていると分かるように書く、あるいは別の言葉で書くということが必要かと思います。何か妙案がありましたらお願いします。--119.30.238.115 2012年6月17日 (日) 13:41 (UTC)[返信]

本文を、211.1.206.228 さんの「これらの誤解は実数の体系の中で考えるとするならば誤っているということは有理数から実数を構成することによって明示的に示されることであり、また有理数から実数を構成する実数の構成というものは 1 = 0.999... をも直接に証明してしまう。」を用いて微修正しました。(「構成する」をconstructionの意味で表現できていればよいのですが。)
また、議論を長期間放置してしまいましたので、「構成する」に関しての議論はいったんここで閉じたいと思います。--以上の署名のないコメントは、119.30.238.115会話/Whois)さんが 2012年10月18日 (木) 06:16 (UTC) に投稿したものです(119.30.238.10による付記)。--119.30.238.10 2012年10月18日 (木) 06:16 (UTC)[返信]

章「実解析」について[編集]

英語版を直訳しているせいだと思いますが、意味が取れない部分が多々あります。例えば、冒頭

0.999... の問題は数学の式の変形・誘導には影響を与えないので、これは実解析の基本的な定理や命題が証明されるまでは考慮しないでおくことができる。この際の1つの目標は、実数を表現するための記法である十進法小数の特性を明確にしておくことにある。(それにより実解析による証明が位どり記数法とどの様に関係しているのかがはっきりする。)これは、『符号、整数部分を形成する任意個数の数字の有限列、小数点、そして小数部分を形成する数字の列』から構成される。

というように代名詞が過剰に使用され、何を指しているのか分かりません。 冒頭以外も同様に、直訳による日本語の問題が見られ、意訳が必要かと思います。--119.30.220.118 2012年6月16日 (土) 13:49 (UTC)[返信]

教科書[編集]

概要節の「教科書に記されている」の部分に、要出典が貼られた上に除去されましたが、元々0.999...#実解析の節に出典付きで詳細が記されていたことを指摘しておきます。なお、当該テキストはこちらで閲覧可能で、175ページに件の記述があります。その他にも0.999...#応用例節にある対角線論法はごく標準的な内容であり、0.999... = 1 に起因する微妙な問題に言及しているテキストはいくらでもあります。日本の高校の教科書にもあたってみました。数学Ⅲでは、循環小数を無限等比級数と見なして分数に直す部分がありますが、0.999... = 1 を例として扱う教科書も扱わない教科書もあります。数研出版の教科書 ISBN 4-410-80160-0 の44ページでは、1 = 0.999... が半ページほどのコラムとして扱われており、「衝撃的に思えるかもしれないが正しい」などと書かれています。◆記事全体の構成や物事の背景を見ない方々によって改悪が進んでいると感じますので、無駄に注目を集めないようにFAからは外して頂いた方がよろしいのかもしれません。--白駒会話2012年10月18日 (木) 14:44 (UTC)[返信]

削除編集した者です。「教科書に記されている」については、白駒さんが示されたように豊富な資料がありますので検証可能性の点で問題はないと思います。削除したのは単純に文脈上なくてもよいという判断です。「 1 = 0.999...を学生に教える方法が研究されてきた」という文意は編集後も変わっていませんね。
ここは、たとえば「日本では高校の授業範囲で扱われるが・・・、」というような新規内容を含むなら自然かと思いますよ。--119.30.229.53 2012年10月18日 (木) 16:04 (UTC)[返信]
私の手元にある東京書籍の数Ⅲの教科書では、それほど大きく扱っていませんが、簡潔に「注意 となるから,1と循環小数とは等しい。同様にして,などとなる。」とありますね。「無駄に注目を集めないようにFAからは外して頂いた方がよろしいのかもしれません」はまったく同意見です。「再選考」にその趣旨のことを書き込もうかどうしようかと迷っていたら先を越されてしまいました。--211.1.206.202 2012年10月19日 (金) 12:26 (UTC)[返信]