ノート:高橋留美子/archive1

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「情報」部分のコメントアウトについて[編集]

「無理に削除理由を探している」との苦情があり、非表示の意図が伝わらなかったようなのでこちらにて補足しておきます。別に情報を削除したいわけではなく、情報の正確性を保ちたいだけですので悪く取らないで下さい。

  • 「かつて焼きそばに凝っていた」について
    まず情報が漠然としすぎだと思います。高橋氏のようにキャリアの長い作家に対して「かつて」ではいつのことだか(10年前なのか20年前なのか)全く分かりませんし、凝っていた期間(1ヶ月なのか1年なのか)、どのくらい凝っていたのか(毎日食べるほどだったのか週1回程度なのか)も分かりません。
    そもそも「一時期ある食品に凝る」というのは誰にでも起こりうることですし、事典での記載に足る事柄ではないのではと思います。「焼きそばに凝っていた」についての出典は知りませんが、たまたま焼きそばに凝っていた時期にその旨を発言する機会があっただけで、焼肉に凝っていた時期やアロエヨーグルトに凝っていた時期もあったかもしれませんし。
    ただ、作品に影響が見られるほどならば(作中に頻出する、など)その旨を加えた上で記載してもいいかもしれませんが、どうなのでしょうか。
  • 「登場人物の父母の名前はほとんど明かさない」について
    「珍しいか否かに関わらず彼女の漫画の特徴」とのことですが、画風やストーリー構成上の大きな特徴ならともかく、こういった(比較的)細かい事柄の場合、珍しいのでなければ特徴とは言えないのではないでしょうか。「ストーリーに全く関係ないのに登場人物の父母の名前が出てくる」方が(日本の漫画作品では)むしろ珍しいように思いますし、記載に足る事柄であるか疑問に思います。
  • 「主人公の男女のキスシーンはまず描かない」について
    「断固として描かない」ということならともかく、『うる星やつら』のほかにも『めぞん一刻』や『ダストスパート!!』などにもキスシーンがあったように思いますし、少年漫画での頻度としては普通くらいじゃないでしょうか?少なくとも「まず描かない」という表現は当たらないと思いますし、作家の特徴として記載するほど顕著な特徴ではないと思います。
  • 武者小路実篤の言葉について
    「上に同じ」とはどういう意味でしょうか・・・。「好きで」の部分をコメントアウトしたのは、作中に何度か現れたのだとしてもそれが「その言葉が好き」ということには必ずしもならないと思ったからです(単に「ネタ」として使っているだけかもしれませんし)。明言されたのであればその旨を書いたほうが良いように思います。
  • 「ラ行の文字を好む」
    「ラ行の文字が好き」と明言されているのであれば問題ないとおもいます(コメントアウトをはずしておきます)。
  • デビュー作の経緯について
    作家のエピソードというよりは作品のエピソードですので『勝手なやつら』のページに移すことを提案します。
  • 「漫画を描くことに人生の全てを賭け」について
    個人の人生観を表す重要な記述に思われたので、出典無しで書かれていることに疑問を持ちコメントアウトしました。出典だけでなく、記述もできる限り出典通り書かれるべき事柄のように思います(個人の解釈が混じる可能性があるので)。

コメントアウトせずに先にノートで提議するべきだったのかもしれませんが、量が多かったものですからこの形で代えさせていただきました。大量コメントアウトのため不快に思われた方は申し訳ありません。私のほうで誤解している点もあるかと思いますので、よろしければ上に挙げた点について皆さんの意見をいただきたいと思います。Metronome 2006年11月15日 (水) 20:54 (UTC)[返信]

出典がなく独自の研究と思われる部分[編集]

高橋留美子の新規性として2点が挙げられているが、誰が言っているのか出典を求めます。

  • 手塚治虫・赤塚不二夫という二大巨匠によって、「ストーリー漫画」と「ギャグ漫画」という棲み分けが漫画界において暗黙の了解となっており、その中間は考えにくかった。そんな中で、高橋はストーリー漫画的な絵柄でギャグを描き、また物語も基本的にギャグでありながらストーリーの手法も取り入れており、一言で言えば「ストーリー」と「ギャグ」という手塚・赤塚以来の境界を取っ払い、少年・青年漫画に新たな地平を開いたと言える。それまでも、永井豪など「ストーリー」と「ギャグ」両方を描く作家はいたが、ひとつの作品に、この二つの要素が同居することは、まず無かった。

こんな高橋留美子評を誰がしているのか出典を求めます。古い辞書で「漫画」を引くと「(1)いたずらにかいた絵、(2)こっけいで社会風刺などの風刺をふくんだ絵」(角川国語辞典改訂版)とあるように、歴史的にマンガはおかしいものであり、笑いとは不可分。初期の手塚のマンガもストーリーマンガでありながら、もちろん笑いの要素が入っており、棲み分けが暗黙の了解ということはない。「ギャグ漫画」は、劇画の登場により「笑いのないマンガ」が登場したことで、ジャンルとして誕生したもの。などというのは、石子順造の『戦後マンガ史ノート』や夏目房之介の著作で触れられています。

ギャグ漫画の登場後も、「ストーリー漫画とギャグ漫画の境界の撤廃」というのは高橋留美子の登場前からあります。1968年に発表された手塚治虫の「火の鳥ヤマト編」がそうです。永井豪も自身が「ストーリー漫画のテクニックでギャグを描いた」と述べており(「VIVA COMIC 漫画家大集合」p116)、夏目房之介も「目明しポリ吉」などを例にあげ、永井豪がギャグでありながらストーリー性が強い作品を描いてきたことを示しています(「夏目&呉の復活!大人まんが」p245)。さらに村上知彦も永井豪と赤塚不二夫が、ギャグでありながらストーリ指向が強いと「イッツオンリーコミックス」p112と指摘。すぐに出典を出せませんが、赤塚不二夫も本人か長谷邦夫か担当編集者かの著作で、おそ松くんで何回かに渡ってストーリーものをやったと書いていたような記憶があります。また、画風だけでいえば、「がきデカ」などの山上たつひこも劇画タッチをギャグ漫画に持ち込んでいます。よって、ギャグとストーリーの垣根をなくしたのが高橋留美子の新奇性という主張が通説とはとうてい思えません。

日常と同居するSFという点に関しては、デビュー当初から言われていた(吾妻ひでおと同じく)筒井康隆の影響を抜きに高橋留美子の新奇性としてしまうのはいかがなものでしょうか。これも出典を希望します。 --203.174.219.251 2007年5月10日 (木) 11:42 (UTC)[返信]