ノート:足利義昭

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

編集について[編集]

あまりにも義昭側に立ちすぎた観点について修正しました。括弧付きの説明が多すぎて冗長とも思えます。冗長な部分はコメントアウトしています。 また、六角義郷関連の記述は本来の項目である六角義郷江源武鑑での議論も終結していないので、そちらを整理してから記述をお願いします。 --模様砂漠 2009年1月16日 (金) 11:43 (UTC)[返信]

義昭の子孫について[編集]

義尋以外の義昭の子の同時代史料をご存じでしたらご連絡ください。--模様砂漠 2009年1月16日 (金) 11:43 (UTC)[返信]

少なくとも永山休兵衛に関しては、江戸時代の子孫いわく延宝年間の火事で詳細な史料が焼けたそうですが、系図の記述が嫌にリアルです。例えば、兄の義尋の妻は赤井直正の未亡人で、還俗する前に二子を儲けたためために、奈良から出たという、嘘にしては出来すぎではないのか思ってしまう、どちらかいうと恥じ話な記述があり、義昭の子でないにしろ、かなり、足利義尋の内情を知る者だったと思います。義在は義尋の弟のようですが、何番目の弟かは不明で、足利義喬との関係もやはり不明です。


ひとつ気になるのが、他の足利氏の史料が、庶子や他家に養子いりした人をどう扱っているかということです。

--ただいま昇天中 2009年6月5日 (金) 00:36 (UTC)[返信]

『義昭の子は義尋一人』というのは義昭猶子の義演の日記からと思いますが、まず、寺に入るために猶子になり、さらに義昭の追放の際も京都に残っていた人物が、果たして義昭の家庭環境まで熟知していたかは、はなはだ疑問に思います。さらに奥野高広の『足利義昭』(吉川弘文館)では義昭の法要の責任を逃れ、義昭になんの思い入れをも持たない証言も掲載されているだけに、単に義昭と義演とは出家手続き上の親子関係だけで、特に義昭の京都追放後の家庭環境については関心も情報もなかったのではとも思いますが?。

もっとも足利市の足利氏菩提寺や会津松平家一色義喬子孫が家宝の一部献上したそうですが。但し、坂本氏系図では義尋の子であるはずの2人が義喬の兄弟だったりしてますので、額面どおりには信用出来ませんが。--七転八倒斎 2009年8月27日 (木) 16:30 (UTC)[返信]