ノート:藤山要吉

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出典について[編集]

初版投稿者です。昨年10月に執筆した伊藤長右衛門ノートでも書きましたが、出典のうち『おたるの先駆者』は市立小樽図書館の蔵書で、毎日新聞の連載記事を冊子にまとめたものです。いつの新聞記事かを館員さんに尋ねましたが、不明でした。機会を見て別口から調査してみます。また同じく出典のうち『藤山要吉翁小伝』も小樽図書館の蔵書で、非売品です。というわけで極力、それら以外の市販書籍を出典とするよう心がけました。--逃亡者会話2017年8月19日 (土) 08:08 (UTC)[返信]

公職について[編集]

ご訂正、ありがとうございます。取敢えずの報告ですが、出典に挙げております資料の『開拓につくした人びと』3、『北海道「海」の人国記』、『藤山要吉翁小伝』ではいずれも初版の通り、衆議院議員が1907年、貴族院多額納税議員が1925年でした。ひとまずご訂正後の現状のままとし、追って調査を続けさせて頂きたく思います。--逃亡者会話2017年8月19日 (土) 20:16 (UTC)[返信]

コメント 失礼します。GA選考から来ました。本日図書館に行く機会があったので新聞のデータベースで調べたところ、いくつかの事実がわかりました。
  • まず1918年の貴族院多額納税議員選挙においては、藤山氏と相馬哲平氏を推す動きがあり、結局、相馬氏が議員になったようです。
  • その後1920年に理由不明ながら相馬氏が辞職願いを出したため、補欠選挙が行われ、再び藤山氏と犬上慶五郎氏が候補に上がり、その結果犬上氏が当選したようです。
  • また1925年の多額納税議員選挙においては、藤山氏、相馬氏、犬山氏三人とも、当選はおろか立候補すらしていません。
  • さて、北海道で最初の貴族院多額納税者議員選出は間違いなく1918年です。
  • しかし、1925年に貴族院の選挙方式について大きな改正があり、北海道を含む19の道府県で、多額納税者議員の定員が一名増えて定員二となりました。そして1925年の選挙結果を報道する記事は「改正後第一回の多額納税議員選挙は…」という書き出しで始まっていました。
以上のことより、少なくとも「1925年(大正14年)に北海道から第1回貴族院多額納税議員を選出」の部分は、例え出典にそう書かれていようとも完全に誤り、と判断してよいと思います。以上のようなややこしい経過があるので、『藤山要吉翁小伝』の著者が回数とか年度とかをごっちゃにしてしまったと考えられます。『開拓につくした人びと3』と『北海道「海」の人国記』については、参考文献として使用した『藤山要吉翁小伝』の記載をそのまま鵜呑みにしてしまったものと思われます(しっかりした書籍でも残念ながらよくあることです)。
記事の引用を含む詳しい内容は明日の夜に書きます。本日は眠いので取り急ぎ報告まで。--Loasa会話2017年9月15日 (金) 14:08 (UTC)[返信]
ご報告ありがとうございます。すばらしいです。私も新聞はあたりましたが、独力ではここまで詳細な情報は得られませんでした。
そうなると貴族院多額納税議員のくだりは除去した方が良いですかね。
ごゆっくりで結構ですので、引き続きよろしくお願いいたします。--逃亡者会話2017年9月15日 (金) 22:42 (UTC)[返信]

報告 遅くなりました。まずは1918年の貴族院多額納税議員選挙に関する新聞記事からです。原文の漢字はもちろん旧字体ですが、いちいちコードを調べて入力するのは面倒なので現代のもので書いています。

貴族院多額納税議員選挙は愈旬日の中に迫れるが近時衆議院議員の補欠選挙頻発すると共に一般に活気付き足る選挙界は所謂長者議員の上にも其影響を及ぼし政友憲政両派の勢力争いの激甚なるに搗て加えて有資格者間に在っても任期七年を交代の条件にて妥協する悪弊盛んとなりしが唯北海道、東京、神奈川、滋賀、福井、佐賀、石川の如き各地方の平和の為円満の中に妥協成立したり今順次各府県の形勢を略述せんに

△北海道 当初小樽区は藤山要吉氏を推すに決定せるも函館区は如何にしても区の元老相馬哲平氏を懇請して第一回の月桂冠を得んと画策したる所漸くにして其承諾を得たるを以って此旨小樽区に通牒したるが小樽は氏の出馬は決して反対に非ずとの意向を示したれば相馬氏の当選は確実となれり。

△東京府...(以下略) —  読売新聞 1918年6月1日

「第一回の月桂冠を得んと」とあるので、この選挙が北海道における第一回貴族院多額納税議員選挙であることは確実です。またこの日以前の新聞でも、従来は選出対象ではなかった北海道と沖縄からも多額納税議員を選出することになったという、選挙規則改正案についての記事がありました。

このときに結局は相馬氏が当選したようです。そして、1920年に相馬氏は辞職します。

十八日左の如く聴許の旨発表ありたり
 貴族院議員 相馬 哲平
願に依り貴族院議員を免ず —  読売新聞 1920年3月19日

そして補欠選挙となるわけですが、

北海道長者議員相馬哲平氏辞職後の補欠選挙は来月七日札幌北海道庁に施行の筈なるが候補者は小樽の藤山要吉、犬上慶五郎の両氏にて藤山氏は憲政派の援助を受けて盛んに運動しつつあり犬上氏は政友会に入党して前代議士寺田省帰氏其の他の後援有りて双方互角の勢なるも或は犬上氏当選すべしと予期せられ居れり(小樽電報) —  読売新聞 1920年5月26日

藤山、犬上両氏が絡む記事はこれだけしか見当たりませんでした。記事を見る限り、藤山氏が候補者になることを辞退して犬上氏を応援したとはとても読み取れません。それどころか記事によれば藤山氏も出馬したということになります。もっとも、この記事における「候補者」というのは出馬したという意味でなく、もしかすると「選挙戦に候補者として出馬する人物の候補」という意味であって、先の本選と同様に、最終的には出馬者を一人に絞るべく支援者達の間で話し合われたのかもしれません。

そして、補欠選挙は1920年6月6日に行われ、開票の結果は

六日午前九時北海道庁に於て多額納税議員補欠選挙を施行し即開票の結果小樽区の舟成金犬上慶五郎氏当選したり(札幌特電) —  読売新聞 1920年6月8日

ですが、この時に藤山氏が対立候補として出馬していたのか、あるいは一度立候補したものの選挙以前に候補を辞退して候補者が犬上氏一人になったのか、先の推測どおり藤山氏は出馬以前に候補者になることを辞退した(させられた)のか、この記事では不明です。

そして、1925年6月18日に多額納税議員など貴族院議員の選挙に関する規則の改正が公布されます。このとき北海道の多額納税議員の定員も増加しました。

枢密院では今十七日午前十時から宮中東溜の間に本会議を開き精査委員会で修正可決した帝国学士院会員議員互選規則案並に多額納税者議員互選規則改正案を上議し穂積委員長から委員会の審議報告をなし審議に入る筈で両案とも無論委員会の修正通りに可決を見るべく…(後略) —  読売新聞 1925年6月17日

別項十六日の閣議で決定した多額納税者議員の定員数指定府県中二人を選出すべき府県は左記一道三府十五県で之が詔書は多額納税議員並に帝国学士院議員互選規則と共にたぶん明十八日公布を見るであらうと

北海道△東京府△…(中略)…△鹿児島県(以上各県二名宛)他は全部一名宛 —  読売新聞 1925年6月17日

そして1925年の改正後第一回の多額納税議員選挙は1925年9月10日に実施されました。

北海道多額議員選挙の開票は十二日行はれたがその結果左の如くである
 当選六〇票 金子元三郎(憲)
 同 五一票 高橋 直治(政)
 次点三七票 小熊幸一郎(無)
 同 三三票 大瀧甚太郎(本) —  読売新聞 1925年9月13日

次点者の票数も書かれていますから、これが立候補者のすべてと考えられます。この年の8月ごろの記事でも、各政党(憲政会政友会政友本党)が候補者を立てるべく熾烈な候補者獲得運動をした結果、各道府県から各政党の候補として出馬した人たちの一覧が記載されていますが、北海道の各政党の候補者はまさにこの通りになっています。なお、この時の選挙で藤山氏や犬上氏が候補者になっていないことは明らかですが、彼らに対して候補として推す動きや打診があったのかどうかは不明です。

以上の記事より、問題になっている『藤山要吉翁小伝』の記載については、完全に誤りと断定は出来ない(もしかすると1925年の選挙でも、両者は出馬こそしていないが、実際に藤山氏および犬上氏を候補者として推す運動はあったのかもしれない)ものの、限りなく疑わしいと言わざるを得ません。私なら、この下りは完全に除去し、さらに、『藤山要吉翁小伝』自体も信頼性の低い文献として参考資料全体から外すところです。といっても、後の文献も、おそらく多く部分を『藤山要吉翁小伝』に負っていると考えられるので、『藤山要吉翁小伝』を参考文献から除去するのはあまり意味が無いかもしれません。さらに詳細な経過については地方紙を参照する必要があると思います。


以上はすべて読売新聞のデータベースでチェックしました。本当は朝日新聞などのデータも調べたかったのですが時間がありませんでした。まあ両方とも全国紙ですから大差はないと思います。全国紙の読売新聞にも北海道選挙区の状況についてこれだけ記載されているのですから、地元の地方紙を調べればもっと詳細な報道が見られるのではないでしょうか。読売新聞の記事を見ただけでも、地元ではかなり選挙活動に熱が入っていたらしいことが感じられますから、地方紙で選挙戦や候補者選出の経過などについて詳しく報道されていないはずがないと思います。

データベース化されていない地方紙では、事項の日付がわからない限り調査は困難と思いますが、今回の調査で主な出来事の日付は判明したので、その時期を中心に前後一ヶ月くらいの縮刷版またはマイクロフィルムなどをチェックすれば関連記事が見つかると思います。地方紙の調査は、国会図書館に行かない限り私には手が出ませんのでおまかせします。

出典

  • “多額互選形勢(一)”. 読売新聞: 朝刊 2面. (1918年6月1日)  - ヨミダス歴史館にて2017年09月15日閲覧。
  • “多額議員辞職”. 読売新聞: 朝刊 2面. (1920年3月19日)  - ヨミダス歴史館にて2017年09月15日閲覧。
  • “北海道長者議員 来月七日補選”. 読売新聞: 朝刊 3面. (1920年5月26日)  - ヨミダス歴史館にて2017年09月15日閲覧。
  • “北海道多額議員犬上氏当選す”. 読売新聞: 朝刊 2面. (1920年6月8日)  - ヨミダス歴史館にて2017年09月15日閲覧。
  • “きようの本会議も無事通過せん 修正両互選規則と枢府 但し有爵互選規則不改正で厳しく政府を詰問か”. 読売新聞: 朝刊 2面. (1925年6月17日)  - ヨミダス歴史館にて2017年09月15日閲覧。
  • “多額二人の選出府県 一道三府十五県ほかは皆一名づつ”. 読売新聞: 朝刊 2面. (1925年6月17日)  - ヨミダス歴史館にて2017年09月15日閲覧。
  • “北海道 開票の結果”. 読売新聞: 朝刊 2面. (1925年9月13日)  - ヨミダス歴史館にて2017年09月15日閲覧。
  • ヨミダス歴史館, 読売新聞社, http://www.yomiuri.co.jp/database/rekishikan/ 

--Loasa会話2017年9月17日 (日) 04:57 (UTC)[返信]

ありがとうございます。これだけ調査するのは大変だったことと思います。お疲れ様でした。そうですね、やはり 『藤山要吉翁小伝』は参考文献から外し、特に貴族院多額納税議員の件は除去の方向で行きたいです。単純に除去すると文脈が変になる箇所もありますので、お時間頂きたく思います。他の文献のうち、『ほっかいどう百年物語』は自前の所有物で今も手元にありますが、参考文献に『藤山要吉翁小伝』は挙げられていません。『開拓につくした人びと』 『北海道「海」の人国記』 は図書館頼りですので、それらの参考文献は追って調べてみます(後者は手近の図書館で貸出中ですので少々時間がかかりそうです)。--逃亡者会話2017年9月17日 (日) 10:18 (UTC)[返信]