ノート:神仏習合

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【本文から引用】神宮寺の建立  日本人が、仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神と人間を同列に位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲しているという認識がされるようになった。 【本文からの引用終わり】 この部分の記述で、「仏のもとに神と人間を同列に位置づけ」と言う表現は、ウィキペディア内の「本地垂迹」説においてさえ、使われていない表現です。 【ウイキペディア内の「本地垂迹」より引用】 日本では、仏教公伝により、奈良時代の物部氏と蘇我氏の対立を見るまでもなく、相互には隔たりがあった。しかし次第にその隔たりがなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じであるとし、神を仏の境涯に引き上げようとして納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。 【ウイキペディア内の「本地垂迹」より引用の終わり】 ちなみに、「本地垂迹」の「迷える衆生」とは六道に輪廻するものすべてを言い、当項目の、「同列に位置づけられた人間」は単に人間界の衆生、つまり人間のみを指すわけですから、同列に置いた、と言うことではないと思われます。字面の解釈では、神=迷える衆生の一種=天部の神々、と言うことになります。 思想の問題なので、表現は難しいと思いますが、少なくとも「本地垂迹」と整合性のある表現に修正することを御一考いただきたいと思います。 --Dictionarywalker 2010年9月25日 (土) 09:45 (UTC)[返信]

まあ「仏のもとに神を人間と同様に迷える衆生の一種と位置付け」にしてもよいとは思いますが、別に無理に表現を統一する必要もないと思います。ご自身での編集もよろしいのではないでしょうか。--ろう(Law soma) D C 2010年9月27日 (月) 04:30 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。んー、言っているのは、単なる表現の違いではないつもりです。仏教から見て、単なる人間と、八百万の神を同列に置く、と言う考え方は、一般に、仏壇があり、神棚がある日本の家庭では、していないのではないか、と言うことです。起稿者の方の応答がなければ、書かせていただきたいところですが、まだ書き方を勉強していませんので、機会があれば挑戦してみたいと思っています。

上記の続き

「神仏習合」という言葉が、ここで定義されている「広義」で使用されている例を、寡聞にして知りません。ここで言う「神」は日本の「神」のみだと思っていました。「広義」の事例(キリスト教と仏教の神仏習合?のような現象)をご教示ください。 --Dictionarywalker 2010年9月26日 (日) 23:56 (UTC)[返信]

おっしゃるように一般的には日本での用例を指しますが、海外でも神と仏の習合は見受けられます。Web上ですと日本史特講II「神仏習合の古代文化論」質問と回答「東南アジア史」の危機と新しい挑戦新熊野神社神道講座仏教百科事典なんかが出典として使えるかもしれません。--ろう(Law soma) D C 2010年9月27日 (月) 04:30 (UTC)[返信]

 ご教示ありがとうございます。読ませていただきます。

現代における神仏習合[編集]

現代における神仏習合について、どなたか補足していただけませんか。神社における「権現造」、祇園祭、愛宕神社に「愛宕権現」の幟があるなど、現在でも神仏習合は健在と思うのですが。お詳しい方、よろしくお願いします。--Deepimpact会話2013年9月15日 (日) 07:21 (UTC)[返信]