ノート:社会党左派

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本来ノートに記入すべきことでは?[編集]

  • 「村山政権以後」に、本来ノートに書き込むべきと思われることが本文に書かれていましたのでこちらに移します。

◎↓以下、移動した文章

まず、「社会党らしい政策」とはいかなるものか? 社会党の元地方幹部で、それこそ極左のセクトから転向した人物を知っているが、「社会党をはじめ、日本の左翼には政治スローガンはあっても政策は皆無に近かった。政策とは、客観的、多角的に見て、財源などがちやんと担保できて、方向性の好き嫌いを覗けば、文句をつけにくい実現可能性のある夢物語ではないものを指す。それを提示できなかったことが自民党の長期単独政権を許した。それが結果的に政治腐敗を生んだ。我々に本気で政権を取る覚悟がなかったから。反省しなければならない」と述べていた。

次に、仮に社会党に、実現可能性のある独自政策があったと仮定して、村山内閣時代の社会党は定数511に対して70議席しか持っていなかった。これで、どうやって固有政策を打ち出せるのか? ワイドショーレベルに流される日本の政治メディア、政治学者、政治評論家らに多い俗説に過ぎる。疑問とせざるを得ない。そもそも、首班を抱く政党が比較第一党であろうと、比較第二党であろうと、連立政権というものは、政権と内閣を構成それぞれの党が我を張っては成立しないし維持などできはしない。当時の社会党は比較第二党だったとはいえ、政権維持に最も重要に衆院でのシェアが定数の七分の一未満。与党三党でも約300議席だから、社会党のシェアは四分の一未満。これで、どうして独自政策を実現できようか? 少数内閣で強引なことをすれば、たちまち崩壊するのが当たり前。議会内のシェアを考えずに突っ走れば、連立政権など運営できるはずがない。となれば、自民党内の潜在的な保保連立派……例えば、渡辺美智雄、中曽根康弘、梶山静六などと、小沢らが再び結託して政権を簒奪することは明らか。なにしろ、小沢は細川政権末期に、中山太郎、橋本龍太郎、渡辺美智雄に集団離党を条件に首班の誘いをかけ、渡辺は実際に実行しかけたのだから。その一方で、社会党の山花貞夫、日本新党に合流していた社民連系の江田五月らにも鼻薬を嗅がせていたようだ。要は、権力を握りための駒は誰でもかまわない。もしも、村山内閣の時代に社会党が少数勢力で自説を曲げずに独走していたら、保保連合の流ればかりか、「社会党右派」を名乗る「社会党左派」……つまり、山花グループなどの議員集団が離党しかねなかった。それもまた、政権崩壊の原因となる。小沢主導による保保連合の流れは、これ以降も橋本内閣時に梶山、亀井静香らと断続的に水面下で連綿と続き、小渕内閣の時に亀井、野中広務、小渕恵三との間で日の目を見る。自自連立というやつだ。こうした流れが、いつでも浮上しかねない底流が常に存在している。そればかりではない。社会党色が強く出すぎれば、友党だった新党さきがけの離反も起きただろう。つまり、《社会党らしい政策を打ち出すことにほとんど失敗》したのではない。そんなことははなからできる環境・状況にはなかったのだ。この下りの記述は、あまりにも議会政治、議会制民主主義、議会の実態を無視した机上論に過ぎない。それをごり押しして無理やり実現したいなら、解散して民意に問う以外にないが、単独過半数を得られなければ不可能だし、そもそも過半数を超す候補を擁立すらできないのだから。となると、それこそクーデターまがいの革命をするしかない。それが実現できないのも誰の眼から見ても明らかだろう。それでも突っ走るなら、それこそ治安部隊介入すら招きかねない。それだけのリスクを背負う覚悟が、評者におありなのだろうか? あまりに浮き世離れした記述だと言わざるをえない。思想的な原理主義はどう展開してもかまわない。しかし、政治は相対的な数の論理が働く現実の世界。事実を踏まえ、深く考察した上での評価を下さいなと、歴史の偽造に手を貸すことになりかねない。それでは、将来に良い教訓を残れないと思う。実は、片山内閣についても同様。比較第一党だったが、143議席は定数466の約四分の一に過ぎない。連立を組んだのは保守系の民主党123議席、中道保守の国民協同党31議席だから、与党内でも半分に満たないことになる。これで、固有政策にこだわれば、いつでも政権はひっくり返りかねない。事実、民主党内の元首相、幣原喜重郎系は社会党との連立に慎重だったとされる。比較第一党になったり、内閣の首班を握れば、なんでもできると考えるのは、独裁容認に通ずる極めて空想的で危なっかしい思考。社会党や左派だからといって、民主主義の数の論理を否定したり軽視して、特別扱いしてはデモクラシーの理解が生煮えではないのか? 政治的方向性の好き嫌いと、客観的な現実・事実関係とは違うのだから。

最後に、《逆に社会党自身が基本政策の転換に迫られることになった》の下りについて指摘したい。少なくとも、山花ら右派偽装左派でなく、村山ら真性右派だった政権構想研究会・水曜会のグループは、俗に言う基本政策である非武装中立論、自衛隊解体、日米安保破棄、日の丸・君が代反対、原発廃止……の転換に、かなり長い年月をかけて挑み続けてきた人たちだ。政権を取るには、それがないと不可能ということで、まだまだ党内と雌雄編では、総評を中心に社会主義協会などを含む左派が強く、左翼バネが強烈な時代に、“アヒルの水掻き”で半歩づつ前進してきた。その過程で、江田三郎、大柴茂夫、阿部昭吾、田英夫、楢崎弥之助、秦豊ら新しい流れの会のメンバーなど、当時の右派の花形が離党して、社会市民連合、社会クラブを作り、合流して社会民主連合となった。一方、成田知巳委員長の後を受けた石橋正嗣委員長は、左派・中間左派出身でかつ、『非武装中立論』の著書を持つ身ながら、政権交代による国政の政策転換を目指し、自衛隊違憲合法論」を打ち出し、やはり“アヒルの水掻き”で現実政治への対応に挑んだ。左翼バネの猛反発に遭い、「違憲法的存在論」に表現は弱めたが、そうした努力を積み重ねてきた。経済政策、社会政策なども、西尾派、河上派の志向した福祉国家を目指す民主社会主義・自由派社会主義、イタリア共産党経由で民主社会主義・自由派社会主義にたどり着いた江田派の構造改革論を否定し、「福祉国家路線はとらない」としていた成田までの主流路線……綱領的文書『日本における社会主義への道』を排し、西欧型現代社会民主主義=民主社会主義・自由派社会主義に路線転換を図る『新宣言』をまとめるまで気の長い努力を重ねてきた。そうしたグループの一員が村山であり、村山内閣を支えた面々だった。これを左派と称することは歴史的にも、政治的にも、イデオロギー的にも、人脈的にも、歴史の偽造でしかあるまい。また、村山の手による“基本政策の転換”は、追い込まれたのではなく、右派社会党が目指した社会党の思想転換に向けた長い道のりの最後の一歩であり、なかなか越えられなかったその一歩が、首相に就任したことによって乗り越える好機を与えられ、左翼バネを心配しながらも、最後の一線を越える決断をした行為だろう。というのも、官邸の官僚たちは、村山の立場を慮り、所信表明演説に用意した原文に「安保維持」と書いたが、村山自身の判断で「安保堅持」とより強い表現に書き改めたの周知の事実だから。これこそ、村山富市首相とそれを支えた周辺人脈が、長年にわたる“アヒルの水掻き”をしてきた「社会党右派」であることを物語る歴史的な証拠であ、「社会党右派」にとっては嫌々、基本政策を転換したりではなく、渡に船だったことを物語る。

また、確信犯的な村山の基本政策転換が、独裁的強権的かと言えばさな非ず。彼は、首相として決断した転換を、事後判断ではあるものの、党の機関決定に図った。都道府県本部大会に図り、最終的に党本部大会で承認を得られなければ委員長を退任する覚悟と前提で決断。所信表明をして機関討議にかけた。これは、組織のナンバー1にだけ許された権限。もちろん、クビをかける覚悟が大前提となる。小泉が、郵政解散に打って出た時と似たものだ。小泉も、選挙に負ければ退陣するとの覚悟で解散して民意に問うた。村山は、クビをかけて所信表明し、それと同趣旨の思想・政策転換を党の判断に委ねた。あまり頻発してはいけないが、ナンバー1にはクビをかけることでギリギリ許された権限。それぞれ、民意や組織内世論に判断を委ねることで、民主主義的手続きに反することはない。一方、こうした村山の政治手法を「強権政治」となじり、小泉の手法を「独裁」と口を極めて罵倒した小沢一郎とその周辺は、細川内閣の実質的な権力機関だった連立与党代表者会議という各党ナンバー2の協議体で、各党の組織内討議やらナンバー1の意向やらを無視して勝手に物事を決めていた。新生党では形式ナンバー1の小沢代表幹事が実質党首で、形式ナンバー1の羽田孜党首は名目だけのミコシに過ぎず、公明党の市川雄一書記長、石田幸四郎委員長の関係、民社党の米沢隆書記長、大内啓伍委員長の関係も、党内の政治力学からして新生党と似たり寄ったりだったことから問題にならなかったのだが、通常の組織でこうしたことわすれば、クーデターと呼ばれる事態。形式ナンバー1と違って、責任を問われることの少ないナンバー2集団が、ナンバー1を棚上げし、閣議よりも力を持っていたのだから、与党という意味でも、政権・内閣という意味でも、あらゆる意味でクーデター政権だったのが細川・羽田内閣の実態だった。それでも、細川内閣後期に赤松広隆に代わって社会党書記長になった久保亘は、ベテラン政治家だっただけに、この仕組みのおかしさを感じていたようで、与党代表者会議で議論される問題が、書記長というナンバー2だけの判断には重過ぎる重要案件については、党に持ち帰り、委員長・書記長会談、三役会議、執行委員会などに諮って最終判断をしていた。それを、小沢、市川とそれに釣られたメディアや学者らは、「社会党がグズグスしてるから決まらない」と見当違いな誹謗中傷を浴びせ続けた。これが、組織内の民主主義的手続きをいかに反故にしたやり方、まさに独裁とクーデターでしかないことに無自覚だったのだ。民主主義というものに対し、あまりに無知なメディアや学者らにあきれ果てた。それなのに、村山や小泉を独裁と避難する。あまりの論理矛盾に言葉もない。論理不在とはこういうことを言う。

 ただし、それによって、左翼バネが働き、党機関としての承認は取り付けたものの、左派支持者が反発して、各級選挙では行き場を失い、一時的な受け皿として共産党を選択した人が多かったのが、一時的に共産党が飛躍的な得票増をした真因だった。これが、社会党の息の根を止めた一因であることは確かだろう。しかし、社会党が命脈尽きたのは、小選挙区制導入が決まった時というのが本当のところだろう。ということは、細川内閣への参画を決めた時に命脈尽きていたのだ。山花らがそれを飲んでも、前委員長の土井たか子が、「憲政史上初の女性議長」「三権の長」などという甘い囁きの乗らなければ、細川内閣は成立していないか、少数内閣となって数ヶ月の選挙管理内閣として、再び中選挙区制で再選挙となるのが政治力学。となれば、次点バネで自民党はもう少し膨らんだし、社会党も候補者調整をし、かつ次点バネが働くから少しは回復する。そのあおりは、バブル票で膨れ上がっていた新生党、日本新党、新党さきがけにくるのが選挙の常識。小選挙区制は潰せたのだ。小選挙区制の是非は、立場によって分かれるだろうが、社会党が潰れたのは間違いなく小選挙区制の持つ政治力学が最大の原因。それに手を貸したのは村山とその周辺ではない。山花、赤松、佐藤観樹、連合会長だった山岸章らだった。むしろ、村山らは、小選挙区制導入に最後まで抵抗したし、自民党の一部や公明党らと共に、何度か中選挙区制に戻す努力もし続けた。これを邪魔したのは、衆院の社会党会派の形式的な代表者となっていた佐藤。代表印を押さないことで法案提出を阻んだ。この場合の代表、代表者とは、火元責任者みたいなものでしかなく、実質的な権限は委員長たる村山にあったのだが、会派制度の仕組みを悪用して葬り去ってしまった。組織論として、あるいは社会党の命脈に関連しても、彼のとった暴挙と言っていい態度は万死に値するだろう。与党代表者会議と共に。与党代表者会議の代表者も、佐藤のこれと同じで、火元責任者とは言わないが、交渉窓口という意味でしかない。そこが勝手に物事を決めるということは、首相決済もない交渉窓口の外交官、外相が、国際間の交渉を決裂させて戦争を宣言するようなことが可能になる危険極まりない仕組み。組織論が少しでもわかる人間なら理解できるだろう。また、中選挙区制復活の政治活動をめぐっては、議長だった土井が積極発言をした後、小沢に「中立であるべき議長に相応しくない」などと言われて引っ込んでしまったのも大きい。土井は人気も影響力も小さくなかった。議長など辞めて、発言と行動を続けるべきだったのだ。なぜ、議長職にとどまることを選択したのか? 日本の民主主義を考えた時、あるいは社会党の命脈を考えた時、明らかな判断ミスだったと断言せざるを得ない。

以上の事実関係を踏まえ、この下りは書き直しを求めたい。歴史の偽造に手を貸さないためにも。政治の現場にいると、歴史は日々、微妙に偽造されていることがわかるものだ。慎重に解読しなければならない。

◎↑以上、移動した文章

↑大変興味深い評論ですね。本文に載せてもいいような気もする。しかし百科事典としてはありえないか?進民連議長 2006年11月2日 (木) 00:44 (UTC)[返信]