ノート:社会主義協会

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全般的に改訂しました。理由は以下の通りです。 1.向坂逸郎が左社綱領を理想の綱領と言ったことはありません。国際関係、統一戦線論の欠落など左社綱領の弱点も向坂逸郎は指摘しています。理想に近い綱領というべきでしょう。 2.社会主義協会と密接な関係にある社青同(日本社会主義青年同盟)に関する記述を補いました。 3.構造改革論の台頭で社会主義協会は青年層の支持を失ったというのは、事実に反します。社会主義協会の影響力は社青同を中心に社会党系青年活動家の間で着実に広がり、1964年の社青同四回大会で社会主義協会系同盟員が構造改革派系執行部を総辞職させ社青同執行部を握ります。 4.分裂後、太田派は西日本で、向坂派は東日本で、というのは正確ではありません。西日本でも香川のように向坂派の影響力が強いところがあったし、東日本でも新潟では太田派が主流でした。 5.社会主義協会はすべての合理化に反対したのではなく、資本主義社会での資本家による合理化(資本主義的合理化)に反対したのです。反合理化闘争の理論は、一般的には民間企業の中では広げるのが困難でしたが、民間企業労組でも私鉄総連や中小民間労組の全国金属では社会主義協会の労働運動論が大きな影響力を持ちました。現在でも、私鉄総連は社民党を支持するほとんど唯一の大労組です。 6.1977年の社会党大会で協会系代議員が江田三郎をつるしあげたのは事実ですが、これは江田三郎が副委員長でありながら前年の総選挙で執行部の既定方針と異なる発言をするなど、下部党員を憤慨させる言動があったからです。このとき佐々木更三は役員ではなく、批判の対象にはなっていません。社会主義協会の江田三郎攻撃が世論の憤激を呼び起こしたというのは事実に反します。当時の新聞縮刷版をみてください。もし憤激を呼び起こしたのなら、江田三郎が社会党を飛び出して作った社市連(後の社民連)は、その直後の選挙でもっと大きな支持を得たでしょう。実際には、社市連、社民連を作るにあたって、江田三郎と行動を共にした国会議員はほとんどいませんでした。 7.九十年代に入って、社会主義協会がしだいに穏健になっていったのは事実ですが、七十年代の姿勢を堅持すべきだという部分も根強く、その後の分裂の伏線の一つになりました。 8.向坂派社会主義協会の系譜を直接引く集団・グループは佐藤協会、坂牛協会の二つだけです。外にも、八十年代に協会脱退学者グループ(福田グループ)、協会脱退社会党本部書記グループ(創る会)などがありましたが、現在はすべて霧散しています。 9.社会党に独自の党組織がなかったというのは事実と異なります。社会党には都道府県本部-市区町村総支部-地域・職場支部という明確な党組織がありました。しかし、社会党には独自の党組織論がなく、動いている党組織の大半は社会主義協会系党員が活動を担い、他の多くの党組織は休眠状態でした。 そのほか、細かい部分の訂正もありますが、これは理由説明を省略します。社会主義協会については、事実関係を詳しく調査しなければならない部分も多く、それを行ってからまた必要な修正加筆をします。(匿名希望1 04.9.1) 

最初に書き込んだ者からの返答[編集]

最初に「社会主義協会」「向坂逸郎」の記事を書き込んだイッチーです。Wikipediaの趣旨は、より詳しい知識を持つものがどんどん書き換えていくことによって、より良い記事を作っていくというものですので、より詳しい知識を持たれる方に修正いただいて、大変ありがたく思います。

修正箇所を拝見しましたが、向坂派協会の擁護ではなく、きわめて公正な立場で書き換えがなされており、大筋において異存はありません。ただ、若干、細かい点を修正させていただきます。まず、ポズナン暴動がハンガリー動乱に書き換えられておりますが、ハンガリー動乱に対して、山川均は『世界』において、ハンガリー国民のことを田舎の国の百姓民族といった類のことを話しており、また向坂逸郎もハンガリー動乱を西側の謀略と論文の中で書いております。私が1950年代の『社会主義』で既存の社会主義国に対しての批判を確認したのは、東ベルリン暴動とポズナン暴動に関してのみです。1950年代の『社会主義』をご確認ください。

1977年大会での佐々木更三に対するつるしあげについては、きちんと記録が残っており、佐々木に対して「ひっこめおいぼれ」などと暴言を浴びせ、佐々木が「黙って聞きなさい」と制しております。

太田派=西日本、東日本=向坂派というのは、太田派協会の方から聞いた話です。正確を期すなら、例外について挿入する必要があるでしょう。イッチー 2004年9月1日 15:58(UTC)

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イッチーさん、こんにちは。匿名希望1です。昨日来資料を調べ、改訂を再びおこないました。その内容などは以下の通りです。
1.全体として、百科事典らしい簡潔な表現をめざし、文章の重複部分などを整理しました。 2.「膨れあがった」など感情がこもり百科事典としてはどうかと思われる部分も訂正しました。たとえば「膨れあがった」は「達した」にしました 3.社会主義協会の歴史上重要な意義を持つ会議名、文献名を明記し、協会の歴史がより立体的に把握できるようにしました。
4.マルクス・レーニン主義の導入、共産党との論争、最近の社会主義協会の動向などを書き加えました。
5.昨日、イッチーさんから提起された問題について。1977年社会党大会で佐々木更三がヤジられた件。あれから、図書館へ行って朝日・毎日・読売各紙の縮刷版を読み返しました。私の記憶からは欠落していたのですが、佐々木更三がヤジられたのは事実でした。大会に意見書を提出し、その説明の時です。もっとも、当時の新聞の記述は、江田三郎に対する集中批判には江田に対する同情とまではいかなくても批判の激しさに当惑が現れていますが、佐々木に対しては、協会に影響力を奪われその腹いせで成田-石橋体制を批判した、と冷ややかです。大会の焦点は佐々木にはなく、それで記憶に残らなかったのでしょう。それから、改めて確認したのですが、協会の江田に対する批判についても、新聞各紙は当惑はしても決して憤激の念など示していません。協会派の江田批判には、当時からみても誹謗中傷といえるものもありましたが、あくまで党大会での執行部と代議員の質疑応答+ヤジの範囲内でした。江田を一室に監禁し自己批判を迫ったり、暴力をふるったりしたのではありません。江田に対する批判は、つるしあげと呼んでもいいと思いますが、この程度のつるしあげは、国会開会中に時の首相は野党から連日受けているものですし、かつての新左翼学生の大学側に対する大衆団交はこの時の協会派の江田批判よりもはるかに激しいものでした。念のために書いておきますと、それから約半年後に社会党は再び党大会を開いて協会規制を決めますが、この時は協会・反協会で勢力が逆転し、協会関係者が激しく罵倒されました。私の記憶では、反協会の方がより下品なヤジをとばしていたように思います。
ハンガリー動乱については、山川均が文章を書いており、『山川均全集』19巻に収録されています。
68年協会分裂時の地域による太田派・向坂派の勢力分布ですが、当時太田派は関西支局・九州支局を拠点としていましたので、一般的には西日本が太田派と呼んでもいいかとは思いますが、すでに書いたように例外もあり、また勢力分布はすぐにひっくりかえったので、これを記述すること自体意味があるとは思えません。
6.一つお願いしたいことがあります。労働者運動資料室というサイトがあり、社会党・協会・社青同関係の資料がかなり豊富に掲載されているのでリンクしました。これに異議のある人はいないと思いますが、リンク表示がどうもうまくいかず、現状のとおりにしました。どなたか正しい表示になおしていただけないでしょうか。よろしくお願いします。
7.社会主義協会については、平和革命論の内容などもっと書かなければならないことも多いのですが、本日はここまでといたします。(匿名希望1 04.9.3)

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匿名希望1さま イッチーでございます。私は、社会党(社民党)等で活動している者ではなく、単なる観察者ですので、よくわからないことも多かったのですが、当事者の方に加筆修正していただき、かなり充実した記述になったと思います。ただ、気になった点をいくつか改めました。

1、漢数字とアラビア数字の記述が混在しているので、アラビア数字に統一しました。

2、山川均がハンガリー動乱が起こったときに、ハンガリー国民に同情的だったのは確かですが、なぜか『世界』の座談会では豹変して、ハンガリー国民に対して侮蔑的なことを述べています。山川の中でもいろいろと葛藤があったのでしょう。小島亮『ハンガリー事件と日本』(中公新書、1985年)をご参照ください。

3、佐々木派が協会に対抗して中国に接近したと書かれていますが、佐々木は文化大革命が発動されたころから、親中派として知られており、文化大革命を礼賛するようなことを言って、党内でも問題となっています。そこで一部文章を変えさせていただきました。

4、1977年党大会のときにはあまり江田に対して世論は同情的でなかったかもしれませんが、江田の離党→急死によって世論は江田に同情的=反協会になったと思われますので、そのように文章を変えさせていただきました。また、千葉県本部の分裂は1975年で件の党大会よりも前の出来事ですので、その点も改めさせていただきました。イッチー 2004年9月3日 17:08(UTC)

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こんにちは。今回は、次のように手を入れました。 1.いままでのままでは長すぎるので、小見出しをつけるとともに、適宜空き行を増やしました。
2.前史および現在の部分を加筆しました。その他の部分も補充したところがあります。
3.順序を入れ替えた部分があります。また簡潔な表現にするため一部の文言を整理するとともに、「転向」「暴走」など少し感情的と思われる表現は、「立場を変え」「独走」などに改めました。
前にも書いたように、この項はもっと加筆を要する部分もありますが、これ以上こだわるときりがありませんので、私の修正加筆はひとまずここまでとし、しばらく時間を置いてから、また現れます。向坂逸郎などの項も同様です。ご指摘、ありがとうございました。過去の記憶が呼び戻されるとともに、いろいろ勉強になりました。今後も、イッチーさんはじめ多くの皆さんの手で、この項などがよりよいものになっていくのを望みます。  匿名希望1 04.9.4

分割提案[編集]

明治時代の社会主義協会について述べている部分を社会主義協会 (1900年)として分割することを提案します。いかがでしょうか。--Straysheep 2008年4月4日 (金) 12:31 (UTC)[返信]

現状でも不便はありませんが、どなたかが実行していただけるのであれば特に反対する理由もありません。--匿名希望1 2008年4月7日 (月) 01:02 (UTC)[返信]

特に反対意見はなさそうなので適宜分割の作業に入ります。分割ではなく、新たに上記の記事を起稿するという選択肢もありましたが、こちらでの編集履歴を継承するのが筋かと思いましたので、あえて分割という方法を取らせていただきます。匿名希望1さんレスありがとうございました。--Straysheep 2008年4月10日 (木) 20:06 (UTC)[返信]