ノート:独ソ戦

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名称について[編集]

いつのまにか「独ソ戦争」に移されていましたが、「独ソ戦」に戻しました。これは、単独の戦争ではなく、第二次世界大戦の一部であり、「戦争」をつける呼び方はあまりにも少ないためであります。(ネット検索では二桁ことなります。)あと、大きな項目の移動を予告せずにするのはどうかと思います。--Los688 2005年12月4日 (日) 14:16 (UTC)[返信]

「独ソ戦」は「独ソ戦争」の略称ではないでしょうか。単に略称を訂正するだけだと思ったので、ノートにわざわざ書きませんでした。「太平洋戦争(大東亜戦争)」も第二次世界大戦の一部なんですが、こちらは「太平洋戦(大東亜戦)」と呼ばなくて良いのでしょうか? ダブルスタンダード(二重の基準)はあまり好ましくないと考えます。 2005年12月4日 (日) 15:13 (UTC)[返信]

日本が直接関わり、日本語として良くも悪くも練られてきた「太平洋戦争」「大東亜戦争」の語と、日本が関わらず日本人の多くが関心を持っていない「独ソ戦」の語を比較すること自体が間違っています。日本語の練られ度合いが全く異なるので、二重基準とはなりません。それに、太平洋戦域を意味する「太平洋戦争」と欧州戦域中の一戦線の戦いである「独ソ戦」を比較する事はレベルの違いがあり、単純比較はできません。独ソ戦争に対応する語を強いてあげるとするならば、戦線に対応して「独英戦争」や「独仏戦争」「独白戦争」とかなるわけですが、そのような語をほとんど無きに等しいものです。--Los688 2005年12月5日 (月) 14:39 (UTC)[返信]

ウィキペディア利用者には「日本POVにとらわれるべきではない」派と「日本国内の観点で良い」派がいて、利用者によって基準がまちまちです。「アメリカ合衆国」が「アメリカ」や「米」になっていると大変な大騒ぎをする人がいる一方で、「ソビエト連邦(社会主義共和国)」は「ソ連」や「ソ」で結構、というダブルスタンダードには冷戦思考から抜けきれない「日本POV」を感じます。それが「日本国内」の大勢なんでしょうけど。
英米中心で見れば「東部戦線」(w:Eastern Front (World War II))ですが、ロシア側から見れば「大祖国戦争」(Великая Отечественная Война)、ドイツでは「バルバロッサ作戦」なので、国や立場によって理解のしかたが異なりますね。イギリス(英)・フランス(仏)・ベルギー(白)は同時期に開戦したので連結して考えて良いけれど、ソビエト連邦とは開戦時期も事情も異なるので、これを同レベルでとらえるべきではないでしょう。
「アメリカ合衆国の事なら大騒ぎするが、ナチスとソ連ならどうでもいいや」というのが、日本国内の大勢ということで。まあ、たった一字のちがいなのであまりこだわらないことにします。 2005年12月5日 (月) 15:15 (UTC)[返信]

「独ソ戦」は「独ソ戦争」の略称なのでしょうか? 単に戦いを示す戦であって戦争の略ではないのでは? ※ドイツにとっても東部戦線だと思いますが。--61.24.28.80 2005年12月6日 (火) 12:44 (UTC)[返信]

バルバロッサ作戦と独ソ戦はイコールではないのだが。それはともかく、当面、現状維持は了解した。--Los688 2005年12月7日 (水) 12:36 (UTC)[返信]

第二次世界大戦第二次世界大戦争といいなおすとも思えない。で慣用されているものを戦争とする人がいるのだろうか?0null0 2005年12月7日 (水) 13:16 (UTC)[返信]

  • ちなみにドイツ語版では、記事名は「Russlandfeldzug 1941–1945」(ロシア出兵orロシア戦役)ですが、本文最初の見出し語は「Unternehmen Barbarossa」(バルバロッサ計画)となっていて、呼称のちがいだけのようです。「東部戦線」は英米の発想でしょう。日本でも「日中戦争」を「西部戦線」、「太平洋戦争」を「東部戦線」とは呼びませんし。
    • 「第二次世界大戦争」については使われているの見たことがありませんが、「独ソ戦争」の表記を使っている人も少なくはありません。まあ、戦争名なんて、時代や政治情勢によっても変わってゆきますけど。 2005年12月11日 (日) 17:39 (UTC)[返信]

バルバロッサは当初の対ソビエト戦の作戦名でしかない。それで戦争が終わっていれば(対ポーランド戦争、対フランス戦争のように)バルバロッサは戦争名として間違いはないが、現実問題としては、バルバロッサという作戦は失敗しているために、対ソビエト戦争をバルバロッサでくくることが出来ないのである。当時、ドイツが対外戦争の計画については色をつけていたことは語るべくもなく、1942年の作戦名にブラウが何ゆえにつけられたかを語りだせば、対ソビエト戦争にバルバロッサを項目名として用いることは出来ないのである。0null0 2005年12月13日 (火) 05:25 (UTC)[返信]

ドイツでの一般的な呼称がどうなっているのかは不詳ですが、日本と同様に理論的でない慣用表記が定着してしまっている場合もあるでしょう。ドイツ語版に「Unternehmen Barbarossa(バルバロッサ計画)」と書かれているからには、ドイツ国内ではそういう慣用が流布しているかも知れません。日本だってかなりいい加減な慣用が流布していますし。 2005年12月15日 (木) 13:55 (UTC)[返信]

ページ名についてですが、ドイツとソ連とだけで行った戦闘ではないので「東部戦線_(第二次世界大戦)」辺りに移動することを提案します。ドイツとソ連だけで行われた戦闘という誤った印象を誘導するページ名は不適切です。

この場合方角が問題となりますが、私は大丈夫だと思います。ソ連から見ると明らかに東部ではなく西部戦線で、東部戦線というと西欧側からの呼称になってしまい中立性に欠けますが、日本語文献でこの方面の戦線が「西部戦線」と断りなしに書かれることはまずないので、日本語内の特殊事情ということで「東部戦線」でも中立性は保たれると考えます。いや、だめか。かと言って「大祖国戦争」でもあるまいし。(但し、一次大戦に関しては問答無用で西欧中心の戦線の捉え方でページ西部戦線_(第一次世界大戦)が書かれていますし、東部戦線西部戦線でも私が書き加えた部分以外はそのようになっております。)

なお、ロシアでも西部戦線などという言い方はしますので、特に英米に限った話ではなさそうです(但し、ロシアではもちろん英米で言うところの「東部戦線」が「西部戦線」と呼ばれるわけですが)。

ご意見お願い致します。--ПРУСАКИН 2007年1月13日 (土) 15:46 (UTC)[返信]

「東部戦線_(第二次世界大戦)」へ移動させることには反対で、「独ソ戦」のままで良いと考えます。東部戦線・西部戦線と言うのはそれぞれの記事にあるようにある基準から見て、西にあるか東にあるかから一般に名づけられます。第二次世界大戦の場合、侵攻を行った国であるドイツから見て東か西かで判断していると考えます(この点に関しては明確なrefを持っていないので分かる方がいればご教示ください)。そのため、第二次世界大戦に関して言えば、ポーランド侵攻は東部戦線ですし、フランス侵攻は西部戦線になります。従って、西部戦線や東部戦線の戦いの記事を作成すること自体は反対ではないですが、それらの下に個々の戦い(今回の「独ソ戦」や「ポーランド侵攻」等)が入るべきだと考えます。実際英文の記事ではその様になっており、英文記事へのリンクは修正すべきだと考えています。
では、名称をどうするかと言う点ですが、バルバロッサ作戦の名称が国名もないため良い様にも思いますが、他の方の御指摘にあるように、作戦名の記事は分かりにくいという点と、この戦いの一部の局面(作戦)でしかありません。私個人としては、ドイツ以外の国も確かにソビエトと戦いましたが、ドイツがソビエトに侵攻したことにより他の国も参戦したと言うもので、兵力もドイツ軍が主力、作戦計画もドイツ主体(フィンランド除)であるため、名称は独ソ戦で良いと考えます。--Daisydaisy 2007年1月14日 (日) 02:17 (UTC)[返信]
確かに仰るような意味で「独ソ戦」でよいようにも思います。
バルバロッサ作戦については、大祖国戦争というのと同じく反対です。当事者の一方の使用した名称を優先するのは、特に必要性があれば別ですが、一般論として適切ではないでしょう。--ПРУСАКИН 2007年1月14日 (日) 10:26 (UTC)[返信]
やはり「独ソ戦」でよかったかも知れません。--ПРУСАКИН 2007年1月14日 (日) 15:08 (UTC)[返信]
考え直し、やはり改名提案は取り下げました。--ПРУСАКИН 2007年1月21日 (日) 08:13 (UTC)[返信]

「日本では稀に独ソ戦争とも呼ばれる。」と書かれていましたが、Google検索すると

  • 独ソ戦…約 66,300 件
  • 独ソ戦争…約 190,000 件

となり、検索結果自体は逆になるので、記述を変えました。 2007年2月24日 (土) 22:27 (UTC)[返信]

"独ソ戦"、"独ソ戦争"にしてみてください。まあ、併記自体は結構ですが。--58.98.165.211 2007年3月22日 (木) 08:41 (UTC)[返信]

>"独ソ戦"、"独ソ戦争"にしてみてください。
  • "独ソ戦"…52,500 件
  • "独ソ戦争"…1,760 件
独ソ戦のほうが圧倒的に多いですね。--経済準学士 2007年3月22日 (木) 09:42 (UTC)[返信]

参戦国について[編集]

スロヴァキアも追加するべきでは。後、ユーゴスラビアのパルチザン軍とかの扱いはどうなるのでしょうか。--124.44.152.53 2007年7月12日 (木) 09:46 (UTC) ブルガリアは枢軸国ではありますが対ソ参戦はしていなかったのではないですか?--203.88.176.110 2008年8月1日 (金) 23:03 (UTC)[返信]

「対敵協力者」の項目で「協力者の多くが、人間扱いされない捕虜生活より、生きるためやむを得ず協力者の道を選んだ。」 とありますが根拠にした資料をお示し願いますか。 --Puutin 2008年12月10日 (水) 13:13 (UTC)[返信]

戦争犯罪について[編集]

「両国軍による捕虜虐待、虐殺、暴行、強姦、略奪行為は戦場の各地で見られた.」について具体的な資料を提出していただけませんか? --114.48.72.1382009年5月20日(UTC)

早速の書き込みありがとうございます。早速ですが、当該記事について、「戦場の各地で見られた」というのは表現的にどうかと思っており、どうするか考えていたところで、ちょうど良い機会になったことも御礼申し上げます。少なくとも「ベルリンの戦い」の項目において、ベルリン市内でソビエト赤軍兵士によって行われた行為については出典付で記載されております。なお、この出典本である「ベルリン陥落1945」において、その行為が「ドイツ軍がロシアで行った行為に対する報復であった」旨が記載されておりますが、長文になりますので割愛いたします。また、ドイツ軍が行った行為として、講談社メチエ「ヒトラーとヒムラー氷のユートピア」P200によると、「4個の特別行動隊(Einsatzgruppen)ならびに親衛隊、警察大隊によって(中略)無防備、無抵抗のユダヤ人射殺作戦が実施された。」とあり、少なくとも虐殺、暴行、強姦行為については「各地」ではありませんが、存在することとなります。そして、略奪行為は先ほど、新規投稿いたしました、「ウラヌス作戦」に英語本ではありますが、出典付として記載しております。また、捕虜虐待については英語版Wikipediaのソビエト赤軍捕虜に対するナチスの犯罪の記事を読んでいただければ、出典付で記事が立てられておりますので、確認していただければ幸いです。なお、私はこの「独ソ戦」の項目についてはリンク修正などで投稿したのみで、この部分を投稿された方の意図は測りかねますが、「両国軍による捕虜虐待、虐殺、暴行、強姦、略奪行為は戦場の各地で見られた.」という表現は大げさであり、「両国軍による捕虜虐待、虐殺、暴行、強姦、略奪行為が発生することもあった」という表現などにすべきだと考えております。長文、乱文、失礼いたしました。--Hideokun 2009年5月20日 (水) 11:56 (UTC)[返信]
返信有難う御座います。「両国軍による捕虜虐待、虐殺、暴行、強姦、略奪行為は戦場の各地で見られた.」はちょっと誇張しすぎのようでしたので、

その改変に賛成です。ソ連の暴虐は有名ですがドイツ軍の暴虐については無知だったもので勉強になりました。--114.48.72.1382009年5月20日(UTC)

たびたびすみません。「スラブ民族と共産主義の完全根絶を目論むヒトラーの過酷な占領政策は親独的な地域住民の感情をも逆撫し、彼らを抵抗分子のパルチザンに変えてしまうものであった。」についてスラヴ民族の完全根絶をヒトラーが目論んだという具体的な資料を提出していただけたら有難いです。--114.48.72.1382009年5月20日(UTC)
えーと・・・まず、大前提として、独ソ戦はナチスドイツが「東方生存圏」を得るためにソ連を攻撃したことに始まることは了承していただけてるのでしょうか?これは「我が闘争」をお読み頂ければご理解いただけると思います。スラブ民族というか、この場合、共産主義国家であるソ連を攻撃し、殲滅することは白水社「ヒトラー 権力の本質」著:イアン・カショー、翻訳:石田勇治を拝見いただければ、これはご理解いただけると思います。また、PHP文庫「20世紀の怪物真実のアドルフ・ヒトラー」著:金森誠也のP149からP171にも記載されており、出典としてドイツ語だと思いますが、「Henry picker;Hitlers Tischgespräche im Fürerhaupyquartier 1941-1942 Deutscher Taschenbunch Verlag 1963」がこの部分の主な出典とされております。さらに、上記した「ヒトラーとヒムラー氷のユートピア」のP130からP156については「東方ゲルマン大帝国構想」と題して、114.48.72.138さんが求める事について詳しく記載されております。その他、このWikipedia内の色々な項目を確認していただければ、この部分に該当する部分があると存じます。よろしければ、ご確認ください。--Hideokun 2009年5月20日 (水) 13:38 (UTC)[返信]
返信有難う御座います。ドイツの民族浄化の根拠とされる「我が闘争」ではヒトラーが勝手に言っているだけのこと。口頭で言うだけなら我が国日本も北朝鮮に何回も民族浄化されることになります。なにか「スラヴ人滅亡計画」のような命令書でも出ていたのですか?確かにドイツが共産主義国家ソ連の打倒を目論んでいた事は認めますが、ロシア解放軍を組織し共闘した行為等も含め「スラヴ民族の完全根絶」はちょっと誇張しすぎでは?「スラヴ民族を劣等民族とみなし」に改称したほうが良いのでは?無論これは民族主義を正当化するものではありません。横柄な乱文失礼しました。--114.48.72.1382009年5月20日(UTC)
微妙にIPが違うようですが、同じ方なのでしょうか?えーと、同じ方として返信いたします。ロシア解放軍にまで言及されるのでしたら、独ソ戦ならびにナチスドイツについてもお詳しいと想像いたします。まず、「ヒトラーとヒムラー氷にユートピア」の「東方ゲルマン大帝国構想」を読んでいただければ、ポーランド人、ロシア人を代表とするスラブ民族を廃絶しようとしてたことについてご理解いただけるのではないでしょうか。ただし、ブルガリア人は南スラブ系に分類されていたような気がしますので、スラブ民族廃絶かどうかはわかりませんが、少なくとも「ヒトラーとヒムラー氷のユートピア」を確認してからお返事を頂ければと思います。--Hideokun 2009年5月20日 (水) 15:04 (UTC)[返信]
えーと、114.48.72.138さん。先ほどまで気がつきませんでしたが、Los688さんにより1週間の投稿ブロックを受けてらっしゃるようですね。ここでこのような投稿をされるのはブロック破り行為となりますので、これ以上の投稿はお控えいただきませんか?ルールはルールです。私もこちらへの投稿は控えさせていただきます。--Hideokun 2009年5月20日 (水) 15:36 (UTC)[返信]
横から失礼します。確かに、「スラブ民族の絶滅を・・・」という記述は厳密には間違っております。正確には「スラブ民族の奴隷化」ですね。これは『我が闘争』にも明記されており、「絶滅」という言葉はなかった気がします。ナチスの東方植民計画では、農奴化したスラブ人の上に荘園主や地主としてドイツ人が君臨するという図式を描いており、ユダヤ人と並んでスラブ人は「駆除」されるべき存在と宣伝してきました。ドイツ人のスラブ人蔑視はナチス時代に始まったことではなく、第1次大戦のタンネンベルクの戦いで捕虜になった数万のロシア兵が、原っぱを鉄条網で囲っただけの名ばかりの「捕虜収容所」で飢えるがまま凍えるがままに放置され、かなりの死者が出たという事実からみても、伝統的といっていいでしょう。第二次大戦でドイツが、西側連合軍捕虜とソ連軍捕虜の扱いが全く異なっていたということももはや常識の範囲でしょう。映画『大脱走』の原作本に、捕虜収容所の拡張作業にロシア人捕虜が使役され、その扱いは見るに耐えない状態だったという記述がありましたし、学研の『ベルリン陥落』にも、大戦末期にドイツ人が空襲の瓦礫撤去作業で使役されているロシア人捕虜や強制連行されてきた労働者が蜂起するのではと怖れておいたとの記述があったはずです。また、両軍の東部戦線での暴虐行為は様々な書籍に書かれているので、矮小化せずに「珍しくない光景」などの記述を入れることを提案します。--114.163.72.55 2009年5月21日 (木) 12:59 (UTC)[返信]
ありがとうございます。「スラブ民族の絶滅」という表現ですが、「ポーランドの絶滅、その生命力の除去」については、は1939年8月22日、ヒトラーがオーバーザルツブルクに国防軍首脳を集めてポーランド侵攻作戦の目的がそれであることを宣言しています。また、それに関してはポーランド総督府の注釈関連を確認していただければ幸いです。その他、国家保安部の提出した書類によれば、東方のドイツ系以外の民族に対して、「共存の可能性の否定、ゲルマン的資質者のゲルマン化、異民族の強制追放、異民族の肉体的抹殺」となっております。また、M.レスラー、S.シュライエルマヒャーによれば、「東部総合計画(東方へのドイツ人の移民計画を主体とするもの)」は絶滅政策を代表する1つであるとしています。捕虜の扱いについても、反対に考えれば、この絶滅政策の一部と考えることもできるのではないでしょうか?ただ、ここまで踏み込むと独ソ戦の項目に記載するには余りにも別な項目になると考え、余り踏み込んだ記載はよろしくないと考えいます。また、矮小化に関してですが、上記した英語版を翻訳、独立項目として立てようと考えておりましたので、ここで大々的に記載しなくてもいいのではないかと考えていたことは白状しなければなりません。また、その行為の大部分が親衛隊特別行動隊が行っていることから、独ソ戦に記載するよりかは、アインザッツグルッペンの項目で扱うべきと考えていますし、ドイツによるソビエト赤軍将兵への行為については上記英語版関連項目で補強できると考えています。要点だけを述べれば、独立項目が立てれることから、ここに大きく書くことはないというのが私の意見です。乱文、長文、失礼いたしました。(出典は「ヒトラーとヒムラー氷のユートピア」より)これまで投稿した部分で一部、誤字があったので同時に修正--Hideokun 2009年5月21日 (木) 14:26 (UTC)すいません、風邪で寝込んでいたので文章が支離滅裂ですね。ただし、現在、114.48.72.138さんの編集はリバートされている状態ですが、私はそれで問題ないと考えております。--Hideokun 2009年5月21日 (木) 15:16 (UTC)[返信]
114.163.72.55です。Hideokunさん、回答有り難うございます。ええと、私は114.48.72.138氏とは全く別人の可変IPです。--114.163.73.224 2009年5月23日 (土) 02:38 (UTC)[返信]
申し訳ない、どうも熱で頭が混乱していたようで、114.163.72.55さんと114.48.72.138さんと混ぜてしまったのと、支離滅裂な文章でご迷惑をおかけしました。取りあえず、私の意見としてですが、矮小化するのではなく、英語版のen:Nazi crimes against Soviet POWsの記事を翻訳、「ソビエト赤軍捕虜に対するナチスドイツの犯罪行為(仮称)」という項目を立てて、書き込もうと考えていた、ということです。捕虜の虐待行為、その他の犯罪的行為などは、すでに独ソ戦という範囲にとどまらず、ナチスドイツの「東部総合計画」の一端で、独ソ戦で軽く扱うことはそぐわないなぁと考えてます。また、もし記載するなら節を設けて書くべきなのかなぁと思うところもあります(ただし、私の所有している書籍はナチスドイツの犯罪的行為を中心としており、国防軍による行為の記載はあまりないもので、なんともいえませんが・・・)。正直にいえば、安易に要出典タグを貼られる行為(特に貼り逃げ行為)を好ましく考えていないものですから、性急に処理しようとしたことは否めない事実です。これはお詫びしなければならないです、申し訳ありません。--Hideokun 2009年5月23日 (土) 03:27 (UTC)[返信]

ナチス政権はスラブ民族を奴隷としての存在は認めており、ユダヤ人の様に根絶されるべき存在ではありませんでした。。「両国軍による捕虜虐待、虐殺、暴行、強姦、略奪行為は戦場の各地で見られた.」は両軍とありますが、ドイツ側は政治警察が、ソ連側はソ連兵が虐殺をやっています。当時ドイツ軍では東部戦線では捕虜になるな!という合言葉があり、これは捕虜になる前に自決が、ソ連軍による拷問死よりはましということでした。文献としては「どれでも東部戦線での戦記」でよいくらいです。例、『急降下爆撃』 高木真太郎訳、学習研究社、2002年、ISBN 4059011541 など。--大淀 2010年1月1日 (金) 14:26 (UTC)[返信]

こんばんは、初めまして大淀さん。まずお詫びしなければならないことは『スラヴ人の絶滅』ではなく、『ボリシェビキの絶滅』ということですね。スラヴ人については『シベリア追放もしくは奴隷化』でした、謹んでお詫び申し上げます。ただ、ドイツ側が政治警察によって行なわれたわけではなく、親衛隊の特別行動隊による抹殺、もしくは組織だって行なわれたことは拙作ソビエト連邦戦争捕虜に対するナチスの犯罪行為でも確認していただけると思います。また、ソ連側でもこれまた拙作ではありますが、ソビエト連邦による戦争犯罪で確認していただけると思います。ということで現状の表記で十分ではないかと私は考えています。--Hideokun 2010年1月5日 (火) 18:13 (UTC)[返信]

指揮官について[編集]

ところで、表の指揮官欄について、あまりに多くの人物を列挙しすぎではないでしょうか?この欄に記載する人物は各国の政府及び軍首脳に止めることを提案します。--Rasalghul 2009年6月18日 (木) 14:11 (UTC)[返信]

この戦いの戦前はいつにあるのか?[編集]

私が独ソ戦を語るときに、連合軍は時計の針をどこまでもどそうとしたのか? というのがとても気になるのです。それが一番顕著なのがワルシャワ・ポーランド問題であって、連合軍は1939年8月31日にまで戻そうとしたのに対して、ソ連にとってのそれは1941年6月21日だったということに冷戦の火種があったと思うのですが、そのあたりは記述すべきでしょうか? スターリンとチャーチルの会談についてもっと記述すべきではないかとも思っています。0null0会話2019年9月17日 (火) 05:01 (UTC)[返信]