ノート:熊井啓

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Wikipedia:検証可能性には、『ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です』と明記されています。ウィキペディアは事実解明の機会を執筆者に与えるか、それとも検証可能性を以って記事とする機会を執筆者に与えるかを比べた場合、後者を明確に選択しています。ウィキペディアの執筆者、ウィキペディアに参加される全員が全て中立的な立場から執筆できる事は、理論的に不可能です。

なぜなら個人個人は中立ではないからであり、全体として議論のうえにウィキペディアは中立性を確保する工夫として、出典を明記させるようにしております。『ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です』と云うのは、ウィキペディアの基本方針ですから、ご了解ください。

この場合で言えば、「エピソードであるから削除したい」するのは、個人の意見としては結構ですが、「出展を追加した記事を削除するのは」検証可能性を以って記事とする機会を執筆者に与えるウィキペディアの精神に、また繰り返しますが基本方針に反しています。残念ですが。

以下、個人的な見解を追加させて頂きますと、どなたが執筆なされることに反して反対意見を述べるつもりは全くありません。違う意見があるならば、wikipediaの基本方針に従い、出典を明記された上で記事に書いて頂いて中立性確保のため議論をしていただければ結構だと存じます。

付けたしとしておきますが私は参照した文章の出展元の意見に同意するものとして、記述をしておりません。即ち、記事の参照元に対して同意も、賛意も、批判も加えるものではありません。すなわち、議論は致しません。権利を主張するものです。

最後に承知と存じますが「wikipedia」の基本方針に反して、恣意的に削除される場合はアラシとなりますので、ご留意いただければ幸いです。なお、このような文章を書いたからといって、できるなら「偏執的教条主義者」「トロツキスト」とは呼ばないでください。皆さんの権利にかんして代弁しているに過ぎませんので、寛恕いただけると幸いです。木島無名 2007年5月28日 (月) 02:05 (UTC)木島無名 2007年5月28日 (月) 02:15 (UTC)[返信]

『小津安二郎』浜野保樹/岩波新書は、1993年1月に出版された後、高橋治氏の著作からの多数の無断引用が指摘され(週間文春 1993年4月22日号)、その後絶版となっています。絶版である事と検証可能性の有無とは何ら関係有りませんが、絶版になった経緯を考えますと、これはWikipedia:検証可能性での信頼性に乏しい情報源だと判断すべきかと思われます。
またWikipedia:ウィキペディアは何でないかでのウィキペディアは演説場所ではありませんは当然木島無名さんもご承知だと思われますが、そこにありますようにWikipediaは批評の場ではありませんので、「放言」や「反省の弁は無かった」のような主観的な記述(引用を含む)は避けるべきではないでしょうか。-- Kamisaka 2007年6月2日 (土) 00:21 (UTC)[返信]

最初に、Kamisakaさんが、どのように記事を編集されようと、私は異議を唱えるものではありません『Wikipediaは批評の場ではありませんので、「放言」や「反省の弁は無かった」のような主観的な記述(引用を含む)は避けるべきではないでしょうか。』とされるKamisakaさんに対して私としては、繰り返しますが異議を唱えるものではありません。但、Kamisakaさんが「Wikipediaの公的方針」について理解されているかどうかについては、失礼ですが疑念を挟まざるを得ません。

「主観的な記述」とは何を意味されているのでしょうか?

Wikipedia:中立的な観点には、「中立的な観点からは、意見や事実について、それを支持する者と批判する者とが共に合意できるように記述することを目指します」と書かれています。当然ながら、一人の個人が「中立的な立場」から発言されるのは不可能です。ここで言えば文章から様々に文意を読み取る二つの存在を「Wikipedia:中立的な観点」は認めています。つまりWikipediaを構成する概念において「主観的な記述」とは個人が主張する「主観的な記述」でしかなく、その対岸には別の「主観的な記述」が存在する可能性をWikipedia:中立的な観点は認めています。

更にその上で、上記のWikipediaの公的方針は「合意できるように記述することを目指します」としています。即ち、互いの立場を保ちながら「合意できるように記述すること」で記事を完成させようとしております。Wikipedia:検証可能性をご覧になってください。ここには、『ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です』と明記されています。一方の主観的な記述のみ、「真実であるかどうか」を認めるとしたならば、Wikipediaの記事はひどく偏ったものになるでしょう。このため[[Wikipedia:検 証可能性]]に基づいた記事の執筆を求め、互いの公平な立場を確保しながら合意を目指しています。

『Wikipediaは批評の場ではありませんので、「放言」や「反省の弁は無かった」のような主観的な記述(引用を含む)は避けるべきではないでしょうか。』と仰るのなら、それは結構です。Wikipedia:検証可能性に基づいた記事の執筆により合意を目指してください。「WIKIPEDIAの記事は事実の解明を目的として対象について主観を極力排した客観的立場より観察する。ここから出発しています」は、貴方一人で作る事も、無論、私一人で作る事もできません。この客観的立場はゴールなのです。ハーフラインから1センチ手前にゴールはありません。ゴールまで互いにボールを運んでいただけないでしょうか?

つまり、一言でいえば検証可能な資料に基づいて記事を執筆して、主観を極力排した客観的立場の合意を達成してください。(ちなみに私はこのゲームに参加しないと明記しておりますので、ご寛恕いただけると幸いです)

異なる立場であるから「主観的」であり、しかも削除してもよいとはWikipedia:中立的な観点のどこにもありません。Wikipedia:削除の方針は、[Wikipedia:公的な方針]]です。ここには、即時削除をするケースについて、細かく規定されています。当然ながら、これに一致しないで削除される場合は、本人の意思がどうであれ、個人がその価値基準により恣意的に削除をしたと外観上判断されます。即ち、Kamisakaさんがされた行為は「アラシ」となります。残念ですが。管理者掲示板にて、皆さんの判断を仰ぐつもりです。

ちなみに、信頼性に乏しい情報源についてですが、私としては、「そうだ」とも「そうでない」とも判断のつきかねる点です。はっきりいえば、信頼性に乏しい情報源であるという概念についての定義を明確にしていただかないと判断できません。どなたかに確認されてはいかがでしょうか?また、どうしても納得できないならば、ウィキペディアの執筆者に執筆したことが事実であるかどうかについて証明を求めてはいませんので疑問や反論は直接、浜野保樹さんにお聞きされたらどうでしょうか。

内容については、元に戻しておきますのでよろしくお願いします。 木島無名 2007年6月4日 (月) 02:52 (UTC)[返信]

特に目新しい意見も無く、ただ冗長なだけの記述で貴重なWikipediaのリソースを消費するのは憚られますので、「放言」「主観的」「記述」などの個々の単語の意味については辞書を御参照下さい。
「主観的な記述」については、A氏がB氏に語ったaという発言をC氏が聞き、それをD氏に伝える場合を例に説明します。「AがBに対しaと発言した」とDに伝える事がCによる(比較的に)客観的な記述だとしますと、「AがBに対しaという放言をした」というのは、その発言に対し批判的な見解を持つCによる主観的記述となります。
Wikipediaで例えるなら、aが記事内容でCが編集者、Dが読者となり、aという内容についての評価/判断はCではなくDに委ねるべきであり、Cは主観的な記述を避けるべきだというのが、Wikipedia:中立的な観点での特定の観点を読者に押し付けないことだと考えます。
また記事を削除するのでは無くコメントアウトをする場合には、その記事が議論が必要だと思われる内容である、あるいは編集者による修正を期待しての対応です。が、それを理解されているか否かは不明ですが、単純にアンコメントされているようなので、管理者を始め第三者の裁定を待つのというのは賢明な判断かと思われます。Kamisaka 2007年6月6日 (水) 11:59 (UTC)[返信]

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