ノート:漆喰/削除

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削除依頼での議論[編集]

(*)漆喰 - (ノート[編集]

記事中の「エピソード」と題する部分が[[1]]と文の構造・内容が類似しています。Urania 2004年9月5日 (日) 10:32 (UTC)[返信]


ノート[編集]

西洋の漆喰、特にフレスコ画などに詳しい方、加筆お願いします。

あと、歴史の項で質問。戦国時代の築城ブーム?のときにすでに漆喰は外壁に使われていたんでしょうか? 現存する城郭のうち、漆喰塗りのものは全て江戸期に作られたもののようですが。--Gelsy 00:25 2004年6月3日 (UTC)


現在のイメージに相当する城郭が出来たのは、多聞城が最初であるとされています。この築城は永禄三年(1560)から。ルイス・フロイスは永禄8年に多聞山城を訪れ、「城内に多数の塔や塁保多くの階を重ね」「城壁と塁保は白壁塗りで」と、自国にあてた通信文に書いています。百楽天 04:11 2004年6月3日 (UTC)


松永弾正久秀の居城ですね。勉強になります。白壁、ということは漆喰を使ったことは間違いなさそうですが、これはかなり先駆的な例と考えてよいのでしょうか。安土城や大坂城には用いられていないようですし。--Gelsy 04:39 2004年6月3日 (UTC)


訂正
ルイス・フロイスは、永禄8年に多聞山城を訪れ、「城内に多数の塔や塁保多くの階を重ね」「城壁と塁保は白壁塗りで」と、自国にあてたルイス・デ・アルメイダ(1525-1583.10)の通信文を『日本史』に紹介しています。

安土城跡で漆喰たたきの焼け跡が発見され、これは天守炎上の証拠となっています。

成木街道は、慶長十一年(1606)に家康が江戸城築城の折、壁を純白に塗る漆喰の材料として、成木の石灰を御用石灰として調達したことに由来するようです。これは、八王子城落城で成木に落ち延びた北条氏の遺臣が、成木で石灰石を焼いて消石灰を作っていたことによります。
百楽天 06:10 2004年6月3日 (UTC)

追記
成木街道は、今の青梅街道です。
八王子城は、小田原に本拠地を持つ北条氏康(うじやす)の次男の氏照(うじてる)が甲斐の武田信玄軍に備えて天正元(1573)年頃に築いたとされます。天正十八(1590)年六月に豊臣秀吉の軍勢に攻められ落城。おそらく、八王子城にも漆喰が用いられていたものと思われます。百楽天 12:40 2004年6月3日 (UTC)

「漆喰」という題名の記事ですが、なぜか後半は唐突に「綿実油」の記事になっています。そして、綿実油の部分の文章は外部サイトの「東京油問屋史」[[2]]中の記述に非常に近いと思います。「東京油問屋史」は、トップページに無断転載禁止とあります。
心配になったので、念のため記事前半の「漆喰」の部分も調べたところ、「戦国の築城ブーム」、「耐火性、耐候性」、「5000年前。エジプトのピラミッドやローマの都、万里の長城」という語句の選択が、北川ハウジングのホームページ[[3]]または田川産業のホームページ[[4]]とやや類似しているように思いますが、こちらは許容範囲でしょうか。識者のご意見をお願いします。Urania 2004年9月5日 (日) 03:26 (UTC)[返信]