ノート:源義家

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「出羽守辞退」については確かに『朝野群載』には「父の任地とかけ離れているため孝養を尽くせない」として1年後の康平7年に越中への転任を希望したとあります。しかしそれは1年後であり辞退では無いと思いますが。

また、出羽守が鎮守府将軍の指図を受けるということはありません。 陸奥国の次官「介」が、陸奥国の中の前線基地鎮守府の長であり鎮守府将軍です。鎮守府の担当地域は陸奥国の北半分の奥六郡です。 清原氏が鎮守府将軍だからではなく元々出羽国で一大勢力を築いており、自分も参戦した前九年の役で義家の父頼義が頭を下げて出羽の清原氏に参戦してもらった経緯があります。おそらくはそのため頭が上がらない、赴任しても何も出来なかったということではないかと思いますが如何でしょうか。(--KTMCHI 2007年11月5日 (月) 15:12 (UTC)[返信]

「義家が白河法皇と個人的に対立関係にあった藤原師通に仕えていたため荘園の没収や寄進の禁止にあったとの説」は何方が提唱された説なのでしょうか。(--KTMCHI 2007年11月23日 (金) 19:32 (UTC)[返信]

「徳川家康の祖先」の件[編集]

222.166.181.152さんは「江戸幕府の徳川家康などの祖先に当たる」と追記されましたが、徳川家康が征夷大将軍となるために源氏を名乗ったのは事実としても、現在の歴史学者で三河の松平家が義家の子孫と思っている人は誰もいない、と思いますが如何でしょうか。その前は藤原氏を名乗っていましたし。戦国時代以降はあまりウオッチしていないのですが、何か新しい史料でも発見されたのでしょうか。 この記事で紹介されている伝承にしても、室町時代以前に端を発しているものがほとんどだと思いますので、義家の項に徳川家康が子孫であるかに書くことは不適当だと思います。 ---Ktmchi 2012年1月13日 (金) 15:41 (UTC)[返信]

IPユーザの方なので、同じ方なのかどうかは解りませんが、121.112.218.221さんの修正「足利尊氏などの祖先に当たること から」への修正は同意致します。---Ktmchi 2012年1月16日 (月) 14:19 (UTC)[返信]

(インデント戻します)私は徳川家康等では家康が源氏を「偽称した」との編集に反対していたのですが、それは子孫でない確たる証拠もないためであり、通説で子孫でないとされていることは承知しています。上記追記が再発しましたので念のため言及しておきます。--ろう(Law soma) D C 2012年1月27日 (金) 08:35 (UTC)[返信]