ノート:渡辺崋山

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後世は渡辺崋山をどう捉えたか[編集]

しばらく忘れ去られていたが、明治中期以降に大きく取り上げられる(契機は1880年代の誰だったか?)。これは、維新の元勲らが、自分たちの先覚者として高野長英、渡辺崋山を持ち上げたことによる。←自分たちの権威付けですな。三条実美や、東郷平八郎の揮毫による顕彰碑が今も田原市の崋山ゆかりの地にある。
若年時代の貧窮に耐えて暮らしたという姿から、格好の道徳ネタとして太平洋戦争までは修身の教科書に利用された。当時の教育に利用されてしまったともいえる。年配の方を中心に持っている苦労人崋山のイメージはここで作られた、か。
戦後の人からいえば、奔放な高野長英の方が共感しやすかったのでは。ただ、実際の崋山は絵が売れて以降は金があったこともあり、陽気にのんだくれていたことも多かったようだ『全楽堂日録(彼の日記)』。
崋山を描いた著作
『渡辺崋山』杉浦明平
『渡辺崋山』別所興一

...最近崋山を取り扱ったもので出色なのは、もしかしたらマンガながらみなもと太郎の『風雲児たち』になるのでは。ここでの崋山はまじめで藩に忠義を尽くす姿は従来通りながら、自らの境遇のために真の学者になれなかった劣等感を感じつつも、それを覆す形で長英・小関三英などと交友を持って知見を広めていく姿が描かれている←みなもと太郎のソースはどこだろう?

田原藩家老としての崋山[編集]

田原藩家老であっても崋山はあくまで江戸人であり、田原には何度か訪れたに過ぎない、が田原市にとって崋山は唯一無二の田原と関係の深いの偉人・有名人(光浦靖子は忘れよう)であり、観光資源であるため、大きく扱われている。また、観光とは関わりなく、崋山は田原市民になじみ深いものとなっている。
田原市博物館...崋山をテーマに展示。
崋山神社...崋山を祀っている。いつごろの創建か?
「崋山劇」...旧田原藩校のある田原市立田原中部小学校では、学芸会のクライマックスとして、崋山の少年時代の貧しさ、苦しさ、そしてそれに立ち向かっていく強さを描いた劇を演じる。題材はもちろん戦前の修身の教科書であり、この劇自体も60年以上の歴史を持つ。興味のある方は一度是非、田原にいらしてご鑑賞を。
もちろん崋山は田原自体にも大きな仕事を残している。田原は貧しい地域だったのだが、農学者大倉永常を田原に招いて対策を講じさせたり、緊急用の食料庫を作っておいたおかげで藩の領民が天保の飢饉で飢えを免れたり。私も出身者なのだが、崋山に感謝しなければならないことは、いくらでもある。
雑駁だが、こんなことも調査、構成しなおして本文にのっけてみたいな。
ほかの田原市出身の方に、特に意見を聞いてみたかったり。田原市の崋山の部分はよくできており、田原市の人の関与をにおわせるので、ぜひここでも。
他の地方の方にも聞いてみたいが、崋山の魅力ってなんでしょうね?

--Aboshi 15:33 2004年6月9日 (UTC)