ノート:洞爺湖/過去ログ1

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過去ログ1 過去ログ2

読み方

「とうやこ」vs「どうやこ」について、編集される方がいたので、サミットも近いことですし、できれば読み方をめぐって編集合戦にならないようにしたいと思います。

  • アイヌ語の由来=とうやこ
  • 行政の自称=とうやこちょう(洞爺湖町)
  • 駅名=とうやえき(洞爺駅)
  • そのほか企業など=とうやこおんせんかんこうくみあい(洞爺湖温泉観光組合)、とうやさんぱれす(洞爺サンパレス)

など、ごく一部の話し言葉以外では全て「とうやこ」に統一されていますので、正しくは「とうやこ」で、「どうやこ」は広まった誤用、ということでどうでしょうか?

211.126.194.197氏は「北海道内の方言のようなもの」「地元でどちらも使用されている」と編集されましたが、

  • 「方言のようなもの」とは、方言ですか、それとも厳密には方言ではないのですか?方言とは異なるものであれば、「北海道内の」「慣用」「別称」「誤用」「業界用語」など、より適切な言葉で記載していただくことはできますか?あるいは、もし方言であるとするなら、地名の読み方を「方言」とする例は寡聞にして存じませんので、同様の例について挙げていただくことはできますか?
  • 「地元でどちらも使用されている」の「地元」とは洞爺湖周辺ということでよいでしょうか?そうだとして、洞爺湖周辺において、何か公的な調査がなされましたか?もしなされたとして、その結果は一般に(検証可能な形で)入手可能でしょうか?つまり、公的な調査の結果が検証可能な形で入手できなければ、「うや」と呼ばれたことがあったとして、それは個人的な体験(あるいはせいぜい独自調査)に過ぎません。片や「洞爺」を「とうや」と読むのが正しいことは、上記の公的機関などが全て同じに自称している事実で足りると思います。

「いばら」「かるいわ」「いおうま」なども市町村役場の自称などの公式名称と、広まった呼び方とが違いますが、いずれかが正しく他方は(広まった)誤用、あるいは誤用が本来の名称を駆逐して正式名称となったとされています。211.126.194.197氏は自分の個人的な体験だけから強調せず、またあえてこの項目に「うやでも正しい」ような誤解を招く記載をするのは、サミットが近くなりこの項目の利用者が増えて普段よりも影響が大きくなりますので(さらには本来の語源とされるアイヌ語とはむしろ遠ざかっている方向ですし)慎んだほうがよいのでないかと思います。(また、個人的な理解に間違いがあったらそれは潔く間違いとして、今後は正しく読むように心がけるのが前向きだとも思います) --Globizen 2008年2月22日 (金) 03:14 (UTC)

  • どうも、北海道東部の住人です。自分は口語では「うや」と発言します。どっちを使うかは、地域や育った環境によってによって違うと思うのですが・・・。検証は難しいですが(てーか、自分や周りの方言や訛りををどうやって検証するんだ・・・)。一概に間違いだって決められるものではないような気がします。そんなに形ばかり作ろうとせず、別海町みたいに両方併記にしても良いんじゃないでしょうかねえ。ちなみに別海の読みですが、うちの地元では、ベツカイと発言する人はほとんどいないってことを記しておきます。--ちゃたま会話|投稿記録2008年2月25日 (月) 11:47 (UTC)
  • 私Globizenは、ちゃたまさんは「いきなり本文編集するまでもないが言っておきたいことがある」んだろうなーと思いました。私自身は「誤りは誤り」として「うやこ」がWikipediaを通じて変に拡散してほしくない、むしろこれを機に絶滅してもらえたらと考えています。「絶滅さすべき」と書くのでは単に意見ですので、そうは書かずにWikipediaのガイドラインに従い事実を並べたその結果として、この項目を利用した人が「正しく直そう」と思ってほしいです。なので、ちゃたまさんの「ちょっと意見」を読んだ他の利用者が「なるほど、ちゃたまさんの言うことも一理あるから」と思って簡単には編集してほしくない、とも考えていますので、私の反論を示します。
>そんなに形ばかり作ろうとせず
Wikipediaは百科事典であって、エッセイやブログではありません。可能な限り正確な表記や内容を求めるのは当たり前です。(正確でない記載のほうがよければ、そういうことが推奨されている場所で書くか自分自身でブログや別のwikipediaのようなものを立ち上げるほうがよいでしょう。)
>別海町みたいに両方併記にしても良いんじゃないでしょうかねえ。
良くありません。
別海町(べつかい/べっかい)はもともと両方あって決まってなかったのを「町制施行を機に統一」した例だそうですが、洞爺(とうや)とは事情が異なります。洞爺は、長い間公的機関や著名な企業は(とうや)のもともと一方しか使っていません。アイヌ語の由来も「とうや」がより近いです。
あと、最初から両方併記になっています。『「うや」とも呼ばれるがそれは誤りである』、ではご不満でしょうか?許容される読みにならないといけませんか?「うや」と呼ばれている事実はあっても「うやも正しい」とことさらに許容できる理由はないと思います(理由あれば挙げてください)。
>どっちを使うかは、地域や育った環境によってによって違う
地域や育った環境によって違う例なら「滝川」があります。北海道の人は「たきかわ」とだいたい読めますが、「関西地方ではたきわと読んでいる人がほとんどである」と滝川市の項目にことさら加えたりはしないでしょう?
(最近(2008年)「滝川市」がいろいろ話題にでてますが、物知り顔のコメンテーターと呼ばれている人が「たきわ」と読んだら、まともな取材や勉強とかしないで発言してんだなーと思いますよね?)
>検証は難しい
>(てーか、自分や周りの方言や訛りををどうやって検証するんだ・・・)
うや」が許容されるという方は、自分の体験だけでなくて、少なくとも検証可能な根拠(公的な調査てのはハードルを上げすぎましたが)例えば、責任あるところが書いた文章(出版されてたり、公的機関のwebサイトだったり)のようなもので『「うや」でもよい』根拠は示すべきだと思います。
あと、「方言や訛り」の話ではなくて、固有名詞の読み方で「うや」と読むのが誤りか許容しうるか、の問題です。方言や訛りはあるでしょうし、それを検証するもしないもこの項目とは何の関係もありません。固有名詞の読み方を「方言」あるいは「訛り」といえる例があるでしょうか?
ちゃんと読んでいただけば、私が前に挙げたように、もしも211.126.194.197氏のように『「北海道内の方言のようなもの」で「地元でどちらも使用されている」ので「うや」は誤りでない』としたいのであれば、A「地元と呼べる地域ではうやこが多数である(=にもかかわらず行政などの自称が住民の実情を無視して決まったという経緯があるため行政の自称は正統性を意味しない)」あるいはB「固有名詞の読みに方言や訛りと呼ぶべきものが存在して、その場合は誤りとすべきでない」のABいずれかをきっちり(根拠を挙げて)示す必要がある、ということです(AB以外の方法で示せたらそれでも良いです)。
(ひょっとして江戸っ子が「ながわ」「びや」と言うこととか?それはWikipediaに記載すべき?(反語です))
>一概に間違いだって決められるものではないような気がします。
「気がする」レベルでなくて、「うや」に関しては「一概に間違いと決められる」例です(という確信があります)。「間違いだから記載しない」のではなくて、『「うや」という人も多いがそれは間違いだ』と記載すべきです。
>ちなみに別海の読みですが、うちの地元では、ベツカイと発言する人はほとんどいないってことを記しておきます。
それは個人的な体験か独自調査なのだろうと推測しますが、仮に別海の読みに関してはおっしゃるとおりであることが証明できたとして、それが洞爺の件に関して何らかの根拠や説明になるのであれば、どのように関係あるのかを教えていただければと存じます。私は「洞爺」の件と「別海」は互いに(ほとんど)関係ないと考えています。状況が異なりますし。もし関係ないのであれば関係ないことは書かないほうが発散しないのでそのほうが有益と思いますし、関係があればぜひ具体的に示していただけばと思います。
(ちなみにIME(MS-IME2002)では「とうや」→「洞爺」、「どうや」→×、「べつかい」→×、「べっかい」→「別海」ですので別海に関してMS-IMEに限ればおっしゃるとおりですね。)
誤解を招くといけませんので書きますが、ちゃたまさんに「いなくなれ」と思っているわけではありません。むしろ管理でご多忙にもかかわらずご意見いただいたのを大いに歓迎しています。なぜ「うや」と読まれるのかどのくらい根拠があるのか知りたいと思っていましたので、あまりはっきりした根拠がないようなのでがっかりはしていますし、反論できることは反論して、放置=認めたようには見えないようにしたいとも思います。できることなら(できれば地理や歴史を専門とする方なら尚)頭をバットで殴られるようなインパクトのある正当性のあるコメントや編集が頂けたらと思いますし、その説明に納得できたら「ほんとはうやが正しいんだ!」(またはどちらでもいいんだ!)といろんな場所で訴える運動をしたいくらいです。--Globizen 2008年2月25日 (月) 16:34 (UTC)
室蘭に10年ちょっといましたけど、「どうや」は初耳です。「どうやこ」も聞いたことがありません。虻田あたりの人はもしかしたら言うのかもしれませんが・・。洞爺湖町(いつの間にか合併してた!)の役場にでも「『どうや』と呼ぶ方って結構いらっしゃるんでしょうか」と聞いてみてはいかが。--220.145.128.129 2008年2月25日 (月) 17:35 (UTC)
>「『どうや』と呼ぶ方って結構いらっしゃるんでしょうか」と聞いてみては
それをするのは、「どうや」と主張する方でしょうね。「責任あるところが書いた文章(出版されてたり、公的機関のwebサイトだったり)のようなもので『「どうや」でもよい』根拠を出してほしい、出したらどうやでも間違いじゃないことにしましょう」と何度も言っていますが、誰もソース出してきませんよね。私は一番上に出しましたし自分の調査では「広まった誤用」以上に信頼できる「どうや」は一つもありません。--Globizen 2008年2月27日 (水) 05:30 (UTC)
「どうや」はそこまで目くじらを立ててまで駆逐されるべきものなのでしょうか。「洞爺」の読み方を巡る現地での実情が事実だとしても、Wikipediaでできることは、そういう現地の習慣について事実を淡々と記述することだけだと思いますが。
「どうや」は駆逐すべき…などというのは、非常に傲慢な発想だと思います。--Lincun
>Wikipediaでできることは、そういう現地の習慣について事実を淡々と記述
「事実だ」というなら事実だという側が検証可能なソースを用意する必要があるでしょうね。私はすでに一番上のほうで出しました。本文も淡々と記述しました。ノートにはなぜそう編集したかも書きました。それでよろしいですか?
>「どうや」はそこまで目くじらを立ててまで駆逐されるべきものなのでしょうか。
>「どうや」は駆逐すべき…などというのは、非常に傲慢
誰でも地元の地名は正しく読んでほしいと思って自然だと思いますが。「傲慢」というなら、むしろ「自分の周りでそうだからといって間違った読みを百科事典にねじ込む」ほうが傲慢だと思いますけどどうでしょうか?
(多少状況は異なりますが例えて言うと、「滝川市」に「全国的には関西中心に「たきがわ」と読むほうが多数派である」とはいちいち書きませんよね?関西の人がそういう編集をして揉めるような事態になったと仮定したら、それこそ傲慢だと思いませんか)
責任あるところが書いた文章(出版されてたり、公的機関のwebサイトだったり)のようなもので『「どうや」でもよい』根拠を出してほしい、出したらどうやでも間違いじゃないことにしましょう」と何度も言っていますが、誰もソース出してきませんよね。私は一番上に出しましたし自分の調査では「広まった誤用」以上に信頼できる「どうや」は一つもありません。--Globizen 2008年2月27日 (水) 05:30 (UTC)

毎度長文お疲れ様です。
> 私自身は「誤りは誤り」として「どうやこ」がWikipediaを通じて変に拡散してほしくない、むしろこれを機に絶滅してもらえたらと考えています。
あなたのこの発言に基づいて、「事実を淡々と記述す」べきと申し上げたのです。「とうや」が正しくて「どうや」が間違っていると力説されますが、それは公文書上や学校の社会のテスト上ではその通りでしょうが、地元の人同士でなされる会話の中にまで立ち入って、言葉の正誤を云々する問題ではありません。私はその実情は土地の人間ではないから知りませんが、もしそれが事実なら、それを、あなたの言語に対する熱い考え方を抜きにした上で淡々と書けばいいと申し上げたわけです。
それと「滝川」の例を挙げるあたりは、あなたの頓珍漢ぶりをよく示していると思います。関西人が「滝川」を「たきがわ」と呼んでいるとすればそれは明らかに誤読でしょう。滝川はそれほど知名度の高い地名ではありません。しかし洞爺という地名は「洞爺丸台風」という災害の知名度も加勢して、難読の割には全国レベルでもかなり知名度の高い地名だと思います。それを敢えて北海道の人が「どうや」と呼ぶからにはそれなりの事情もあるのでしょう。もし仮にこれが誤読に基づくものであっても、これが相当に普及しているのであれば、それなりに歴史もあるわけで、一筆の価値もあるでしょう。
> 「事実だ」というなら事実だという側が検証可能なソースを用意する必要があるでしょうね。
> 時折「どうやこ」と呼ばれることがあるが、これは誤りである。誤って記憶している北海道民やアナウンサーも多いため注意が必要である。
「どうや」の普及ぶりはご自身でおっしゃっているではありませんか。
> 「責任あるところが書いた文章(出版されてたり、公的機関のwebサイトだったり)のようなもので『「どうや」でもよい』根拠を出してほしい
私に言わないで下さいw。私は現地の事情は知らないと申し上げてます。ただ、言っておきたいのは、日本語は公文書のみによって定義されるものではないということです。
誤解されると困るので敢えて言っておきますが、「とうや」と「どうや」を並列させろと言っているわけではありません。「どうや」が根絶させられるべき誤用というあなたの言語観を持ち込んで欲しくないということです。Wikipediaはあなたひとりの考えを普及させる場ではないわけで、「~すべき」「~であるべき」という次元の話はそれこそご自身でウェブサイトでも立ち上げてその中でなさればいいのでは?--Lincun 2008年2月27日 (水) 10:51 (UTC)
Lincunさんこんにちは。Globizenです。こちらこそお付き合いいただいてありがとうございます。
まず私の記述に至らないところがありましたので最初にお詫びします
>> 時折「どうやこ」と呼ばれることがあるが、これは誤りである。誤って記憶している北海道民やアナウンサーも多いため注意が必要である。
>「どうや」の普及ぶりはご自身でおっしゃっているではありませんか。
たしかにうっかりしていました。「多い」というのは、単に「複数」という趣旨でした。誤解を招く舌足らずな記述で申し訳ありません。
過去にはテレビでアナウンサーや素人が間違えて画面で「とうやのことですね」と直されることも稀にありました(個人的な体験です)が、現状では、少なくともメディアと公文書では完全に絶滅、日常会話でも圧倒的な少数派(しかしときに頑固?)である(独自調査)という現状を表現できるつもりで記載しましたが、適切な表現に直すべきですね。ご指摘ありがとうございました。
それに伴い「普及ぶり」についても、ほぼ普及していないと理解してください。もし上記によってLincunさんの論旨が変わってしまうのでしたら誤解を招く表現のためにお手を煩わせた事をお詫び申し上げます。
それで、結論を最後のほうにお見受けしましたのでそちら受けて先にさせていただきます。
>「とうや」と「どうや」を並列させろと言っているわけではありません。
地元にお住まいでないともおっしゃってますし、「とうや」「どうや」の相互の関係を規定する個々の事実認定についてはご意見も争いもないと解釈しますね。
>「どうや」が根絶させられるべき誤用というあなたの言語観を持ち込んで欲しくないということです。
なるほど、
>>Wikipediaでできることは、そういう現地の習慣について事実を淡々と記述
>「事実だ」というなら事実だという側が検証可能なソースを用意する必要があるでしょうね。私はすでに一番上のほうで出しました。本文も淡々と記述しました。ノートにはなぜそう編集したかも書きました。それでよろしいですか?
覚えていらっしゃいますか?私は「本文は淡々と記述」したのでそれでよろしいか否か、と申しましたが、こちらへのお返事はいかがですか?おそらくそれでよろしくないから再度コメントされたのだと推測しますが。
「絶滅(ですね)さすべき」は私の考えではありますがそれをノートに記載したのはなぜ私がこれまでのような編集をしていたのかを理解していただく助けであるに過ぎません。状況が完全に一致はしませんが、あえて理解のために例えると、Lincunさんが「私は現地の事情はしらない」と表明されるのと同じレベルですね。
一方、本文には、検証可能な情報源とその演繹から「誤用」と導けるので「誤りだ」とは記載しましたが、「根絶」(「絶滅」ですね)させられるべきという、ノートに記載した私の考えに関しては、項目本文には全く持ち込んでいないと考えておりますし、そのように注意深く記述したつもりですが、どうでしょうか?
ということで、もしLincunさんが項目本文に事実(とそれから演繹される事柄)以外のことが書いてあったり淡々としていないと考えられましたら、どこがどうと「具体的」に示していただけますでしょうか?
かたや「どうや」に関しては「『どうや』でもよい」という趣旨の検証可能な事実をもってこられた方は一人としていませんね。それにあわせて「どうや」に限らず固有名詞を間違って読んでる人は気づいたときに直すのが前向きだろう、とはノートに限って記述しましたが、それはあくまでも「一般の利用者の目に触れない裏側」に過ぎません。
(そもそも、ノートは項目に関して複数の編集者が意思疎通してできれば共通の記載を考えるための場だと思いますが、このノート含むWikipedia一切からそのような記載は除去せらるべきですか?)
さて、それで、再掲ですが
>現地の習慣について事実を淡々と
>もしそれが事実なら、それを、あなたの言語に対する熱い考え方を抜きにした上で淡々と書けばいい
「『どうや』でもいいっしょ?」派が「自分が『どうや』と読んでいる(のがソース)」という個人的な経験を挙げる以外は、誰一人として検証できていないので、厳密には、もし争いがあれば「現地での習慣という事実が示せない」として「どうや」に関連した記述まるごと全部削除すべきでしょうね。しかしここでは「存在」には争いがあまりなく(聞いたことがない方がいらっしゃいましたが)、正誤のみ争いがありますね。
>それと「滝川」の例を挙げるあたりは、あなたの頓珍漢ぶり
最初に「多少状況は異なりますが例えて言うと」といっていることから、挙げたものより適切な例を思いつかないために、やむを得なかった事情は酌んでいただけますでしょうか?
「自分がそう読んでるからそう読んでも誤りではない(俺がソースだ)とねじ込むほうが傲慢」と、あるいはもう少し長く書くと「(個人的な体験や独自調査のような貧弱な論拠に基づいて)編集をして(誤りを誤りでないと固執して)(情報源を持ってきた人と)揉めるような事態になったと仮定したら、それこそ傲慢だと思いませんか」というのを示したかったのですが、伝わらなかったようでそれは残念です。状況が違うと最初に申してますし、Lincunさんが挙げられた内容ももちろん承知しております。適切といえない例を出してきたためにご理解いただけませんでしたら申し訳ありませんでした。
(ただ私は「洞爺丸台風」ももちろん知ってましたが、それに知名度があるというのはLincunさんの独自調査なのだろうと推測しますが、私の独自調査では年配の方以外にはあまりありません)
(難読にもかかわらず全国的に「とうや」と読まれている事情があって; Globizenによる要約)
>それを敢えて北海道の人が「どうや」と呼ぶからにはそれなりの事情もあるのでしょう。
Lincunさんは事情があると推測しておられるのですね。私の独自調査ですが「洞爺湖台風などで正しい読みがメディアで広まる前に(ラジオも十分ないころ?)道内各地で漢字表記に引きずられて誤読(洞の字を「どう」と読んじゃった)していた集団がいくつかあっていまも少数残っている」以外のことはありません。「誤用」は広まっていようが本来を駆逐しない限りはどこまでいっても「誤り」です。
>もし仮にこれが誤読に基づくものであっても
誤読そのものですね。
>これが相当に普及しているのであれば
「どうや」という誤読の「存在」は争いの余地はありませんが、「普及」していることまでは示されていません。
>それなりに歴史もあるわけで
「普及しているのであれば」「歴史もある」のであれば、普及していない以上「歴史」(経緯?)もありません。
また「漢字表記に引きずられた誤用」である限り、「トー・ヤ」と比較しての歴史は当然ありませんね。
>一筆の価値もあるでしょう。
「歴史もあるので一筆の価値もある」ということであれば、上記から歴史がない、したがって一筆の価値はないことになりますね。それでよろしいですね?
>私は現地の事情は知らないと申し上げてます。
驚きました。Lincunさんはご自分の文章を確認してコメントされてますか?Lincunさんの最初のご自身のコメントをよく読んでみてください。Lincunさんは最初のコメントには「現地の事情を知らない」とはどこにも「申し上げて」なくて、2回目のコメントの最初の段落に初めて「私はその実情は土地の人間ではないから知りません」と「申し上げ」たのですよね。(もしかして「現地での実情が事実だとしても」のことですか?それならそれでかなり強引ですし「申し上げて」いるとは到底言えませんね)まさか、私のコメントとLincunさんご自身のコメントと区別つかなくなったわけではないと信じていますが、私の個人的な意見ですが「Lincunさんはきちんと推敲してからコメントされてみては如何」と申し上げておきます。
(ちなみに頓珍漢という表現は、語源的には、自分が理解できない場合でなくて、まさにこういう場合に使うべき言葉ですので、辞書を引けるなら引いて「とんちんかん」の語源や意味や用例を一通り最後まで確認してから使う事をお勧めします。日本語にこだわりをお持ちのようですし「釈迦に説法」だったらすみませんが)
(・・・ひょっとして、自分の文章すらちゃんと読んでないから、私が事実のみ淡々と書いてある本文と別に改めてノートで立場表明しているその意味を区別できないのか?(反語ではなく疑問です))
>言っておきたいのは、日本語は公文書のみによって定義されるものではないということです。
言っておいて、ご満足いただけましたか?私には日本語についてLincunさんがそのようにお考えであるということは伝わりました。さてご満足いただいたところで、それでは質問ですが、Wikipediaに記載する内容は何を持って定義すべきですか?
はっきりしているのは「争いのある内容には検証可能な情報源が必要」だということです。『「どうや」が誤りだ』というのと『誤りでない』という争い(というほどでありませんね、いまのところ「対立する見解」くらいですか?)がある以上は、検証可能な情報源を持ってこないで個人的な体験や独自調査のみから編集することは控えるべきですね。
>公文書上や学校の社会のテスト上ではその通り
本来そういう内容こそWikipediaに記述するべきだということを理解されていますか?
>地元の人同士でなされる会話の中にまで立ち入って、言葉の正誤を云々する
もともと地元の人同士でなされる会話をもとに言葉の正誤を云々する(「地元でそう呼ぶ訛りのようなものだから間違いでない」趣旨)編集を最初にしたのはIPユーザ氏ですね。私は「地元の人がどう呼ぶかは個人的な体験あるいは独自調査に過ぎないし争いがある場合には個人的な体験や独自調査を正誤の基準にすべきでない」と一貫しています。
公文書やそのほか私の挙げた情報源は全て検証可能ですが、かたや「地元の人同士でなされる会話」や「訛りのようなもの」の事(個人的な体験や独自調査)は検証不能なのでいちいち記載すべきでないということは理解いただけますか?『「どうや」と読まれることがある』というのは私の独自調査で検証不能であり、記載されるべきでないかもしれませんが(頻度はさておき)おそらく事実として争いがないであろうと推定されたため記述しました。
もし、Lincumさんが日本語についてお考えがあるようでしたら、そのお考えはWikipediaフリー百科事典で表明するのではなくて、Wiktionaryのようなところに活動を移されてはいかがですか?
私は「誰もが編集できるが、明示されたガイドラインを遵守して記述すべき百科事典」の話をしていますが、それはご理解いただけていますか?
>Wikipediaはあなたひとりの考えを普及させる場ではないわけで、「~すべき」「~であるべき」という次元の話はそれこそご自身でウェブサイトでも立ち上げてその中でなさればいいのでは?
Wikipediaは間違いを収集して意見表明させる場ではありませんので、『「どうや」と呼ぶのも間違いでない(けど証明できない)』という方のほうが制約のないサイトをよそに確保して意見表明すべきでしょうね。(もし仮に証明できるなら、この項目を編集しなおすことで溜飲を下げることはできるでしょうが)
私はWikipediaのガイドラインに従い本文の記述を編集するだけです。私の考えや意見を書いてはみたものの、他の方に理解していただく必要は(本来的には)ありません。事実という認定(Wikipediaのガイドラインにおける範囲で)されたことのみいくつか集めてきて、対立する事柄は上手な記述をひねり出したら本文に淡々と記述していくだけです。それと同時に、事実でないとされていること(「どうや」も正しい)や、ガイドラインに反することは書かないほうがいいとも思いますし、度をこえた(と主観で判断した)ものは削除したほうがよいと思いますし、保護されてなければできる範囲で編集するでしょう。この項目に関して言えば、ガイドラインに従い(私の主義主張を一切含まず)文章を記述するように注意深く編集して、その結果「洞爺湖」の文章を目にした利用者が「どうや」と読み続ける人が増えるよりはおそらく減るだろうということを期待することは可能ではありますが、ガイドラインに従って記述する限り結果として期待通りに行かなくともそれはWikipediaの中では仕方ありません。もしそれ以上必要であればそのときおっしゃるとおりに別の場所を使うべきでしょう、しかしその必要はありません。
「どうや」に関して「とうやという正しい呼び名があるのに殊更違えて呼ぶ」行為は、せいぜい「多少広まった誤用のごり押し」にすぎません。誤りあるいは根拠薄弱な個人的な体験を本文において争いがあるにもかかわらず、それがさも正しいように記述するのはWikipediaに記述する姿勢としては少なくとも誠実でないですね。状況をひっくり返すのは簡単です。「どうや」と読むのに理由があることを検証可能な事実として示せばそれで結構だと何度も書いています。
もちろん、自称地元の方が一切承知で「これからも間違いだろうがなんだろうが「どうや」と読み続ける」とするのであればWikipediaとは関係のない話です。それはWikipediaに何を書いてもどうしようもありませんし調査のしようもありません。現状「どうや」と読んでいる人がどのくらいいるのかを証明できないのと同様に。そのように喧嘩別れした方は少なくともその項目に関して「Wikipediaを自分の気がすむように編集する」ということは控えるべきでしょう。
再掲になりますが、
>公文書上や学校の社会のテスト上ではその通り
本来こういう内容のみをWikipediaに記載するべきだということを理解されていますか?
ノート内で私が考えや立場を表明したからといって、本文の内容は偏ってはいません。検証可能な事実とそれから演繹できることのみ記載していますし、本来の正しい読みがあり、それに対して広まった誤用は誤用としてどちらも併記しています。
あと、Lincunさんがもし日本語をどうすべきかを主張するならそれこそよそでやっていただけばと存じます。
(どっちかというと読み書きの練習したほうがLincunさんの今後にとってはより有益と思いますが(個人的な考えです))
(私に反論できる余地は他にもたくさん残っていると自分では思いますが、誰も突いてきませんね。ドン引きの結果としても、それはそれである程度狙ってのことですので、ありがたいです)--Globizen 2008年2月29日 (金) 20:09 (UTC)

> たしかにうっかりしていました。「多い」というのは、単に「複数」という趣旨でした。誤解を招く舌足らずな記述で申し訳ありません。
「複数」というのも、2~3にとどまるのか、あるいはもっとあるのか、解釈に困る表現ですな。少なくとも「多い」わけではないわけで、「どうや」とはその程度の関わりしかないあなたが、その誤用云々を態々本文に書き足しているあたりは不自然な印象を受けます。
> それに伴い「普及ぶり」についても、ほぼ普及していないと理解してください。
このノートでは「どうや」を使うと言う人がいるわけで、なにもあなた一人の「独自研究」を唯々諾々と受け入れなければならない義理もありません。あくまで、私は「知らない」ということです。
> 本文も淡々と記述しました。
「複数」でしかないことを「多い」と威勢良く表現してしまうあたり、「淡々」としているようには思えないのですが。そもそも、あなたのおっしゃっていることが事実なら、その程度の認識で「どうや」について全く言及のしようもないと思いますが。
> 最初に「多少状況は異なりますが例えて言うと」といっている
申し訳ないが、「多少」ではなく「全く」状況が異なっています。類似する例が思いつかないからといっていい加減な例示が許されるわけではありません。
> (ただ私は「洞爺丸台風」ももちろん知ってましたが、それに知名度があるというのはLincunさんの独自調査なのだろうと推測しますが、私の独自調査では年配の方以外にはあまりありません)
洞爺丸台風は戦後最大級の被害をもたらした台風であり、日本人にとっては十分に一般常識に含まれるものだと思っていましたが、それを「独自調査」と言われてしまうとは意外です。
> 私の独自調査ですが「洞爺湖台風などで正しい読みがメディアで広まる前に(ラジオも十分ないころ?)道内各地で漢字表記に引きずられて誤読(洞の字を「どう」と読んじゃった)していた集団がいくつかあっていまも少数残っている」以外のことはありません。「誤用」は広まっていようが本来を駆逐しない限りはどこまでいっても「誤り」です。
あなたの「独自調査」をここで延々と披露されても、どうにもなりませんよw。この文章では、「誤用」もあなたの「説」でしかないことをご自分の口で証明されているだけです。
> 驚きました。Lincunさんはご自分の文章を確認してコメントされてますか?Lincunさんの最初のご自身のコメントをよく読んでみてください。Lincunさんは最初のコメントには「現地の事情を知らない」とはどこにも「申し上げて」なくて、2回目のコメントの最初の段落に初めて「私はその実情は土地の人間ではないから知りません」と「申し上げ」たのですよね。(もしかして「現地での実情が事実だとしても」のことですか?それならそれでかなり強引ですし「申し上げて」いるとは到底言えませんね)まさか、私のコメントとLincunさんご自身のコメントと区別つかなくなったわけではないと信じていますが、私の個人的な意見ですが「Lincunさんはきちんと推敲してからコメントされてみては如何」と申し上げておきます。
よく理解できない文章ですなw
現地の事情を知らないことについて1回目から言及することは、そんなに重要なことですか?w
態々取り上げていただいた「現地での実情が事実だとしても」のくだりで十分推定できることですが、何なんでしょうか。
あと、私を主語とする文章で括弧付きの謙譲語が使われていますが、どういう意図があるのでしょうか?ふざけてやっているとすれば、あなたはこういう程度の低い行為を自制できない人間ということになりますね。
> (ちなみに頓珍漢という表現は、語源的には、自分が理解できない場合でなくて、まさにこういう場合に使うべき言葉ですので、辞書を引けるなら引いて「とんちんかん」の語源や意味や用例を一通り最後まで確認してから使う事をお勧めします。日本語にこだわりをお持ちのようですし「釈迦に説法」だったらすみませんが)(・・・ひょっとして、自分の文章すらちゃんと読んでないから、私が事実のみ淡々と書いてある本文と別に改めてノートで立場表明しているその意味を区別できないのか?(反語ではなく疑問です))
客観的には仮にあなたが頓珍漢でないとしても、あなたのことをずれた人間だと思っている人間が「頓珍漢」という言葉を用いること自体には、文法的な誤りはないと思いますよ。自分が頓珍漢であることを否定したいなら、ほかにやることないですか?
> 言っておいて、ご満足いただけましたか?私には日本語についてLincunさんがそのようにお考えであるということは伝わりました。さてご満足いただいたところで、それでは質問ですが、Wikipediaに記載する内容は何を持って定義すべきですか?
Wikipediaに記載する内容を定義するってどういう意味ですか?
「日本語は公文書のみによって定義されるものではない」と主張することとそれがどう繋がっているのか分からないのですが。
>> 公文書上や学校の社会のテスト上ではその通り
> 本来そういう内容こそWikipediaに記述するべきだということを理解されていますか?
> 本来こういう内容のみをWikipediaに記載するべきだということを理解されていますか?
私の同じ発言をわざわざ2回も引用していただいていますが、それへのあなたのお答えが違っています。どっちが正しいのでしょうか。
またそれらは、Wikipediaの編集の手引きのどこに書いてあるのでしょうか?
> もともと地元の人同士でなされる会話をもとに言葉の正誤を云々する(「地元でそう呼ぶ訛りのようなものだから間違いでない」趣旨)編集を最初にしたのはIPユーザ氏ですね。私は「地元の人がどう呼ぶかは個人的な体験あるいは独自調査に過ぎないし争いがある場合には個人的な体験や独自調査を正誤の基準にすべきでない」と一貫しています。
方向性は全く逆ですが、個人的な体験や独自調査を正誤の基準としている点では、あなたも件のIPユーザ氏も同じではないですか。
> もし、Lincumさんが日本語についてお考えがあるようでしたら、そのお考えはWikipediaフリー百科事典で表明するのではなくて、Wiktionaryのようなところに活動を移されてはいかがですか?
Wikipediaの議論において日本語に対する考え方を披瀝することは不要という意味ですか?Wikipediaでは日常茶飯事のことだと思うのですが。
> 私はWikipediaのガイドラインに従い本文の記述を編集するだけです。私の考えや意見を書いてはみたものの、他の方に理解していただく必要は(本来的には)ありません。
他人に理解させる必要がないことを公衆に晒すなどとは、さぞ不思議な行為ですな。それこそチラシの裏で十分じゃないですか。
> ノート内で私が考えや立場を表明したからといって、本文の内容は偏ってはいません。
自分の主義主張が偏っているなんて考えている人はいませんよ。しかしそれを一生懸命口にしているあたりがあなたの限界なんでしょうな。
> (私に反論できる余地は他にもたくさん残っていると自分では思いますが、誰も突いてきませんね。ドン引きの結果としても、それはそれである程度狙ってのことですので、ありがたいです)
不用な軋轢を生じることを自覚してこのようなことを続けているのなら、これは問題ですよ。
どういうつもりでこういう尋常でない量の文章を投稿しているのでしょうか。しかも、およそ同じ内容の主張を繰り返しで、実質的な内容が希薄な上に、きちんと相手のスタンスもきちんと理解できていない。
以後は、よく相手の文章を読んで内容を理解した上で、よく相手に理解をしてもらえるような簡潔な文章でお願いします。--Lincun 2008年3月1日 (土) 10:27 (UTC)

(インデント戻します)横からスイマセン。率直に申し上げて、Globizenさんがいまいち何をしたいのかが分からないのですが…。文面を見る限り、日本語にこだわりのある方とお見受けいたしましたが、残念ながら、他人に意思を明確に伝えるという意味では失敗しているように思えます(なにやら最後の方は言葉尻をとるような話ばかりですし)。それとも、私が単にGlobizenさんがいうところの「ドン引き」しているだけなのかもしれませんが(もしそれを狙ってやっているののなら、甚だ不毛な行為であると感じます)。

さて、話を本題に戻しましょう。確か、読み方の表記の問題だったはずですよね。

時折「どうやこ」と呼ばれることがあるが、これは誤りである。誤って記憶している北海道民やアナウンサーも多いため注意が必要である。なお、公的機関や著名な企業の名称の「洞爺」はすべて「とうや」と読まれる。

のところかと思います。基本的には現時点で出典が確認できる事実を淡々と書くしかないのでしょうから、おそらく変えるとすれば

時折、「うや」と呼ばれることがあるが、国土地理院の地形図や、行政機関においては、すべて「とうや」と呼んでおり、語源となったアイヌ語の「トー・ヤ」の発音により近いのも「とうや」である。

というぐらいでしょうか。他に、主観的な感情・言語観を入れる余地はないと思いますし、「誤って記憶している北海道民やアナウンサー」も、具体的な出典に苦しむでしょう。個人的には、この記述で、「どうや」の問題も含めて、十分だと思うのですが。どうでしょう?--60.38.91.231 2008年3月1日 (土) 16:51 (UTC)


Globizenさんお疲れ様です、『編集合戦』したいんですか?他人に不快感を与える様な発言が多いんですが 「どうや」は駆逐すべき…って極端ですね あなたの話を全て受け入れると『方言・通称=すべて間違い=辞書を見ても標準語しか載ってない』 Wikipediaが薄っぺらな役に立たない物になってしまいますよ あなたの理屈で話を飛躍させるとアイヌ語の「トー・ヤ」が最初の語源なのだから「とうや」すら間違いですよ。 特に自分はもう編集しないつもりですが今回は良かったんじゃないんですか話し合う場が持てて [211.126.194.197]

211.126.194.197さんはIPユーザの方ですがこの211.126.194.197さんが前に編集された211.126.194.197さんと同一人物とみなしてお返事させていただきます。私もお話できてうれしいです。
>『編集合戦』したいんですか?
一番最初に「したくない」と書いてあるので、ご覧いただいてなければ最初にご覧いただけばと思います。
>他人に不快感を与える様な発言が多いんですが
他人というより、211.126.194.197さんご自身のことならそう感じられる可能性はあるでしょうね。いきなり「他人」と複数のように書くのは主観が入っていますね。自分のことなら「私は不快に思った」と書くほうがよいと思いますが?
>「どうや」は駆逐すべき…って極端ですね
「駆逐」ではなく「絶滅さすべき」とは書きましたが、それは私の考えを理解していただく助けになればと思い記載しました。誰でも地元の地名はあまねく正しく読んでほしいと思って自然だと思いますが。なお、項目の本文にはそういう私の考えそのものは記載していません。
>あなたの話を全て受け入れると
私の話を全て受け入れていただく必要がそもそもありませんし、もしほんとうに受け入れていただいたなら、下記とは違う結論になるはずですが。
>『方言・通称=すべて間違い=辞書を見ても標準語しか載ってない』Wikipediaが薄っぺらな役に立たない物になってしまいますよ
私の考えを読んで受け入れていただけてないと思いますがどうでしょうか?もし普通に読んで受け入れていただけたなら「両者併記でかつそのうち一方(=どうや)は誤りとしておくべき」「他項目は程度によりいろいろ」、と読めると思いますが、どこから「標準語しか載せない」と解釈されたのか過程を教えていただけば幸いです。
確かに、標準語以外を本文中から駆逐したら、項目数や全体の文字数は減ると思いますので、それを「薄っぺら」といえるとおっしゃるならそうだとは思いますが、誰かがそう書いたのですか?(反語です)
またWikipediaが運営方針として「標準語に限る」と決めたとしても(ありえませんが)役に立つものであることに変わりはないと思います。(付き合いすぎましたね)
>あなたの理屈で話を飛躍させると
飛躍した内容の話をしていませんので飛躍する必要はないと思いますよ。
>アイヌ語の「トー・ヤ」が最初の語源なのだから「とうや」すら間違いですよ。
確かに飛躍してますね。意味難しいのでわかりやすく書いていただけばと思いますが、おそらく「そもそもの語源のアイヌ語に戻すべきだというなら」という趣旨と解釈しましたが、そうだとすると確かに飛躍(しすぎ)ですね。「公式名称があるものでも先住者に敬意を表してできるだけアイヌ語に近づけよう」として「つきさっぷ」とか呼ぶようにしたい、ということなら多少は理解できますし、それなら「とうや」と「どうや」でも「とうや」のほうが近いですよね。でもそれが根拠だとは誰も言っていませんし、おっしゃるような飛躍もしません。したがって「とうや」は間違いではありません。さらに、これらのことと「『どうや』が広まった誤用である」こととは何の関係もありません。
(事実とは異なりますが仮に「うや」のほうが正式名称でかつ支配的だ、と仮定すればそのときには「うや」はアイヌ語に近い読みが残ったものが未だ一部で使われている、という形でなら記載できるでしょう。しかし事実はそうではなく、「どうや」は(漢字表記に引きずられた?)誤用が多少広まったもの、に過ぎません)
私Globizenは、211.126.194.197さんが「文章に書かれてない事まで思い込みで一人相撲とっているようだ」と判断しました。(もちろん他の人がどう感じるかはわかりません。)
>特に自分はもう編集しないつもりですが今回は良かったんじゃないんですか話し合う場が持てて
項目本文に「『どうや』とも読まれているが誤りだ」と最初に加えたのは私Globizenですが、それを「『どうや』とも読んでいるので誤りでない」という趣旨の編集されたと思われるIPユーザご本人から、検証がないままでも「もう編集しないつもり」と書いていただけたのはひとまず有益でした。ありがとうございました。
余裕があったら、「北海道内の方言のようなもの」「地元でどちらも使用されている」について最初に上のほうで示した疑問を確認させていただければと思いましたが、いまとなっては別に要らないです。
現状のような「話し合う場」はあっても、私の求めている「検証可能な反論」をさっさと出してもらって「話し合い」になればいいのですが、極端とか飛躍とか受け入れるとかなんとか、建設的でなくて時間やエネルギーの無駄そのものです。
(Wikipediaの項目を地元に関係するものはできるだけ正確な内容にしておきたいと思うからこんな無駄にも耐えられますね)
結局、上に書いておられるどなたも一人として検証可能な情報源を出さない以上は「『個人的な体験』をこえるレベルの『うや』はなかった」という結論になりそうではありますね。--Globizen 2008年2月27日 (水) 05:30 (UTC)

211.126.194.197です 北海道立文書館より返答が来たので書き込みします。 「どうや」と言う読み方は古くから使われており館内にある古い書物等で使われているケースもあり「間違い」とはこちらでは言えません、正確に○×付けろと言われますと現状誰もわかる人は例え言語学者でも居ないでしょうとのことです。 Globizenさんあなたは言語学者なのですか? あなたこそ読んだり聴いたりしただけの話ばかり並び立てているじゃないですか なぜあなたがその事で間違いと判断できるんですか? 自分は間違いとも正解とも判断は出来ません ただ現状、どちらも問題なく使用されている事がWikipediaの項目として記載されるべき正確な内容なのではないでしょうか。 [211.126.194.197 2008年3月4日(火)]

はるひです。北海道立文書館にお問い合わせになったのですね。回答は、私たち第三者が直接確認できる(公開は可能とする了解は取られている)でしょうか。また、古くに使用されていた例は回答の中に挙げられていましたでしょうか。もしあれば、差し支えない範囲でご提示いただけないでしょうか。とても興味深いことだと思います。今議論の主題となっている正誤論争とは別に、「どうや」なる読み方が使用されている事例と時期を示す貴重な資料になりますから、その事実は特筆に価するでしょう。
さて、議論ヒートアップの様相を呈してきているようですので、ここでひとつ提案させてください。「正しい」「間違い」という評価はここではいったんおいておき、行政文書等で定められた呼称が「とうや」であるということ、地元では「どうや」でも通じるということ、名称由来はアイヌ語の「トー・ヤ」であること、を淡々と記述すればよいと思います。そうした判断材料を提示することまでは百科事典の役割として、「正誤」を判断するのは(使用場面などで「正誤」のものさしはちがってくるかもしれません)読者にゆだねられていると私は思います。--はるひ 2008年3月4日 (火) 03:42 (UTC)
北海道立文書館の件が事実なら、IP氏には断筆宣言を撤回して貰って、「どうや」について本文への執筆を是非ともお願いしたいです。-Lincun 2008年3月4日 (火) 13:52 (UTC)

外部リンクについて

IPユーザからたまにリンク洞爺湖観光情報の追加が行われており、先日同一IPから同一ドメイン(expand.biz)のサイトが複数の項目に追加されるなど、宣伝を疑ったのですが、作成者ご本人と思われる編集(コメントへの追加)がありました。

コメント[1]から転記

> 私たちは、協議会と言いまして、地方の法人会、商工会でつくる有志です。非公式団体ですが、現在道内には、5支部あります。目的は、もちろんお互いの地域振興とイベント活動のお手伝いです。コメントアウトされた方、ご理解とご協力をお願いし、コメントをはずして下さるようお願いします。趣旨にふさわしくないならば、このままでも結構です。

私Globizen自身は現在この項目に多少執着していますが、別に管理者やなんかの役付ではありませんし、保護依頼も何もしてませんので、私が協議会(以下「協議会」)さんの編集内容にご理解ご協力する義理はありません。

また、私一人が理解や協力してなくても、保護や半保護されたページでない限り、IPユーザ含めてどなたでもWikipediaは好きなように編集できますので、「協議会」の方が好きなように編集すればよいと思います。

趣旨にふさわしいかどうかはWikipediaのいろんなページ(Wikipedia:ウィキペディアは何でないかなど)読んで、ご自身で判断されて、ふさわしいと思えばご自身でコメント解除すればよいし、ふさわしくなければご自身でコメントのままにする(あるいは消してしまう)のがよいと思います。

「少なくともGlobizenという人一人が、当該リンクをWikipediaにおいておくべきでないだろうと考えてときどき編集している」というだけのことです。場の総意に逆らっているのでないかとか、あまり大ごとに考える必要はありませんが、「ふさわしくない」と考える人がいる限り、何度書いても次の編集で消されるでしょう。

もちろん必要のない誤解が元で編集合戦になることは無駄なことでできるだけ避けたいと思いますので、もし協議会(以下「協議会」)というのを代表するご本人からの書き込みということであれば、私からは以下を要望します。

  • 以後の話し合いはノートでお願いします。私がコメント使ったのは、Wikipediaの仕組みをよくわからない方がノートを見ないで編集する事を避けたほうがよいかと思って貼っておきましたが、流儀に従ったノートの書き方はいろんな場所で目にできると思いますので参考にしてください。
  • Wikipediaのアカウントを作って活動されるほうがよいと思います。「協議会」というのが本質的には私的な集いであるにせよ「協議会の活動」あるいは「協議会の構成員」として編集されるのでしたら。個人的な立場で活動されるのでしたら必ずしも必要はありませんが、IPユーザが無益な編集してると思われたらあっけなく消されるのが普通です。前の編集や他項目の編集と同一人かどうかもわかりませんし。
  • 「誰がどのような目的で作ったページか」を明確に(リンク先洞爺湖観光情報自体を編集)したほうがよいと思います。現状では、リンク先の内容は企業の宣伝を有料で載せておいていろんな場所にリンクを貼り付けて小遣い稼ぎをするページと違いがありませんし「誰が作ったページか」ということすら普通にさぐる限りたどり着けませんので。なお、もし本当にボランティア活動であれば、リンク先ページ(あるいはWikipediaのアカウントを作ったなら自分の利用者ページ)にそのことを記載しておくと、リンクを削ろうという人は減ると思います。

私自身は現状リンク先のページ「洞爺湖観光情報」は追加するよりは、いまのままなら追加されないほうがよいと考えていますので、私自身はコメントははずしません。

「Wikipediaの趣旨(Wikipedia:ウィキペディアは何でないか)に沿っているか少なくとも損なわない」「誰が作ったページかはっきりわかる」「企業活動の宣伝や売名のみが目的ではない」「リンク張るほうがWikipedia利用者に有益と思う」ページになった、と判断されたら、そのときご自身でコメントはずすということでいかがでしょうか?

繰り返しになりますが、(編集合戦を厭わないのであれば)誰でも好きなように編集できますので。

(もちろんネットの中であれ現実社会であれ、場の流儀に合わない振る舞いは、その人自身(「協議会」)、あるいはその人が応援しているもの(「洞爺湖観光情報」サイト)が反感を買う結果となりますので注意が必要と思います)--Globizen 2008年2月25日 (月) 04:09 (UTC)]]

Globizenさま承知しました。ノートなどの使い方など知らずに利用しておりました。
申し訳ございません。Globizenさまのご意見を尊重し追加しないことにいたしました。
法人会、商工会メンバーですので、企業の広告・宣伝等、これからも増えるとのことで
やはり入ってしまいます。
このたびは、誠に申し訳ございませんでした。また、申し訳ないのですが、
協議会名は、非公式団体でありふせなくてはならなかったので文中より削除させてもらいました。協議会代表
協議会代表様からお返事いただいて私も内容について理解しましたので、テンプレート片方はずしておきます。
また私Globizenあるいは他のWikipedia利用者に申し訳ない事をしたというわけではありませんので、代表様が申し訳なく思う必要はないと思います(多分)。
貼られたリンクも広告から利益を得るための営業に継げるつもりなら削除するのが本来と思いますが、私企業のページでも利用者にとって便利で有益と思えばリンク張るほうがよいと思います。リンク先の広告などを一切排除しなければならない、というわけではなくてWikipediaにふさわしくないと思うか、または疑問(はってよいかどうか)が解決できないのであれば闇雲に貼らないほうがよいのでないかと思いましたが、貼った方がいろいろ考えてやっぱりはがすというのでしたらそれもひとつの考えと思います。私は百科事典としてのWikipediaの趣旨にはふさわしくないだろうとは考えましたが、リンク貼った貼らないで何らかの利害があるわけでありませんので。
あと、名前がばれて困るならネットの中でははじめから目に付く場所に出たり足跡つく行為をしないほうが今後のためにはよいと思います。(「文中より削除」は了解しましたが、私から殊更手はいれません)
協議会様の活動にこの場所(Wikipedia)がふさわしいかはさておき、適切な場での活動そのものは言うまでもなく応援したいと思います。ご発展を祈念いたします。--Globizen 2008年2月25日 (月) 16:34 (UTC)

読み方問題の決着について

Globizenさんが提起していった読み方問題ですが、3月に入ってからGlobizenさんが活動を停止していることもあり、もう3ヶ月以上進展がありません。個人的に見るに、今の記事の読み方についての記述は、今のところ検証不可能な情報が多いので、

「どうや」と呼ばれることもあるが、国土地理院の地形図や、行政機関においては、すべて「とうや」と読まれている。

というあたりで、落ち着けて、冒頭のテンプレートもはがしたいのですが。--60.39.224.25 2008年7月15日 (火) 16:07 (UTC)

その文章だとちょっとくどい気がするので、「地元では「どうや」と呼ばれることがある。」程度でいいんじゃないでしょうか。上のちゃたまさんの発言が正しければ、「北海道では…」でもいいかも知れません。--Lincun 2008年7月17日 (木) 12:20 (UTC)
提起から2週間以上経ち、Lincunさん以外に特にご意見がありませんでしたので、そのご意見を参考に編集しました。--60.39.224.25 2008年8月3日 (日) 14:33 (UTC)

もう既に結論が出ていることですが、20年近く(と言っても高校卒業までということ)北海道に住んでいた者として、少しだけ感想を書いておきます。(ノートだから、感想も良いんですよね? マズいのかなあ) 現在の状態に異を唱える内容ではありません。

意見のやりとりの中に、北海道の広さに対しての認識が少し欠けていたように思えます。

どうも、地元では「うや」という読み方もあるのに、それが公的な場面では使われていないというだけでウィキにそれを載せないのは…、という論旨のかたもいらしたみたいです。

しかし、地元のかたで、自分や自分の周りでも「うや」と言っている、という発言は、結局無かったんですよね。もしかして読み落としていたらごめんなさい。

ノートの最初のほうに出てくるちゃたまさんは「自分は北海道東部の住人」と発言なさっています。もしかして、地理的なことにあまり関心が無いかたのために付け加えておくと、北海道の東部(と言っても実に広いわけですが)と洞爺湖とでは、東京都と静岡県西部~大阪府くらいに離れています。

いくら都道府県の区分けで同じ北海道に属するからと言って、このくらい距離が離れている場所を「地元」とは言わないだろうというのは、特に論証が必要なことではないと思います。

(ちゃたまさんも、別に「地元では…」という意図で発言されたのではないとは思います。そのあと発言なさっていないようなので、断定は出来ませんが)

洞爺湖の読み方で、もし地元ではどうなのかという検証をするなら、まず「洞爺湖の地元」とはそもそもどのあたりなのかということを、もう少し限定して判断すれば、この議論は早く解決したのではないかと考えます。

私見ですが、洞爺湖の地元と言えば、伊達市と室蘭市、広く見積もっても、それに長万部町と苫小牧市を含むくらいではないかと思います。千歳や札幌・小樽だと、もうかなり違う(単純に言って遠いんですよ)ような気もします。それでも、区分としては同じ「道央」なんですが…。--氷室浩次 2008年9月5日 (金) 05:01 (UTC)