ノート:氷川神社

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男体社・女体社・簸王子社について[編集]

しばしば誤解があるようですが、かつて大宮氷川神社境内にあった女体社と三室の氷川女体神社、同じく簸王子社と中川の中山神社(旧・中氷川神社)は別のものです。
大宮・三室・中川の三氷川を一体と見るのはあくまで一つの説であって、定説というわけではありません。

参考:大和田便り:氷川神社と大宮宿を歩く
こちらの地図も参考に。

因みに、大宮氷川神社にあった女体社の神主は東角井家で、現在の氷川神社の宮司でもあります。かつての三室の氷川女体神社の神主は武笠家(後に佐伯を称する)でした(現在は本太氷川神社の兼務社)。:妙翅鳥 2007年4月13日 (金) 13:00 (UTC)[返信]

歴史の項の記述について[編集]

石垣さんが差し戻した記述に関して、合意が形成されなければ編集してはならないというルールがあるとは知りませんでしたが、問題の箇所を削除した理由に納得できないようですので説明しておきます。
まず、一宮制度と延喜式神名帳はまったく無関係です。延喜式神名帳に一宮、二宮などということは一切書かれていません。小野神社を一宮、二宮神社(旧称小河明神、式外社=延喜式神名帳に記載されていない)を二宮、氷川神社を三宮とするのは『神道集』の記述、及び大国魂神社の祭神によります。これは常識の範疇です。
律令時代云々ということに関して、現在では、一宮制度はむしろ律令制度が崩れていく過程で成立したという説が有力になりつつあります。武蔵国において、小社の小野神社が名神大社の氷川神社・金鑚神社を抑えて一宮になったことも、その傍証となります。よって、敢えて「律令時代」と書く必要はありません。
「戦国時代になると、一宮として並存すようになり、やがて武蔵国の一宮となった」については、ある時期に「併存」していたという根拠がありません。入れ替わったとするのが妥当でしょう。敢えて併存というなら、ある意味では現在でも併存している状態ですから「やがて」以降の文言が不適切になります。
氷川女體神社に関して、古くは氷川神社と一体の存在であったという説はありますが(定説ではない)、氷川神社から分かれたという説はどこにもありません。もともと氷川女體神社は「女体宮」「女体権現」と称し、文献上「氷川」の名で呼ばれるのは徳川家康による寄進状に「簸河明神」とあるのが初見とされます。これ以降、氷川(簸河)の名を称するようになり、江戸時代には元々氷川神社と一体であったとの解釈から「武蔵一宮」を称するようになりますが(1667年の棟板に武蔵一宮簸河女体大明神とある)、簡単には断定できない微妙な問題を含みますから、敢えてここで誤解を生じるような文章を含める必要はないと考えます。むしろ書くなら、氷川女体神社の項で説明したほうが適切でしょう。
「大宮」の地名の由来はその通りですが、以上の不適切な文言を削ると文章の流れに合わなくなります。概要の説明に含めればよいのではないでしょうか。
以上の理由で当該箇所を削除するのに特に問題はなく、むしろ延喜式云々などの部分は即削除すべき明白な間違いであると考えます。
以上に加え、「倭奴国王印が」以降の文言については、もともと「社伝(=神社の伝承。史実ではない)によれば」と断っているのですから、敢えて無粋な説明を加える必要はないでしょう。--妙翅鳥 2008年6月9日 (月) 13:14 (UTC)[返信]

妙翅鳥さん、詳細な説明をありがとうございました。私のような素人でも納得できる文章で感銘しました。私は、管理者ではありませんが、Wikipedia百科事典の特徴について解説させていただきます。Wikipedia百科事典は、色々な人(地理、歴史、法律、工学、医療、福祉など各方面の専門性を持った人やそうでない一般人→但し、分野によってはみんな素人ですが)が参加することでつくられていく部分が他の電子百科事典との大きな違いです。もちろんこの中には参加者の思想や主観なども含まれる場合もあります。そんな中で、記事投稿をするには、合意形成が重要です。参加者同士が不明確な部分や最適な情報(文言)を共有しながら最良な記事を充実させていくのです。妙翅鳥さんの意見で、「倭奴国王印が」以降の文言については、もともと「社伝(=神社の伝承。史実ではない)によれば」と断っているのですから、敢えて無粋な説明を加える必要はないでしょう」という文言がありますが、それは、専門家の意見です。その語句が付け加えられたのは、もしかするとその記事や分野について詳しくない人が勘違いしないように、あえて文言を加えたのかも知れません。つまり、Wikipedia百科事典は、一方的な専門的知識でつくられるのではなく、あえて誰が見ても理解できる・検証が可能な記事をつくることも大切なのだと思います。以上のことをご理解頂ければ幸いです。では、失礼します。--石垣 2008年6月10日 (火) 13:36 (UTC)[返信]


別件なのですが、妙翅鳥さんの方で何か知っている事項がありましたら教えてほしいのですが(と申しますか元々、この情報を知りたくて、氷川神社の記事を参照しにきたのですが)。

以前、友人から現在の氷川神社は、鷲宮神社から分岐したのが起源だと聞いたのですが本当なのでしょうか?何か知っている情報がありましたら教えてください。よろしくお願いします。--石垣 2008年6月10日 (火) 13:50 (UTC)[返信]

氷川神社鷲宮神社からの分祀であるというのは、少なくとも権威ある筋からは聞いたことがありません。鷲宮神社においても、そういう主張はしていないと思います。ただ、俗説としてはあるかもしれませんし、何を根拠としているかも何となく見当がつきますので、以下、私なりに推測してみます。
鷲宮神社は、社伝では神代の創建とされ、「関東最古の大社」を称しています。祭神は出雲国造らの祖である天穂日命武夷鳥命の父子と大己貴命であり、出雲系です。氷川神社は、社伝では孝昭天皇3年(B.C.473)に杵築大社(出雲大社)から勧請したとされ、やはり出雲系の素盞嗚尊稲田姫命・大己貴命を祀ります。
武蔵国の古社には出雲系が多く、古い時代に出雲系の人々が移住・開拓したと考えられます。その中で、鷲宮神社では、神代に出雲族の祖である天穂日命・武夷鳥命が27の氏族を引き連れて来住し、大己貴命を祀ったことに始まるとされます。そこで「関東最古の大社」を称するわけですが、その立場からすれば、鷲宮神社こそ武蔵をはじめとする関東の出雲族の発祥とする考え方も可能です。そのあたりから想像がふくらみ、氷川神社も鷲宮神社から分祀されたという説が生じた可能性が考えられます。
一方、氷川神社の文献上の初出は奈良時代、鷲宮神社は鎌倉時代の初めです。鷲宮神社の境内には縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡がありますし、文献に登場した時点ですでに有力な神社として崇敬されていますから、神社の歴史が古く遡ることは間違いありません。しかし、氷川神社より古いという客観的な根拠はありません。
因みに、私自身は、氷川神社と鷲宮神社は別系統だろうと考えています。
鷲宮の名称は「土師の宮(はじのみや)」に由来するという説があります。古代、鷲宮神社周辺には土師部が居住していたと考えられていますが、土師部を統括していた土師氏は出雲国造などと同族で、天穂日命・武夷鳥命を祖とします。当地の土師部が、中央の土師氏の配下に入る過程で、土師氏の祖神を祀るようになったと考えるのが妥当ではないでしょうか(社伝が後世の事情を反映していることは珍しくありません)。
歴史的事実は確認できないにせよ、氷川神社は出雲国造と同族の武蔵国造によって奉斎され、社伝では出雲大社からの勧請とされています。また、社号も出雲の簸川に由来するとされていますから(出雲大社は旧簸川郡にある)、出雲大社の分祀であると考えるのが自然で、鷲宮神社からとするのは難しいと思います。--妙翅鳥 2008年6月11日 (水) 12:51 (UTC)[返信]

妙翅鳥さん、早速の情報提供ありがとうございました。参考になります。また、何か宗教関係でわからないことがありましたら教えてください。--石垣 2008年6月11日 (水) 15:15 (UTC)[返信]

“中世まで氷川神社を「一宮」とする資料は見つかっていない。”という記載の後、“室町時代後半に編纂されたと思われる『大日本国一宮記』は”という記載があり、室町時代は中世だろって気分になるので編集者の人誰か直してください。(○○までは普通○○も含むので)

各地の氷川神社の分割提案[編集]

「各地の氷川神社」を、「氷川神社 (曖昧さ回避)」に分割したらいかがでしょうか。 本記事では大宮の総本社を中心にして、各地の神社は別記事にしたほうが検索し易く、且つ、他神社の同名神社の扱いも同様な流れです。 --ヒロ 2008年7月26日 (土) 10:13 (UTC)[返信]

「歴史」節についての提案[編集]

現在、「歴史」節に次のような記載があります。

平安時代前期に成立したと考えられる史書『先代旧事本紀』(第10巻「国造本紀」)によれば、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。」

これは2010年1月10日 (日) 09:01(UTC)の編集116.80.86.60さんが追加された部分です。しかし実際には、「国造本紀」にそのような記載は存在しません。よってこの部分を除去することを提案します。

1週間待って異論がなければ、編集を実行したいと思います。--61.125.219.213 2018年6月23日 (土) 21:24 (UTC)[返信]

1週間経過しましたがご意見がないので、編集を実行したいと思います。--61.125.219.213 2018年7月1日 (日) 23:47 (UTC)[返信]
完了しました。なお、完全除去ではなく出典を付して編集という形をとりました。--61.125.219.213 2018年7月1日 (日) 23:51 (UTC)[返信]