ノート:栄子姫

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この人物の出自に関する疑義[編集]

 栄子姫の実在性に関して、そういう正室が居た可能性を否定出来ません。ですが、記事にあるような本多忠高の娘、もしくは本多平八郎家であることはまずありえないと思われます。

 それは何故か、まず基本的な問題としては彼女の父親として扱っている本多忠高はかなり若く戦死していることにあります。諸説ありますが天文18年(1549年)に20代で亡くなっています。となると本多忠高の娘として生まれるのは遅くとも天文19年(1550年)になります。長束正家は慶長五年(1600年)に享年39に亡くなっているので永禄5年(1662年)であると思われるとして対応すると12歳年上の妻になってしまいます。当時の武家の習俗を考えても非常に考え難い上に、栄子姫の逸話である子を宿していたという逸話も忠高の娘であると仮定してしまうと50代では考え難いという結論に至ります。

 二つ目の問題としては徳川家家臣の中でも上位にある本多平八郎家の娘を正室にしたとしては長束正家に徳川氏との連携が認められない事です。関ヶ原合戦においてあまりにも長束正家は西軍の中心に入り込み過ぎています。徳川の血縁ではない増田長盛や前田玄以が東軍に対して書状を送っていたような事をせずに徳川氏を中心とした東軍に堂々と敵対しています。それは本多忠勝の義弟という立場が有ったとするならば、不可解な行動と言えましょう。

 まだ問題はありますが、私が気になる点は主にこの二つです。

 たしかに寛政重修諸家譜を見ると一人どこへ嫁いだのかが不明瞭が妹が居ますが、年齢差を考えるとあり得ないと断言せざるを得ないでしょう。長束正家も関ヶ原合戦時に長子が城に居なかった事を考えると関ヶ原合戦時に子を宿した姫は正室であったかも考察が必要でしょう。--Wizardred会話2023年10月11日 (水) 12:18 (UTC)[返信]