ノート:栃尾駅

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旧駅舎についての疑問[編集]

前置きとしまして、そもそもバス営業所の建物は近年(Google Earthと個人ホームページの画像によれば、2017年から2019年の間)完全に建て替えられてしまったので見出し画像や記述を抜本的に見直すべきなのですが、使えそうな出典が見当たらないため手を付けていません。

本題は旧駅舎が(先代)バス営業所として転用されたとする記述です。以前にも越後交通栃尾線で要出典扱いとしましたが、こちらの記事を編集するのを失念しており、あらためて要出典タグを貼付しました。同説はかねてから鉄道愛好者のホームページなどでしばしば目にしておりますが、決定的な証拠が欠けているように思います。牛ヶ嶺隧道を牛ヶ隧道とした鉄道趣味誌での誤植が生き残ったと考えられるケースを発見しており、同様に何らかの誤認が伝えられている可能性があります。

判りやすいところで反証を挙げると、現役当時の国土地理院航空写真(1967年9月1972年6月など)で、やや不鮮明ながら正面道路に平行した駅舎が確認できます (ちなみにこの駅舎らしき建物が写った地上からの写真も見たことがありますが、撮影位置が写真からは特定できませんでした)。

1975年11月の写真にて先代の営業所建物およびバス乗り場が鮮明に確認でき、営業所と旧駅舎の向きが90度異なっていることが一目瞭然です。

1973年の廃止直前に駅舎が建て替えられて移動した可能性は否定できませんが、越後交通社史にそのような記述は発見できていません。バス営業所部は旧ホームの南北方向ほぼ中央に位置することが確認できますが、無料公開されている航空写真にて現役当時の状況を確認することは困難です。

適切な出典が見当たらないため本文記述は手を加えていませんが、以上の通り、疑念を提起いたします。なお、上述の航空写真を重ね合わせたところ、ホームと現バス乗り場はほぼ一致しているようです。ホームが実際に転用されたのか不明瞭のため、こちらも要出典扱いといたしました。--Iso8.tv会話2022年8月17日 (水) 19:53 (UTC)[返信]

  • 追記
個人サイトですが、http://tsushima-keibendo.a.la9.jp/echigo/tochio1.html に判りやすい写真がありました。写真⑥、1972年当時の駅舎背面がはっきり写っています。左側、モハ211停車中のホームがバス乗り場に近い位置と思われます。駅舎や右側の低いホームは1975年時点の航空写真で影も形もありません。写真⑧、見附方からの撮影。先端側のホーム屋根付近が後の営業所建物位置となりますが、転用可能な構造物は少なくともこの時点では見当たりません。--Iso8.tv会話2022年8月17日 (水) 20:51 (UTC)[返信]
堀淳一「栃鉄の廃線跡を悼む」『地図から旅へ』毎日新聞社、1975年によると「昭和四十八年の真夏」(154ページ)の時点で「もとの電車の待合室がそのままバスの待合室として使われている」(157ページ)とあり、鉄道自体の建物とバス化以降の建物に関連があったのは事実だと思います。このあと堀さんは駅構内を散策するのですが、この時点で「かつてのホームがバス乗り場となっている」ようには読めません。かつてのホームがバス乗り場、が事実だとしても、廃止時点からそうだったわけではないと思います。
ただ廃止後にいつ、どのように施設が変わっていったか突き止めることは優先順位が高くないと思います。現状、この記事は、開業しました、事業者が変わりました、廃止されました、以上、とただそれだけしか書かれていません、堀さんの文章に常安寺の参詣客で賑わう様子が描写されているのですが、そういう駅だった、という記述もありません。駅というのは人が集まるところなのに、何のために人が集まっていたのかわからない、というのは百科事典の記事としてどうなんでしょうか。--西村崇会話) 2022年8月20日 (土) 06:55 (UTC
返信 貴重な情報お寄せ頂き感謝いたします。なるほど、堀氏が訪問したのが文字通り廃止直後だったわけですね。提示した航空写真は1975年秋ですから、2年の間に建て替えられたということになりますか。くだんの待合室部分は2022年現在でも1975年当時と同じと判断していますが、やはり現役当時の駅設備には見えないので、例えばですが今の形の乗り場付近が完成するまで、構内の別の一角に仮設の乗り場があって、間に合わせでホーム上から撤去した待合室が一時的に再利用されていたのは、十分に考えられますね。実際、元・耳取駅のもののように現存とされる例もありますし、雪国の主要乗り場だけに必須の設備かと思います。ただ、地元紙などが地元民の証言でも調査して記事にするか、開設当時の栃尾営業所が記録された写真でも見つからない限り、当記事に反映させるには難しいということになりますかね。御提示された書籍は確認できていませんが、ちょっと意識して情報収集してみたいと思います。取り急ぎ、お礼を兼ねて。--Iso8.tv会話2022年8月23日 (火) 12:51 (UTC)[返信]
返信 『地図から旅へ』拝読いたしました。ご指摘の通り、決定的証拠とするのは難しいようです。訪問時点においてはレールや架線すら撤去されず残っていたとあるので、この時点では仮設乗り場が道路に面した位置に存在していたのでしょうね。そうなると、ホーム上にあった待合室が仮設乗り場に移動したとしても、ホーム上に作れないような大きさ(しかも基礎の地上高が異なる)まで拡張するのにわざわざ再移設までするだろうか、という疑問があります。
まとめると、1973年夏までは、元ホーム待合室がバス待合室に転用された可能性が高い。しかし、まもなく建設されたバスターミナルに鉄道時代の痕跡が残っていた可能性は非常に低い(ホームそのものの基礎部は要調査)、といったところでしょうか。ともあれ情報ありがとうございました。--Iso8.tv会話2023年1月14日 (土) 00:01 (UTC)[返信]
事実認識はそれでよいと思いますが、この駅の記事に営業中のことはほとんど書かれていないのに、廃止後の経過を追うことに意味はあるでしょうか。堀さんの文章には、バスに客にたくさん乗っているので、近くの常安寺で何か催しがあるのではないかと思った、と書いてあるだけです。それが何の催しだったのかは書かれていません。堀さんの文章を読んだ人がウィキペディアのこの記事を見つけて「地元民が通勤通学に利用するだけの駅だったが、近くの常安寺で毎年7月に開催される何とか祭りの際には市外からの訪問客で賑わった」とでも書いてあるのであれば、ああそういうことだったのか、ウィキペディアに記事があってよかった、と思うでしょう。しかしこの記事にも常安寺 (長岡市)にもそんな記述はありません。
要出典はただ貼りまわられるだけでほとんど対応されることがありませんから、これを文献で調査しよう、という取り組み自体はよいことだと思います。が、営業中のことをもっと詳しく書き足して、調査に手間のかかる廃止以降のことは削除する方が、調べ物をする多くの読者には有意義だと思います。--西村崇会話2023年5月17日 (水) 23:13 (UTC)[返信]
返信 遅くなりましたが、回答ありがとうございます。仰る通り、廃止後の動向については本来であれば栃尾営業所の単独記事を執筆し、そちらで記載するのが理想というのは理解します(他のバス事業者によっては営業所単位の記事が存在します)。ただ自分自身はバス自体に疎いこともあり、新記事の立項は難しいところです。また主観的には、廃止路線の記事であり、現役当時の資料が乏しいとなると、本文充実には別の資料の発見を待つか、或いは当時と廃止後状況のバランスが悪くても致し方ないのかなとも思います。建て直された営業所の建物外観を撮影しましたので、余裕があるときに少し記事にも手を加える予定です。--Iso8.tv会話2023年11月18日 (土) 16:39 (UTC)[返信]