ノート:末木剛博

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家族に就いての情報。載せて好いと思う部分は記事に加えて下さい。 末木剛博の父彦平は分家して、甲府市竪近習(たつきんじ)町(現中央二丁目)で紙の卸商を営み、甲府でも有数の商人であった。母ひでは同市柳町にあった商家丸茂家の出。丸茂家は山岡鉄舟とも交流があり、丸茂家の墓地には現在もその山岡鉄舟筆の墓標が立っている。また深沢七郎とも縁戚に当たる。甲府高女の一期生で、女子美術学校にも学んでいる。この影響か剛博も美術を愛好した。剛博はこの彦平、ひでの長男。上に二人の姉がいた。妻みえは甲府市相川町の雨宮(あめみや)家の出。雨宮家は大地主であった。東京女子大高等部を出て、甲府高女の教師をしていた。彦平が行っていた紙の卸商は彦平死後も株式会社化しひで(社長)とみえ(副社長)に拠り昭和四十年代初頭まで継続し、媒介する人があり他人に譲渡された。(典拠:自注末木恭彦自筆年譜)--行險樓会話2021年4月4日 (日) 12:52 (UTC)[返信]

また裏千家の茶道を嗜み、宗博の茶名を持っていた。妻みえも宗枝の茶名を持ち、末木紙店讓渡後八王子に居を移し、此の地で茶道を教授していた。剛博もこの教場に顔を見せる事があり、茶道文献の読書会の講師を勤めていた。(典拠になる者を捜査中)--行險樓会話2021年4月6日 (火) 14:00 (UTC)[返信]