ノート:日露戦争/過去ログ1

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。
過去ログ1 過去ログ2

文献の載せ方

多くの文献をありがとうございます m(_ _)m。
ただ、これだけ多いとちょっと煩瑣なので、ISBNのあるものは刊行年月を削るか、せめて年までにして、全X巻というようなものは ISBN 列記に代えませんか。
また、ここの ISBM からは全国の図書館データベースにも飛べるので、現在絶版の旧版などでもISBN が判れば載せておくと親切かと思います。
自分は他の項目では基本的に ISBN のみ。ISBN が判らない場合のみ発行元と発行年を入れるようにしています。
取り敢えずやっちゃおうかとも思ったのですが、その場合、もどすのも大変なので、まずはこちらで提案させていただくことにしました。皆様のご意見よろしくです m(_ _)m。Kadzuwo 07:59 2004年3月9日 (UTC)

参考文献の候補の一覧:2004年10月2日 11:54 (UTC) 時点のログをご覧ください。

文献欄をつくる場合、ISBNがあるからといって発行年月(および発行所)を記載しないのは中途半端で不便です。たとえば、このウィキの画面をそのまま印字して研究会や演習などで利用することも多いのですが、やはり文献欄は書誌事項を完備したものであって欲しいと常々思っております。文献を挙げるのであれば、著者・書名・発行者・発行年月、といった最低限必要な事項をきちんと記載するべきではないでしょうか(ただし、上記の参考文献表で、参考文献や年表の有無、内容細目等まで挙げている点は不要だと思います)。また、このウィキのページから各種データベースへリンクできるから発行年月日は不要だ、という意見もあるかと思いますが、だれもがリンクをたどるのではない、という前提でページの説明などは完結させるべきです。つまり、文献は著者名と書名だけ挙げて残りの書誌事項はリンク先に頼る、というような密接な連携を設定するべきではない、と思います。また、研究者の方々ならご存知の方もいるでしょうが、図書館の目録の場合、発行年月はかならずしもその文献の発行年月を正確にあらわすものではないので(増刷されている文献を所蔵している場合、その増刷の発行年月が目録に記載される場合が多い)、その点でも発行年月は現物を手に確認したものを載せておく必要があります(つまり、図書館の目録〔OPAC〕からコピペで文献欄をつくるのは危険だ、ということでもあります)。最後にひとこと。上記の参考文献表は、どういった基準で文献を選択したのか、ちょっとわかりません。包括的・網羅的なものではもちろんなく、日露戦争の全体像を知るための適切な文献が選ばれているわけでもありません。どこかの図書館の目録で「日露戦争」をキーワードに検索した結果をそのまま持ってきたように思われますが。218.47.147.89 01:06 2004年5月14日 (UTC)

文献欄においては書誌項目を完備すべきであるとの意見に賛成です。史料を扱うのにそれは基本でしょう。図書館のデータベースやオンライン書店のデータベースで調べるというのもありますが、初版が何時出ているのか、改訂版があるのかないのかというのは貴重な情報だと思います。それらを省略してしまうのは賛成しかねます。ただし、本編にすべて掲載するとなると話は別です。上のリストのように多くの文献を紹介するのでしたら、別のページを作っても良いかもしれないですね。「○○についての参考文献の一覧」というような。個々の文献の特徴を入れておけば選択の手助けにもなるでしょうし。平 誠 2004年10月2日 (土) 11:54 (UTC)


帝国主義

「日露戦争前後の世界情勢は帝国主義の真っ只中にあり、外交官と軍人が最も活躍した時代であった。」との文言をコメントアウトしました。帝国主義とはマルクス=レーニン主義に基づく歴史観から生じた言葉であり、それでもってこの時代を規定することは中立的な視点からは問題があると思います。220.146.147.26 2005年7月3日 (日) 19:49 (UTC)

狭義の帝国主義は、時代区分として使われているという現状もありますが、それも含めて中立的にはまずいでしょうか。私には判りかねますが、私の印象としましては、どちらでもよいように思えます。--完璧主義 2005年7月24日 (日) 18:35 (UTC)


英語での語順と国の序列について

2006年4月8日 (土) 15:10 (UTC) に、「日本で「日露」戦争と呼んでいるこの戦役を、欧米では等しく「露日戦争(英語:Russo-Japanese War)」と呼称している事からも、いかに当時の欧米諸国がロシアを大国とみなし、逆に言えば日本を途上国とみなしていたかがうかがえよう」という記述がありますが、英語等で露-日の順番になっているのは、国の序列などとは全く関係なく、単に語呂がいいから(-o という形容詞形がRussiaにはあるがJapanには無いから)だと思いますよ。傍証ですが、英語では米西戦争(1898年)を Spanish-American War 、米比戦争(1899-1913年)を Philippine-American War と呼びます。--猪山人 2006年4月10日 (月) 12:27 (UTC)

恐れ入りました。「Rev合戦になりそうだったのを何とか収拾つけたい」という目的を急ぎすぎて、検証不十分な文章を載せてしまいました。他の方の意見も伺うとして、私としては当該部削除で結構です。--Kaba 2006年4月11日 (火) 04:12 (UTC)
それでは、もう数日時間を置いた後、当該箇所は筋が通るように編集したいと思います。--猪山人 2006年4月15日 (土) 02:42 (UTC)
上記対処しました。--猪山人 2006年4月21日 (金) 13:48 (UTC)


旅順攻囲戦第一回総攻撃における第九師団の望台占領について

2006年5月21日 (日) 02:44 (UTC), 222.2.69.232 さんの書き込み

このとき、金沢第九師団の旅団長であった一戸兵衛少将は自身の兵力に被害を出しつつも、望台付近(旅順市街の一歩手前)まで兵力を進めていた。がしかし、兵力の損害に恐れをなした軍司令部の撤退の命令を聞いて、「何ゆえこのような不可思議な命令を出すのか」と不審に感じたといわれる。結局のところ、旅順要塞の攻略に長々と時間を浪費してしまったのは、第三軍司令部があまりにも前線より遠すぎたため、目先の兵力の被害(実際に見たわけでなく、報告での被害状況)に気をとられ、第九師団がそこまで進出していることに気づいていなかったことが大きく作用している。このことは後に攻撃主攻撃方向を203高地に変換したときにも大きく影響する。

第一回総攻撃において第九師団が望台を一時占領したのは事実であり、ここから戦果を拡大して旅順市街地への突入ができたのではないかという議論も確かにあるようです。しかし、それは空論であろうという反論もあり、定説とは言えないようです。反論の論拠としては、このとき望台と後方との連絡線は確保できておらず、そのような状況下で少数の部隊が突出したところで、敵が予備兵力を持っているならば袋叩きにあうだけだというものです。実際、白襷隊の攻撃も同様の理由により失敗しています。--猪山人 2006年5月26日 (金) 14:52 (UTC)