ノート:日本の降伏/過去ログ1

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記事名

記事名は、"日本の降伏"の誤りでは?そもそも、日本の終戦では文法的に不自然でしょう。-- TakuyaMurata 2008年7月31日 (木) 10:10 (UTC)

改名の合意のないまま移動されていましたので、戻しました。改名の合意を経てから移動してください。--はるひ 2008年8月1日 (金) 00:42 (UTC)

独自解釈なのでは?

利用者:大和屋敷さんによる一連の編集についていくつか問題点があります。とりあえず、最大のものだけうかがっておきます。「大東亜政略指導大綱の加藤なりの「読みかた」であるとおもいますが中立的引用ではありません。」とコメントを挿入されていますが、昭和十八年五月三十一日に御前会議で決定された「大東亜政略指導大綱」の六の(イ)には、"「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発竝ニ民心ノ把握ニ努ム"とあります。"加藤なりの「読みかた」"とやらにどういう問題があるのでしょうか?加藤聖文からの引用はWikipedia:検証可能性Wikipedia:信頼できる情報源に照らすと問題が無いようですので、「中立的引用ではありません」というのは利用者:大和屋敷さんの独自解釈に基づくPOV-pushingに過ぎないのではないかと思えてなりません。もしも利用者:大和屋敷さんの独自解釈でないのであれば、具体的なソースを提示して問題点を指摘していただければ幸いです。また、最近、この記事で貢献されている利用者:二林史夫さんのご意見もうかがってみたく存じます。Takabeg会話2016年1月13日 (水) 14:12 (UTC)

恐らく (絶対的な確信はないのですが)、大和屋敷さんは、帝国領土への編入を決定したけれども、「当分発表セス」とされ、実際には軍政が継続された、ということを言いたいのではないかと思うのですが、そうであれば、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:信頼できる情報源からは (ウィキペディア的には) 問題の無い部分を隠すのではなく、Wikipedia:信頼できる情報源を提示して修正していくのが筋です。Takabeg会話2016年1月13日 (水) 15:38 (UTC)

『岩波講座アジア・太平洋戦争第7巻 支配と暴力』(2006年 岩波書店)所収、中野聡著「植民地統治と南方軍政―帝国・日本の解体と東南アジア」から引用します。

「緒戦の勝利と東南アジア占領の一時的な安定を背景に日本の戦争指導部内では、開戦後まもなく占領地を「独立」させるのか、日本が植民地的に支配していくのかという方向性をめぐる占領地帰属問題が浮上し、ビルマ侵攻作戦の攻略をめぐる方法論的な摩擦・対立として展開したが、被占領者を巻き込んだ政治過程である以上、それは単なる方法論を越えて、日本支配の正統性を問う問題に発展せざるを得ない要素を含んでいた。」(同書14ページ)

「しかし、南方軍の塚田攻参謀総長が全占領地の帝国領土化を主張する「独立」反対派のボス的存在で、海軍にも一貫して占領地領有論が強かったことを考え合わせると、緒戦の勝利を受けて東南アジア全域の植民地的支配に対する欲望が軍部の間で頭を擡げたのは明らかであろう。」(同書15ページ)

「このように「独立」国が帝国・日本の「指導国家」としての存在意義を動揺させる一方、(二林注;フィリピンのことをさす)日本が当初まったく「独立」付与の対象として考慮していなかったインドネシアは、結果として、その独立問題が日本の東南アジア占領史の終焉を語る最大の焦点となった。(中略)南方軍政の視点から注目されるのは、日本軍政とインドネシア民族主義者の間の対日協力要求の応酬を通じて「独立」付与決定に至った政治力学であろう。早くも1942年10月「高度の自治を許容」するよう内閣総理大臣が声明しなければ「ジャワの治安確保は覚束ない」との派遣軍の要求が南方軍に上がっている。石井は「全く突如として沸き起こった事態」に驚きつつ「まだまだ以っての外だ」と返事をした。その後、1943年5月にはマライとともにインドネシア全域の帝国領土化の方向がいったん内定した(1943年5月の大東亜政略指導大綱―当分発表しないことが前提とされた)。しかし、「独立」付与の対象にならず、スカルノ、ハッタが大東亜会議にも招致されないことへの民族運動家の不満は強烈で、派遣軍も「政治参与」に向けた動きを加速するように大本営に働きかけざるを得なかった。その一方、人口稠密で生産力の高い安定した占領地として、ジャワは東南アジア占領地全体の現地自活に向けた補給基地的性格を帯び、戦局の悪化にともない食糧供出や労務者徴発など現地社会に対する負担・重圧が高まり、民心離反が目立つようになった。それだけに、「独立」問題での一層の譲歩による民族主義者の対日協力なしにはジャワの安定確保は難しい情勢となった。こうして当初の帝国領土化の方針は撤回され、1944年9月、小磯国昭内閣はついに「将来東インドに独立を許容する」という発表を行うに至ったのである。」(同書20・21ページ)

以上論文にあるとおり、大東亜政略指導大綱というのは、日本がインドネシアを領土化したのちに、「独立」させるか植民地支配を継続するかの問題であって、同大綱の存在をもって、加藤聖文著書中の「インドネシアを日本領に編入してしまった」との文章を否定する根拠とはなりえないと考えます。--二林史夫会話2016年1月16日 (土) 16:38 (UTC)

コメントこんにちは。ぼくは史実には詳しくないので、二林史夫さんにお伺いしたいのですが、史実として(出典としてあげられているものだけではなく、このへんの事柄を扱っているものをいろいろお読みでしょうから、それらを踏まえ)、この時点で編入をしていたのでしょうか、方針などに留まり編入はしていなかったのでしょうか。ここでのやりとりなどを読むと、後者のように思われますので、それを前提に以下を書いています。
将来の編入を決定したなら異論はないとおもいますが「インドネシアを日本領に編入してしまった」と書いてあればこれは議論があると思いますよ」という大和屋敷さんの意見から想像するに、「オランダを駆逐した日本は、インドネシアを日本領に編入してしまった」という書き方は「既に編入した」と読み取れる。指導大綱「帝国領土ト決定シ」とあるのだから、既に編入したのである、ということなら、「インドネシアを日本領に編入してしまった」が正確な記述なのでしょう。指導大綱の記述によって、加藤はそう書いたのだろう、というのが、大和屋敷さんの推測です(加藤の本にそう書いてあるかどうかはわかりません)。大和屋敷さんの意見は、しかしその時点で編入されてはいないのだから、記述を除去した、ということなのだと思います。二林史夫さんが引用されているように「当初の帝国領土化の方針は撤回され」ということならば、事実としては「オランダを駆逐した日本」は、「インドネシアを日本領に編入する方針を固めた」などとなるはずであって、「インドネシアを日本領に編入してしまった」ではないということになります。つまり、おそらく指導大綱の記述によって書いたと思われる加藤の表現は、否定される。そして、情報源に「インドネシアを日本領に編入してしまった」と書かれていたとしても、それが歴史的事実と異なるのなら、地の文としては修正、あるいは除去するのが適切だと思いますが、いかがでしょうか。--Ks aka 98会話2016年1月18日 (月) 07:03 (UTC)

Ks aka 98様、はじめまして。コメントありがとうございます。さて「日本領へ編入」の文言をめぐる議論についてですが、原点に立ち返って議論していただきたく、議論の出発点となっている加藤聖文著『「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年』の228ページ該当部分をすべてそのまま引用します。

「日本に占領される以前から、インドネシアではオランダを相手に独立運動が繰り広げられていたが、オランダを駆逐した日本はインドネシアを日本領に編入してしまった。戦局が絶望的になった敗戦間際にようやく独立に向けた準備がはじまったが、結局実現されずに敗戦を迎えた。そうしたなか、戦時中から日本軍に協力していたインドネシアのスカルノは、8月17日に盟友ハッタとともにインドネシア独立を宣言、オランダとの独立戦争に突入した。1949年12月に独立を獲得すると初代大統領に就任、第三世界のリーダーともてはやされたがスハルトによって実権を奪われ、軟禁状態のなかで1970年6月に死去した。なお、スカルノらは、敗戦後に日本軍に対して武器の引渡しを要求したが、現地日本軍は連合国との関係を慮ってこれを拒否、軍組織としてインドネシア独立戦争にかかわることはなかった。しかし、個人的な信条や理由のなかで多くの日本軍兵士が独立側に加わっていた。」

問題は、1文目の「日本領に編入してしまった」の文章がいつの時点を指すのかです。 私は、「オランダを駆逐した日本は」ということと同じ文章内に書かれてあることからすると、日本軍がインドネシアにおいてオランダを駆逐した時点であると解します。では、オランダを駆逐した時点はいつか。小林英夫著『日本軍政下のアジアー「大東亜共栄圏」と軍票―』(2003年)岩波新書76ページには、「緒戦は圧勝であった。開戦と同時に日本軍は、香港・フィリピン・マラヤに攻撃をかけ、41年12月25日には香港、42年1月にはマニラ、2月にはシンガポール、3月には蘭印の中枢バタビア(現ジャカルタ)とビルマの中枢ラングーン、5月にはラングーンに次ぐビルマ第二の要衝マンダレーを占領した。」とありますから、1942年3月以降と解します。その後、「多数の軍政要員が日本から東南アジアに派遣された。その出身は各省より出向した役人、企業や商社の派遣員、また銀行員などその経歴はさまざまだった。」(同書88ページ)、あるいは石油の獲得、国策会社の設立(同書96ページ)、軍票の発行(同書110ページ)、「ロームシャ(労務者);インドネシア語になっている」の徴用(同書144ページ)ということがおきています。加藤著にいう「日本領への編入」はこのようなことを指していると思われます。

これに対して大東亜政略指導大綱の決定は1943年5月のことですから、加藤聖文教授は、同大綱の解釈をして「日本領へ編入した」と書いたのではなく、1年以上の隔たりから考えても同大綱とは無関係だと思います。 では大東亜政略指導大綱とは何か、ということは前掲中野聡論文に書かれてあるとおりだと思います。すなわちフィリピンとビルマの「独立」に強い影響を受けた、スカルノらによるインドネシア独立運動の高まりを受けた占領強化の動きに過ぎないと考えられます。この点からも、加藤著の「オランダ軍を駆逐したのちの編入」と同大綱は無関係だと解します。

--二林史夫会話2016年1月20日 (水) 03:02 (UTC)

なるほど、ご教授ありがとうございます。
ここで問題となるのは、「日本領に編入」という表現だと考えています。つまり、「オランダを駆逐した日本はインドネシアを占有・占拠した(してしまった)」なら、それでもよいのですが、征服ではなかったのでしょうし、割譲なり併合なりが行われてもいないでしょう。「占有・占拠」は「日本領に編入」の前段階です。「占有・占拠」の後に、日本が「帝国領土ト決定」ただけでは編入ではないですよね。領有権取得があり編入される。お伺いしたいのは、「現在認識されている史実として、日本領への編入が行われたのか、行われなかったのか」というところです。
  • 史実として「編入」が行われなかったのなら、「インドネシアを日本領に編入してしまった」と書くべきではない。
  • 「編入」が行われたのならば、時期が問題になります。二林さんがおっしゃるとおり、文意からは「日本軍がインドネシアにおいてオランダを駆逐した時点」が自然だということには同意します。しかし、その段階で「編入」は考えにくい。もっとも、直後ではなく「(略)時点の後」くらいの幅が見込むなら、今の表現でもよいのかなとは思います。
二林さんが引用された加藤『「大日本帝国」崩壊』p.228.を見る限り、「占有・占拠」ではなく「領有権取得による編入」という主張するものではなく、「占有・占拠」の言い換えくらいの意味で用いられている可能性はありそうですし、やはり二林さんが前に引用してくださった中野『植民地統治と南方軍政』を見ると、「占有・占拠」が実態であるように思います。記事の正確さを考えるなら、「編入してしまった」の表現は、除去あるいは修正が必要なものだと考えます。記事の改善としては、ここが一番大事なところだと思います。

Ks aka 98様の上述指摘は、もっともかと思います。また、改めて調べてみますと、日本軍政期におけるインドネシアについて「日本領への編入」と表現するのは加藤聖文著くらいで、他は「占領」と表現するものが多数見られます(遠山茂樹他著『昭和史』(1959年)岩波新書、吉田裕著『シリーズ日本近代史6 アジア・太平洋戦争』(2007年)岩波新書などで確認)。今後、「占領」という用語を用いて書き直ししたいと思っております。--二林史夫会話2016年1月20日 (水) 10:15 (UTC)

ご面倒をおかけしますが、修正よろしくお願いします。
以下は、記事の改善とは離れて、大和屋敷さんのコメントアウトとTakabegさんの指摘との関係なので、余談となります。
  • この場で、大綱の存在をもって、加藤聖文著書中の「インドネシアを日本領に編入してしまった」との文章を否定する根拠とはなりえない、というのは、その通りだと思います。
  • コメントアウトで大和屋敷さんが書いた「大東亜政略指導大綱の加藤なりの「読みかた」であるとおもいますが中立的引用ではありません。」というのは、加藤が「占領した」ではなく、「編入してしまった」と書くのは、大東亜政略指導大綱の「帝国領土ト決定シ」を、まさに帝国領土と決定した、と加藤が理解したからではないか、という推論(「おもいますが」)だと思われます。
  • 加藤が「編入してしまった」と書いた理由についての大和屋敷さんの推論は確かに「独自解釈」ですが、その解釈は記事に反映されているわけではなく、推論であることも示されています。編集の重要なところは「編入してしまった」という記述を放置せずに除去したということにあり、そのことの説明が不足していたということはあるかもしれません。
  • その推論が正しいなら、加藤の「読み方」には問題があります(正しく読み、史実として正しく認識していたが、ここでは表現を誤った可能性、つまり「書き方」に問題があった可能性もあります。)。
  • そして、それは史実として「占領」ではないのだから、加藤の本が基本的には信頼できるもので、実際にそのように書かれていて検証可能であるけれども、(他の本ではなく)加藤の「編入してしまった」という表現をこの記事のこの個所に用いるのは「中立的引用ではありません」ということになるのだろうと思います。
  • 大和屋敷さんの1月13日 (水) 14:33 (UTC)では「将来の編入を決定したなら異論はないとおもいますが「インドネシアを日本領に編入してしまった」と書いてあればこれは議論があると思いますよ。」と書かれています。これについては、ここ数回の二林さんとぼくのやりとりにあるように、議論となるものでしょう。--Ks aka 98会話2016年1月20日 (水) 13:17 (UTC)

「大東亜政略指導大綱」について他の学者の記述を調べてみましたので、参考にしてください。

  • 『岩波講座アジア・太平洋戦争1 なぜ、いまアジア・太平洋戦争か』(2005年)岩波書店所収、倉沢愛子著「20世紀のアジアの戦争」の227ページには「インドネシアに対しては、マレー、シンガポールなどとともに開戦直後からひそかに永久確保の方針がとられており、1943年5月の「大東亜政略指導大綱」で「帝国領土」という地位が確定していたが、戦況の悪化に伴う住民の生活の困窮により対日不満が高まって武力抵抗事件も発生するようになったことから、日本側はこのままではスカルノらの協力を得ることは困難な状況になってきたことを察し、1944年9月に、「将来独立を与えること」を約束するにいたった(小磯声明)。」という記述があります。

「開戦直後からひそかに永久確保の方針」があったとすれば、加藤聖文著書にいう「オランダを駆逐した日本はインドネシアを日本に編入」という記述も間違いとまでは言い切れないと思います。「「帝国領土」という地位が確定していたが」というのは、開戦当時は「ひそかな方針」に過ぎなかったものを、御前会議で確定させたものであると解することができます。また、オランダを駆逐し、油田の確保やインドネシア人の徴用、軍票の発行、日本の「国策会社」の活躍などを考えると、日本領土化の実態があり、それを「政略指導大綱」で確定(追認)したと考えることもできるでしょう。加藤教授もこの考えに近いかな、とも思います。

  • 一方で、三國一朗著『戦中用語集』(1985年)岩波新書の73ページでは、「昭和18年5月31日、御前会議(天皇出席)の議案として「大東亜政略指導大綱」が提出され、決定した。これでマレー・蘭印の日本領編入、ビルマ・フィリピンの独立など、政略体制の整備強化に、ゴーサインが出された。」と書かれています。これによれば、「指導大綱」によって日本領編入が決まったということになりそうです。

日本領編入の有無とその時期については「指導大綱」の解釈のみならず、開戦時の状況や、日本によるインドネシア支配の実態などの複数の要素を考慮に入れて判断することが必要であり、各要素のうちどれを重んじるかによって、論者によって差がでてくるのかなと思います。

--二林史夫会話2016年1月23日 (土) 23:53 (UTC)

出典の明記など1

利用者:大和屋敷さんによる一連の編集の問題点の第二弾となります:"「ホー・チ・ミン」2015年12月21日 (月) 03:03版から移入"とか"「インドネシア」2015年12月28日 (月) 16:24版から移入"とか書いています。履歴継承の形式についてあれこれ言うつもりはないのですが、ノート:ホー・チ・ミンをみても、ノート:インドネシアをみても、ノート:日本の降伏 (このページ)を見ても、「移入」について話し合われた形跡はありません。さらに悪いことに、ホー・チ・ミンのほうはソースがついておらず、インドネシアのほうは、"奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』93頁、95頁他。"などと、あり得ない書き方をしているので、原典を確認していない可能性が極めて高いと思われます。ウィキペディアのガイドラインや方針に従って修正や補完をほどこしてください。そうでない場合、「出典なし」で除去します。利用者:大和屋敷さんは、ニュービーとは見做されないくらい長いあいだウィキペディアにいるので、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:信頼できる情報源を熟読されているはずなのに、何故こうした問題のある「編集」をするのか、理解に苦しんでいます。Takabeg会話2016年1月16日 (土) 09:34 (UTC)

ご指摘の件は、ことさら問題として扱うものではなく、検証可能性を厳密に守っているとは言えませんが、方針やガイドラインに違反しているのはそれくらいで、問題として指摘されているものの多くは方針やガイドラインが求めるものではないと思われます。
  • 「移入」について話し合う必要はありません。他の記事の記述で、記事中にあったほうが好ましいと考える内容があれば、それを取り入れるのは自由です。特に手続きも必要とされていません。記事の内容として適切でないと考えるなら除去すればよいです。
  • "奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』93頁、95頁他。"というのは、ありえない書き方ではありません。一般的な書誌情報の書き方とは異なるものですが、単にインドネシアの記事にそう書かれているものをそのまま持ち込んだため、こうなったのでしょう。
  • そのように書いたのは別の方で[1]、どこかの書誌情報をコピペして整形すると、こういう風になることもあります。
  • 他の記事からの移入や翻訳に際して、そちらで用いられていた情報源を確認するのは、望ましいとはいえ、通常求められてはいません。
  • ホーチミンから持ち込まれた記述には、情報源が示されていません。情報源となる資料を探すのはそれほど難しくなさそうですし、特に疑義があるのでなければ、ひとまずは残し、自分で記述を改善することも試みて下さいベトナム民主共和国ほかにも出典はなく、ベトナム戦争#ベトナム独立宣言以下は出典を伴う記述があります。いつもいつも出典なしで記事を書いているような利用者ではないですから、追って補うつもりかもしれませんよ。--Ks aka 98会話2016年1月18日 (月) 06:44 (UTC)

それよりも、履歴継承がなされていないことは問題です。大和屋敷さんは、以後ご留意いただけるようお願いします。--Ks aka 98会話2016年1月18日 (月) 06:44 (UTC)

『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』はありえない書き方です。インドネシアの記事にあるものもありえない書き方です。「ありえない」という単語の解釈にかかってきますけどね。「ありうる間違い」かもしれませんが「ありえない書き方」だということです。本来のタイトルは『インドネシアの独立と革命』です。それと、時間と体力が許せば、自分自身で加筆したいところですが、残念ながら時間的余裕がないので、問題点を見つけて黙っているのは、ウィキペディアの発展のためにならないと考えていますので、問題点を指摘しているのです。日本語版だけではありませんが、問題点は山積しています。Takabeg会話2016年1月18日 (月) 13:36 (UTC)