ノート:数学者

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Ideal氏の書かれた、以下の内容は数理哲学もしくは数学的真理の箇所で書かれるのが適切ではないでしょうか?

『ある人々は、上のような見解は、安易なプラトン主義だとして非難の的とする。』

『 しかし、(数学的真理に対する)この見解にも問題はある。大きな問題点は、数学は確かに歴史的にも、現在においても、ある種の真理を希求しているのは事実であるが、真理というのは、数学が数学として扱える範囲を逸脱していることである。古代ギリシャにおいては、真理というのは、論戦において論駁されないことだとする感覚がある程度あった。実にこのことが少なからぬ要因となって、彼らの精緻な証明や公理論的な数学のとらえ方を発明したのである。しかし、今日真理をこのように捕らえるのはそれほど一般的ではない。真理の概念が歴史的に変わってしまうものであるのにも拘らず、数学が必ず心理をつかみ続けることができるとはたして主張できるであろうか。

更に、矛盾という問題もある。数学において、矛盾というのはその存亡にかかわるほど大きな問題である。たった一つでも矛盾が見つかれば、そこからどんな命題も(またその否定も)証明されてしまうことが古くから知られていた。つまり、矛盾が見つかれば、それまで精緻に組み立てられてきた証明は全て水泡に帰すのである。この問題に関して、ある数学者(ダフィット・ヒルベルト)は数学全体の無矛盾性の証明を試みる壮大な計画を立てた(ヒルベルト・プログラム)。彼の試みは、数学の証明を少数の記号と簡単な公理を用いて形式化し(形式主義)、証明そのものを将棋のようなゲームとみなすことで、そのゲームをどれだけ続けても矛盾に到達することはできないということを証明しようとするものであった。このように、数学自体を対象としてある数学を展開することは超数学(メタ数学)と呼ばれる。彼と彼のグループ(例えばジョン・フォン・ノイマン、アッカーマンなど)のその試みは、うまくいきそうに思えたのだが、そしてヒルベルト自身はそれが可能であることを疑わなかったのだが、有名なゲーデルの不完全性定理(1931年)によって、その計画を当初の理想的なかたちで完結させることは不可能であることが分かった。このゲーデルの定理では、自然数論を含む数学を、その内部において無矛盾性を示すことが不可能であることを主張するものであった。

しかし、それで全ての望みがついえたわけではなく、多少目的を弱めることによって、つまり有限の立場を広げて解釈することで、自然数論の無矛盾性を示すという試みは、実際ゲンツェンによって達成された(1936年)。<--fix me(有限の立場の理解について自信がない)。この立場では、自然数論を超えるような推論が許されるが、しかし、それは我々の直観(特に数学的帰納法。より強い超限帰納法も含まれる)に強く基づいているものであり、それによって誤った結果がでてしまうということは、すくなくとも心理的にはあり得ないように感じられる。とはいえ、これはあくまでも主観的な解釈であり、論理的な根拠のあることではない。自然数論において既にこのようであるから、実数論、更には数学がその基盤をおいている集合論に関しては一層弱い心理的な安心感しか持つことはできない。現在一般的に用いられる公理的集合論はZF(ツェルメロ・フレンケル)と呼ばれるものである。これにさらに、選択公理を含めてZFCとすることもある(むしろこちらの方が一般的である)。現在までに、この集合論に関しての矛盾は発見されていない。しかし、今後未来永劫矛盾が見つからない、またそのようなことは起こり得ないということは決して断言できない。

この事柄に対するある楽観的な見方は、たとえ矛盾が発見されたにせよ、うまく公理を取り替えることによって、既存の数学をほとんど犠牲にすることなく、矛盾を取り去ることができるというものである。このことは、上に述べたことには反していない。実際、かつて集合論が形式化される以前には、素朴な集合論には矛盾の生じることが認識されていたが、その後その矛盾は克服され、しかもカントールの結果も犠牲になることはなかった。カントール自身は、集合論の矛盾が発見されてもそれに動揺することはなく、必ずその"困難"を克服できると信じていたようである。

更に、ある安心感を与える事柄は、数学がその三千年以上にわたる歴史のなかで、時にはそのとるべき道を外れることがあっても、結局着実な進歩を続けて来たという事実である。このことは、おそらく全ての数学者に前進へと向かわせる意欲を与えるものであろう。読者は、この見方が、上の数学と自然科学との違いを述べた箇所とは大きく異なっていることに注意されたい。ここで述べたことは、歴史的事実に基づく、純粋に帰納的な数学の真理に対する安心感である。例えば、これは本質的には次のものと同じである;「小学校を卒業すれば、誰もが自然数の足し算やかけ算を扱えるようになる。我々の社会はそれを基盤にしていて、しかもそのことによる問題は全く起こっていない。これほど多くの人々が、長い年月にわたって自然数を扱っていて、それでもなお問題が起こらないとなれば、自然数論に矛盾が存在し、かつそれが我々の自然数に関する認識を全く変えるように強要することは、まず考えられない。」』