ノート:戊午士禍

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戊午士禍(ぼごしか):1498年

 朝鮮王朝中期(15世紀末から16世紀半ば)に、前後四回にわたり起こった「士林派」に対する政治的迫害事件(のちに「四大士禍」と呼ばれる)のうち、燕山君の時代に最初に起こった事件で、発生した年の干支をとって「戊午士禍」と言う。

 事件の発端は、『成宗実録』の編纂過程で起こった。1494年12月に成宗が死去すると、領議政盧思慎らの建議で、4ヵ月後の1495年4月に、春秋館の中に実録庁が設置され、実録の編纂が始まった。

 実録が完成するのは4年後の1499年のことだが、編纂が大詰めをむかえた 1498年、成宗時代に史官を務めたことのある士林派の金馹孫が提出した史草のなかに、彼の師・金宗直が世祖の政権簒奪を批判した「弔義帝文」と自分に対する上疏文を発見した堂上官の李克墩は、、その事実を勲旧派の実力者・柳子光に相談した。李克墩と柳子光は、生前の金宗直からその政治姿勢を厳しく批判され、個人的な恨みを持っており、金宗直と弟子たちを中心とする士林派の排除を狙って、国王燕山君に上疏した。

 この上疏に対し、燕山君自身も即位以来、事あるごとに諫言する士林派を快く思っていなかったので、士林派への政治的迫害を容認した。勲旧派は金馹孫を捕えて厳しく尋問し、「弔義帝文」を史草に載せることが金宗直の指示によるものだとの陳述を引き出した。金宗直は「剖棺斬屍刑」(死体を棺から引き出して斬刑に処すこと)となり、当事者であった金馹孫と彼の仲間の幾人かは「凌遅処斬」(処刑後に、さらに頭や胴体、手足を切断する刑罰)に処せられた上、多くの新進士林派が配流・免職となり、事件の発端をつくった李克墩自身も問題の史草を知りながら報告を怠ったとして、左遷された。

 「戊午士禍」はこのように、成宗時代に科挙を通じて登用され、三司を中心に大きな政治勢力として王権を牽制してきた士林派に対する最初の大規模な弾圧事件となった。煩わしい士林派を排除し、奸臣に囲まれた燕山君はこれ以後、1504年の「甲子士禍」を経て、「中宗反正」によって玉座を追われるまでの約8年の間、権力を独占し、当時の儒教的道徳観からは許し難い数々の背徳的な行為を行って、朝鮮王朝史上最悪の独裁政治を行なった。