ノート:小和田恆

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2006年・2008年の議論[編集]

父親って小和田毅夫さんよね。<父 小和田穀夫>ってなってるけど。--TouConsul 2008年8月23日 (土) 00:59 (UTC)[返信]

編集合戦としてしまったのは、利用者:たなかかずえ会話 / 投稿記録 / 記録による、利用者:もりかわしみ会話 / 投稿記録氏名義の意見投稿[1]を見ていたこともあり、議論によって解決できるとは思えなかったためですが、利用者:Kinori会話 / 投稿記録さんの言われるとおり不毛なものとなってしまいました。反省いたします。--Tiyoringo 2006年12月23日 (土) 16:35 (UTC)[返信]

ご同情申し上げます。該当部分は現在の削除依頼で一緒に削除されることになると思われます。今後の掲載については、私はTiyoringoさんの方式に賛成します。出所不明のゴシップや陰口のたぐいを載せるべきではありません。Kinori 2006年12月26日 (火) 07:32 (UTC)[返信]

職歴について[編集]

本文に「ICJの所長に日本人が就任するのは初めて。」とありますが、「国際司法裁判所」に「安達峰一郎(常設国際司法裁判所所長)」とあります通り、この記述は誤りである可能性が高いかと思います。--124.101.101.127 2009年4月4日 (土) 12:04 (UTC)[返信]

常設国際司法裁判所は現在の国際司法裁判所とは別の組織でありますので,当記事の本文の記述は正しいと思います。--Zyugem 2009年4月4日 (土) 16:53 (UTC)[返信]

公式サイトから歴代所長のリストをリンクに貼り,要出典タグを外しました。--Zyugem 2009年4月5日 (日) 12:01 (UTC)[返信]

称号について[編集]

小和田恒氏が、敬和学園大学から名誉哲学博士号を、バーナラス・ヒンズー大学から名誉法学博士号を授与されたことは事実であり、氏が判事を務めるInternational Court of Justice(国際司法裁判所)HPの氏のプロフィールにもそう記載されています。国際司法裁判所のHPに記載されている、正式なプロフィールをなぜ陽一氏は勝手に削除をされるのでしょうか? なお、早稲田大学から小和田恒氏に授与されたのは、「名誉法学博士」です。学位を授与されるときには、名誉文学博士、名誉哲学博士など、どの分野の学位であるか表記されるのが普通です。「名誉博士」などという称号は、私自身聞いたことはありません。 小和田恒氏と同じく早稲田大学からDoctor of Lawsを授与された、高麗大学校総長魚允大氏の学位授与記念講演では、魚氏自身が早稲田大学より「名誉法学博士を授与された」と述べています。また、同じくDoctor of Lawsを授与された松下電器産業会長の松下幸之助氏も、松下電器のHPでは、早稲田大学から「名誉法学博士号を授与された」とありますから、名誉法学博士が正式名称です。

質問 記事本文に「敬和学園大学名誉博士(哲学)」との記述がありますが、これは正確な表現なのでしょうか?
国際司法裁判所ウェブサイトには「D. Phil. honoris causa, Keiwa University, Japan (2000).」[1]との記述があり、敬和学園大学のウェブサイトにも「昨年10月28日に敬和学園大学は創立十周年を記念して小和田恆・前国連大使とドナルド・キーン教授名誉学位を贈呈し、記念講演をして頂きました。小和田博士は『世界の中の日本』という題のもとに」[2]との記述が見受けられますので、2000年名誉博士号を授与されたのは間違いないと思います。
しかし、「哲学」という表記は本当なのでしょうか? 日本には分野ごとにさまざまな博士号がありますが英語に翻訳する際は一律「Doctor of Philosophy」と表記する場合も多いので、「D. Phil. honoris causa」イコール「名誉博士(哲学)」とは断言できないと思います。
ちなみに、小和田氏と同時に名誉学位を授与されたドナルド・キーン氏について、敬和学園大学は「本学の名誉文化博士」[3]と表記しています。また、同大学には哲学部や哲学科は設置されていないようです。さらに、国際司法裁判所のフランス語版ウェブサイトでは「Doctorat (honoris causa), Université Keiwa (Japon (2000)).」[4]としか記載されていません。
ですので「『名誉博士(哲学)』ではなく『名誉博士(国際文化)』等ではないのか?」と思うのですが……。--Taiwaan 2009年3月8日 (日) 00:25 (UTC)[返信]
報告 えすかる5会話 / 投稿記録 / 記録さんが出典を示してくれたのですが、出典元は前述のウェブサイトだったため「名誉博士(哲学)」なのか否かが不明確でした。そのため、再度要出典範囲指定を行いました。--Taiwaan 2009年6月14日 (日) 03:15 (UTC)[返信]
名誉学位なのですから学位の種類がはっきりしない現時点では要出典範囲をつけるよりも学位の種類を除く方が適当と判断し編集いたしました。--Tiyoringo 2009年6月14日 (日) 04:15 (UTC)[返信]
コメント Tiyoringo会話 / 投稿記録 / 記録さん、コメントありがとうございます。編集の趣旨、了解いたしました。
なお、この件に関してより詳しい情報をお持ちの方は、本文の記述をより正確にするためご協力のほどよろしくお願いいたします。--Taiwaan 2009年6月16日 (火) 01:06 (UTC)[返信]

憶測の掲載について[編集]

2007年1月22日 (月) 08:06のじんさんによる投稿は、ウィキペディアへの掲載に値しないと思います。そもそもウィキペディアは憶測を載せる場所ではありません。「越後村上藩の下級武士だった家」とするもとの記述と、祖父以前のことはまったくわからないとするじんさんの記述は、明らかに矛盾します。前の記述が誤りだと適切な資料によって示してください。Kinori 2007年1月22日 (月) 08:44 (UTC)[返信]


系譜の項、 「恒の父祖との繋がりは明確にされていない。[5]。その理由のひとつに、対外的に公表されている小和田家の系図が恒の祖父である金吉以降のものである 、というものがある。」 とありますが、公表されていない家系図が存在し、それを小和田家が対外的に示すことを憚っているという記事情報は存在するのでしょうか。その記事が存在するのであれば、出典元を示してください。

また、 「一般的には、金吉は村上藩の下級武士である小和田匡利という人物の三男とする説が有力である[6]。 早世した金吉の職業が税務署員という公務員であり、また、村上藩「種川の制」の収益で創設された旧藩士子弟の育英制度の一員であったこと、下級武士の名簿でもある村上鮭産育養所の漁業権者名簿に金吉の名前が明記されている[7]こと、恒の父の穀夫が 国立の高等教育機関であり、広島大学教育学部の前身である広島高等師範学校に進学しているという事実からもこの説が妥当ではないかと考えられている 。」 金吉氏が税務署職員であったこと、また金吉氏の息子毅夫氏が国立の高等師範学校に進学したことと、小和田家の先祖が下級武士であったことの推測の根拠とは何ら関係の無いことです。 この記事の記述は、wikipediaの柱である「ウィキペヂアは中立的な観点に基づきます」に反していると思われます。 根拠のないご自分の意見や推測を述べるのではなく、確かな根拠となる出典元を記してください。 --爺ウソ検証 2008年12月13日 (土) 06:56 (UTC)[返信]

細部の編集について補足[編集]

家族の名前までは許容範囲であると思い、掲載しました。妻由美子氏は、日本ユニセフの現職理事であり、双子の娘さんたちと同じように「一般人」とすることには無理があると思いますから、項目無しのリンクを付けておきましたが、項目が必要ないということであれば、リンクは切ってください。--つくば 2007年3月11日 (日) 14:15 (UTC)[返信]

あと、他の皇族外戚の項目ともバランスが取れていない点、「小和田家のみ、なぜ家族の名前の掲載がだめなのか」の点も説明が無いので、掲載をいたしました。削除依頼された方は、ご説明ください。--つくば 2007年3月11日 (日) 14:28 (UTC)[返信]

「小和田家のみ」ではありません。これ以上の議論は削除依頼もしくは削除の方針のノートでお願いします。強行記載はおやめください。--端くれの錬金術師 2007年3月11日 (日) 14:47 (UTC)[返信]
川嶋辰彦氏をご覧ください。削除依頼での議論はすでに終了しているようにお見受けいたします。ご自身のノートにもご意見を書きこんでおきました。強硬な記載・巻き戻しはおやめください。強硬姿勢ではなく、話し合いをいたしましょう。--つくば 2007年3月11日 (日) 14:54 (UTC)[返信]
端くれの錬金術師様による編集合戦と、議論以後の編集で保護されてしまったのは残念でした。誰も小和田氏関連のみ一括して削除依頼が出ていることに疑問を持たなかった事にも残念でした。皆様の議論が一般的に見て普通である記載となるよう進むことをお祈りしております。失礼いたしました。--つくば 2007年3月11日 (日) 16:01 (UTC)[返信]

外部リンクについて[編集]

ゆかりの地村上のリンクは私の環境では何も表示されないのですが、他の方の場合ごらんになることができるでしょうか。--Tiyoringo 2007年12月8日 (土) 15:24 (UTC)[返信]

閲覧することができます。--Flénu 2008年12月9日 (火) 22:53 (UTC)[返信]
どうやら一時的に見れなかっただけのようです。--Tiyoringo 2009年4月11日 (土) 10:39 (UTC)[返信]

[幼児教育]All About  雅子さまが受けられた小和田家の教育方針 の外部リンクは、小和田恒氏本人とは関係のないことだと思います。小和田家の教育方針について述べられているサイトをリンクする必要性はないと思いますが、皆さんはどうお考えでしょうか?--えすかる5 2009年4月11日 (土) 10:24 (UTC)[返信]

内容を全て見ましたが雅子妃には関連性のある内容ですが小和田氏に関してはあまり氏を理解するのに必要不可欠なサイトではないように思えます。内容を元に脚注として本文に組み込む必要もあまり感じられませんですし。--Tiyoringo 2009年4月11日 (土) 10:39 (UTC)[返信]

脚注[編集]

系譜などは必要でしょうか?[編集]

小和田恆という個人の項目に,小和田家の系譜などの情報は無用と思いますが,いかがでしょうか。--Zyugem 2009年4月6日 (月) 10:46 (UTC)[返信]

あってよいと私は思います。雅子妃のページに系図があるのは当然ですが、系図は江頭豊のページにもありますし、ならば小和田恆のページにあってもおかしくないと思います。それに、娘が宮家に嫁いだ以上、完全に個人と考えるわけにもいかなそうです。--Nazki rhetorica 2009年4月6日 (月) 11:26 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。ちょっと説明が不十分だったかも知れません。親族関係を説明する系図は(なくてもいいとは思いますが)あってもいいものだと思います。ところが先祖がどこどこの武士だったとか,先祖の出自を記事内容に記述するのは問題と思います。たとえ公人に近い私人であっても個人の記事内容に本人の評価と関係しない「家系」の話題を載せるのは行き過ぎで問題があるのではないかと考えたのです。(ご指摘の江頭豊の内容についても同様に問題があるのではないでしょうか。)特にまだ存命中の人物に関わる記事ですし,たとえお亡くなりになっていたとしても歴史上の人物にするには100年早いと思います。--Zyugem 2009年4月6日 (月) 11:53 (UTC)[返信]
あー、系図じゃなくて系譜の節の文章のことを仰ってたんですね。あの部分に関しては、行数も長くてバランス悪いと私も思いますが、だからと言ってバッサリ消しちゃうのはどうかなあと思います。どうかなあというのは、何らかの関連がある以上一旦消したとしても復帰させる人が出てくるだろうし、出典の添えられている箇所を切ってしまうのは方法論として最善のやり方ではないだろうなーっていうことです。なので、文章を整理してもう少しスリムにまとめるという方法をとるのが良いのではと思います。文章を整理すればおそらく違和感なくなりますよ。あと、系図の下に文章部分を持ってくるとか、色々工夫できるところはあると思います。--Nazki rhetorica 2009年4月6日 (月) 13:21 (UTC)[返信]
系譜の項目は,完全に個人と無関係だと断言するのはちょっと難しいですよね。でもこの記事は個人のことですので,個人に本質的には関係しない家系とか先祖とか出自にこだわるような内容は避けたいと思います。せっかく書かれた文章を消すのは難しいですので,ちょっと表現方法や文章などを考えてみます。--Zyugem 2009年4月6日 (月) 16:53 (UTC)[返信]

ここ最近のIPが221から始まるIPユーザーによる編集が,どう読んでも小和田氏個人の説明に必要不可欠とは思えない,直接本人とは関係ない事項にまで及んでいることを憂慮しています。一連の内容については十分に必要性を精査し,文章内容を大きく改める必要があるかと思います。編集の際にはWikipedia:存命人物の伝記や関連するガイドラインを準拠するのは当然として,加筆内容が本当に必要なものか,内容が妥当かどうかなど,十分に検討しましょう。--Zyugem 2009年4月8日 (水) 17:59 (UTC)[返信]

小和田恆氏個人とは直接関係しない「系譜」の内容を,大きく削除編集します。もしそれが重要で価値があるとすれば,それは「小和田家」という家系にとって興味を惹かれる記述内容なのであって,小和田恆氏個人と関係するかどうかは別の問題となります。重要で価値があるのなら「小和田家」という記事を作ってそちらで記述する方がよいでしょう。このままでは個人に関する記事としては内容が不適切だと思うのです。--Zyugem 2009年4月8日 (水) 19:45 (UTC)[返信]

小和田恒氏の学位論文の提出の件[編集]

Zyugemさんは、小和田恒氏が学位論文未提出であることは公的に明らかではない、と仰られていますが、1993年1月19日の皇室会議に提出された資料の小和田恒氏の経歴の中で、「ケンブリッジ大学院修了(論文未提出)」と記載されています。皇室会議という公の機関に提出された資料に明確に論文は未提出である、と記されているのです。 その皇室会議に提出された資料は、渡辺みどり著『美智子皇后と雅子妃 新たなる旅立ち』のP283からP302までに載っています。Zyugemさんが小和田恒氏の学位論文が未提出であることはソースが不明であるというのは、明らかな事実誤認です。 小和田恒氏が学位論文が未提出であるということは事実でありますので、記事を元通りに直していただけませんでしょうか。--Osyagiri 2009年7月21日 (火) 06:59 (UTC)[返信]

出典の詳細,了解しました。書籍からの出典でしたら渡辺氏の著作を出典として示された方が良かったと思います。
ところでその学位論文の提出の件の記述ですが,特に明記するほどの特筆性はありませんし,また中立的観点からも書かない方がよいと考えます。なぜなら,まず他の個所の記述から学位がケンブリッジから授与されていないことが読みとれるので,学位論文を提出していないことが明らかであるということ。また,大学院で学んだ後学位申請せずに終了することは,小和田氏に限らず日本でも世界でも特に人文系では(単位取得退学という形で)よくあることなので,この件は特筆性がないからです。小和田氏についてだけわざわざ書くのは他の学者の記述とバランスが取れません。特に事情を知らない読者が否定的な評価を想起しかねない,誤解する可能性がある表現は中立性の観点からも避けたいと思います。--Zyugem 2009年7月22日 (水) 17:26 (UTC)[返信]

関連項目の追加について[編集]

小和田恒氏の先祖ではなかったかと推測されている小和田兵五郎という人物は、村上藩の同心(足軽)であったようです。この兵五郎が小和田氏の先祖であるという確証はありませんが、もし小和田兵五郎が小和田恒氏の直接の先祖であるとするならば、足軽を士分とは認めなかった藩の方が多数でありますので、関連項目に「士分」を追加しておきました。--林清兵衛 2009年11月4日 (水) 06:07 (UTC)[返信]

系譜の項の説明について[編集]

小和田貞左衛門が小和田恒氏の先祖であるとの確証は無いのに系譜に名を記する必要があるでしょうか? 様々な文献で村上城保存育英会会長や村上市史編纂室長が小和田家の系譜は定かではなく、小和田金吉からしか分かっていないと語っておられます。ソース付きで編集を加えたところ、差し戻されてしまいました。 現在の記述は不正確です。--Marumarumorimori2015

系譜を作成された画面が拡大し、カテゴリや言語間リンクにまでおよび、エラーメッセージが出現したため差し戻しをおこないました[2]。編集された内容に関しては疑義はありませんので、注意して編集をお続けください。失礼いたしました。--DRKAWA 2011年10月23日 (日) 09:17 (UTC)[返信]

DRKAWAさま、ご丁寧な回答ありがとうございました。--Marumarumorimori2015 2011年10月23日 (日) 09:27 (UTC)[返信]