ノート:宮城県仙台第一高等学校

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ナンバースクールの意義が違います。 ナンバースクールは、旧制の中学からある学校ですので 仙台三高は入らないと思います。 ナンバースクールは以下の通りだったかな? 旧制宮城県第一中学(一高)、第二中学(二高)、第三中学(古川高)、第四中学(石巻高)、第五中学(佐沼高)、第六中学(築館高)

発起人制度[編集]

「発起人制度」は昭和56年の規則改正以前からありました。この制度自体は学園紛争の置き土産であり、改正以前の生徒手帳には総会と生徒会(と各委員会)からなる組織図が載っておりましたが、総会以外の部分は破線で囲まれていて『凍結中』との但し書きがありました。「発起人制度」はこの状況から生まれたものであり、最終的には総会ですべてが決まる「総会オンリー制」と呼ばれる直接民主制であったと記憶しております。よって生徒会長は存在せず、総会議長とその執行部という肩書きのみがありました。ところで「総会オンリー制」では定足数不足のため総会が流会となることがほとんどで、実際に学園祭が時間切れのため直前で中止となった(一高祭流産)こともあったため、総会の権威を保ったまま以前の生徒会と委員会を新しい形で復活させようというのが昭和56年の規則改正の趣旨であったように思います。ところが、規則改正後の最初の総会において、生徒会側がすべての決定権を総会にゆだねることを宣言したため、結局は直接民主制の状況が続く事態となりました。なお、昭和56年の規則改正では委員会制度復活による「発起人制度」の肩代わりという意図はあったものの「発起人制度」の廃止には至らずその後も存続しているものと思われます。

歌詞[編集]

第一応援歌の歌詞が書かれていましたが、著作権上問題になる可能性があるので一旦消しました。作詞者の死後50年が経過しているかどうか確認してから再度掲載してください。--mochi 2005年6月20日 (月) 19:24 (UTC)[返信]

この後校歌が書かれていますが著作権は問題無いのですか?削除依頼を掛ける準備をします。--目蒲東急之介 2007年9月3日 (月) 13:54 (UTC)[返信]

団長名簿に関して[編集]

 個人情報の取り扱いの観点から消去いたしました。--211.10.64.113 2005年12月3日 (土) 04:54 (UTC)[返信]

井上成美[編集]

こんにちは。ちょっと質問させていただきたいのですが、最後の海軍大将井上成美は仙台二中だと思っていたのですが、仙台一中にも在籍していたのですか?--Keydaimon 2006年12月24日 (日) 20:49 (UTC)[返信]

ご返答がないので消しておきます。間違っていた場合は復活させてください。--Keydaimon 2007年2月17日 (土) 06:13 (UTC)[返信]
二中への在籍記録もあるようなのですが、我校のOB名簿に名前があります。

私の在校中、軍から派遣された横暴な教練官と揉めて転校した生徒が居たという件でお名前を聞いたような覚えもあります。 いずれにせよ、名簿に名前がありますし、実に一高生らしいまっすぐな正義感の発露がみられるエピソードともとれますし、戦後の身の処し方など、氏の生き方にも合致するので、興味深いエピソードかと思います。 時間がとれてから、少し資料を当たってみようと思います。


 『仙台一高同窓会会員名簿』によると井上成美氏が入学されたのは明治35年、卒業は40年となっております。宮城県第二中学校(現在の仙台二高)が創立されたのは明治33年であり、それ以降一中分校の学生が二中へと移っていったとの記述が『仙台一中・一高100年史』にあります(当時、一中は南六軒丁と勾当台通に校舎が存在し、後者は分校と称されていた模様)。  しかし、井上氏が一中分校に入学し、それから二中へと移っていったのか、それとも二中へ入学し、一中とは関係がないのか、まだわからない状況なので、断定的な判断はできませんが、一中分校から二中へと移った可能性があることをご報告申し上げます。

故人の表記[編集]

Wikipedia:表記ガイド より「故人において、人名の前に故を付けたり、人名の後に(故人)や(物故者)を付けたりしない」--NTFS 2008年1月11日 (金) 16:27 (UTC)[返信]

学校の呼称[編集]

「エテ高」「にこを」は、身内の間もしくは双方の公的な罵り合い以外で使われることはあるのでしょうか?--133.38.232.176 2013年4月4日 (木) 06:26 (UTC)[返信]

著名な卒業生[編集]

一覧を除去しました。ノートページは表に書けないからと言って一覧を置く場所ではありません。目的外利用はおやめください。--アルトクール会話2017年3月3日 (金) 13:33 (UTC)[返信]

コメント ウィキペディアではプロジェクト:学校で出身者についての記述については「赤リンクは載せない」となっています。出身者とする人物ページがない場合はどう頑張っても記載はできないと考えてくださって結構です。逆にいえば、人物ページがWikipedia:独立記事作成の目安を満たす形で投稿され、かつ本人が出身者であることが情報源が示されて書かれていれば掲載できる根拠になります。手順としては「人物記事があること」、「人物記事で出身者であることが信頼できる情報源によって明確にされていること」、そのうえで「学校のページに記述する」になります。申し訳ないですが掃苔録では信頼できる情報源とはいえない(個人的なブログ、WEBページと同じ扱い)ので、別の情報が必要になります。--アルトクール会話2017年3月5日 (日) 08:23 (UTC)[返信]
コメント 大須賀乙字ですね。ただ、人物ページにおいても大須賀氏が「出身者であって何年卒か」というのはわかりかねます。出典がその部分に明記されていないからです。おそらく、参考文献になっているどちらかに出身学校について言及があるんだと思いますが、「どっちにそれが書かれているか」がわからないとリンクさせるのは難しいかもしれません。
あと、ここで情報源として示されている昭和44年の同窓会会員名簿というのは「どこで」調べることができるでしょうか。これはWikipedia:検証可能性という方針に従うものです。例えば公立図書館で閲覧できるとかであれば問題ありませんが、一部の人しか知りえない内容(例えば、同窓会の人に見せてもらった同窓会名簿とか。一般公開されていない情報)であればダメです。これはどうでしょうか。--アルトクール会話2017年3月6日 (月) 13:14 (UTC)[返信]
コメント 個人情報の類になるので、例えば高校に出向いて「資料として閲覧ができる」のであれば検証可能な情報として扱っても良いですが、これが「同窓会生に配布している資料」であればダメということです。つまり、どこかにアクセスすれば確認できる情報ならOKですが、同窓生だけが持ち得る情報、つまりは学校や県立図書館に収められていない情報であればダメということです。学校に行って調査すれば確認できる『と思う』ではダメです。自分で調査して閲覧『できた』情報でなければいけません。
何回生(何年卒)という情報は情報があれば記載すればよい話で、そういった情報がわからないから年齢から計算してこの年に卒業した『だろう』で編集してはダメだし、参考文献もない(人物ページ側で参考文献がないという意味のほうが強い)人物はそもそも一覧に載せることはできません。「卒業した」という情報だけしかわからないなら、何回生とか何年卒といった記述をする必要はありません。
それを踏まえてもう一度聞きますが、その同窓会会員名簿は、同窓会生でなくとも検証が行える環境にある資料ですか?同窓会生というのは、有料オンライン文献を読むための会員とはわけが違います。--アルトクール会話2017年3月8日 (水) 14:51 (UTC)[返信]

当初あなたをそもそもの執筆者と勘違いして書いていたので、以前のは全部削除しました。--Ultranium会話2017年3月10日 (金) 13:16 (UTC)[返信]

同窓会会員名簿は門外不出の秘本ではないのだから、誰でも学校に出向いてウィキペディアに載っている貴校の著名人の卒業年を検証させて欲しいと言えば断られる理由はないでしょう(名前と住所と卒業年くらいしか載っていないのだから)。大学図書館の方がはるかに難しく、卒業生であっても入館できないでしょう。杓子定規でなくケースバイケースで考えればそんなものです。--Ultranium会話2017年3月10日 (金) 14:01 (UTC)[返信]