ノート:安藤昇

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編集方針についての議論[編集]

項目の内容がわかりづらくなるので、なるべく本文に固有名詞を組み込むのはお控えください。125.2.188.44 2006年3月9日 (木) 11:04 (UTC)[返信]

固有名詞を入れない客観的な基準が不明。戦後の風景として捉えられる存在であるし、また任侠史においても「花田瑛一」や「上州共和」は不可欠。また、伊達秋雄が未だ書かれていないのも不思議。説明を乞う。服部半 2006年3月9日 (木) 22:59 (UTC)[返信]
ここは任侠史を語る場ではなく、「安藤昇」についてなるべく「わかりやすく」説明する項目です。森田雅、花形敬、安部譲二の三氏に比べ、花田瑛一氏は一般的知名度が圧倒的に低いため、安藤昇をわかりやすく説明するにあたっては不適格でしょう。また、田中政吉、高橋岩太郎、松井源内、瀬川康之、三田和夫、伊達秋雄、今井弘、上州共和といった一般に馴染みのない固有名詞を多数文中に出されていますが、それらを文中に組み込むにしても説明が不足しており、安藤昇の項目上でそれらの名前を出す必然性が何処にあるのかが見出せません。それらについてどうしても言及されたいのなら、安藤組の項目に書き込んだ方がよろしいのではないでしょうか。125.2.188.44 2006年3月10日 (金) 00:57 (UTC)[返信]
誤解されているようですが任侠史を語るつもりはありません。「安藤」自身が歴史上の、少なくとも民間の稗史の人物であるという点に留意ください。一般的知名度が圧倒的に低いためとありますがこの客観的な基準はどこにあるのですか?現在森田雅の著作についても絶版ですし。また既存のヤクザ社会との接点が無くして、かれの立場が説明できるのでしょうか?また辞書とは「なじみのない」名詞を出すことにタブーを持つべきでしょうか?理解に苦しみます。また失礼ですが伊達秋雄を知らないと言ったら恥ですよ。(貴兄が知っている、知らないという意味では無く.勿論、一般常識としてですよ。^^;)少なくとも教科書に砂川裁判が説明されていない事はまずありませんし。あとチルダは入れましょうね。服部半 2006年3月10日 (金) 02:35 (UTC), 2006年3月10日 (金) 02:50 (UTC)[返信]
馴染みのない言葉が出てくるということは、読んでいる人間は理解できないということ。読んでいる人間が理解できないということは、辞書としては全く無意味であるということです。どうか、「わかりやすい」文章を書くことを心がけていただきたく。はっきり言いまして、貴方の視点は一般人より大幅にズレております。「花田瑛一」「花形敬」「修羅場の人間学」でそれぞれgoogle検索なさってください。いかに花田瑛一氏が無名の存在であるか、よくおわかりいただけると思います125.2.188.44 2006年3月10日 (金) 03:08 (UTC)[返信]
馴染みのない言葉という範疇には{馴染みはないが、意味は分かる}言葉と、{馴染みはなく、意味が不明である}という2つのカテゴリーが含まれます。人名は確実に前者に含まれます。勿論、その人物の思想や背景については説明は必要ですが、googleで調べなくとも、ネットで検索しなくても調べる手段は多様にあります。この点google検索は一般人の視線であるとされる(少なくともそう見える)説明には肯首いたしかねます。少なくとも世間をそこまで馬鹿には出来ない。(そうではないのなら、「読んでいる人間」の学習能力、知識欲についてなぜ言及しないのだろう?)
「いかに花田瑛一氏が無名の存在であるか、よくおわかりいただけると思います」とありますが、翻って無名の存在である事とモノゴトの本質と何の因果関係があるのでしょうか?繰り返しますが少なくとも世間をそこまで馬鹿には出来ない。あとチルダは入れましょうね。
あと「貴方の視点は一般人より大幅にズレております。」とありますが、おかげで安心しました。ありがとうございます。
服部半 2006年3月10日 (金) 03:35 (UTC), 2006年3月10日 (金) 03:36 (UTC), 2006年3月10日 (金) 03:39 (UTC), 2006年3月10日 (金) 03:47 (UTC)[返信]
何が仰りたいのかよくわかりません。三行にまとめていただけますか。125.2.188.44 2006年3月10日 (金) 04:22 (UTC)[返信]
三行にまとめますと、
1.複雑な語彙や専門用語でない場合、(例えば人名の場合)は前後の内容を難渋にするもので無ければ読む人の学習能力、知識欲の向上のためにも記述しても差し支えないのでは?
2.無名の存在である事とモノゴトの本質と何の因果関係があるのでしょうか?
3.あとチルダは入れましょうね。服部半 2006年3月10日 (金) 05:31 (UTC)[返信]
1.難渋極まりなくなっているからこそ言っているのですが。 2.仰っている「本質」の意味がわかりませんが、物事にわかりやすく説明するのに、関連の中でなるべく有名なものを引き合いに出すのが「普通の」姿勢でしょう。違いますか?125.2.188.44 2006年3月10日 (金) 06:45 (UTC)[返信]

編集方針についての議論(2)[編集]

何が仰りたいのかよくわかりません。新聞・雑誌を読んだ場合「知らない人名」が出てきた場合に難渋になるのでしょうか?社会通念上,人間の役職他が出ていれば読む人間が理解できますが。あなたは違うのでしょうか?お答えください。
また、googleが「有名」な人物の指標というご意見ですがマスの意識をgoogleが総括できるのでしょうか?そもそも、ネットに垂れ流しの内容に信頼が寄せられるのでしょうか?お答えください。 仮にgoogleが信頼できるとしてその情報は何処からきたのでしょうか?マスコミですよ。具体的には安藤の著作でヤクザジャーナリズムですよ。例えば花田瑛一を例にすれば安藤の著作で花田の文字がないものはありません。貴兄は

  • 安藤昇本人やその周辺が著作から大衆へoutputした情報(安藤組の幹部の名称)と
  • 安藤の著作他から得た(幹部の名称)を二次的にサーバに記録した塊(すなわちgoogle)と

比較した結果その内容は全く無視した状態で後者の「記録された数」が最も重要であると見ている訳です。 辞書という中立公平な立場において貴兄にしか分からない「わかりやすさ」という答えはやめて頂きこの両者の比較の点からなぜ前者、すなわち「ソース」を軽視するのか具体的にお答えください。ちなみに本質とはこの点です。
しかし、それ以前に安藤昇や森田雅本人が花田瑛一を安藤組の筆頭に数えているのだから入れればよいのではありませんか?それと貴兄の説明ででる「わかりやすさ」という語感は明瞭だが具体的指針のない編集方針について具体例を挙げていただけますか?「普通」という説明はもう聞き飽きましたのでよろしくお願いします。服部半 2006年3月10日 (金) 21:38 (UTC), 2006年3月10日 (金) 21:39 (UTC), 2006年3月10日 (金) 21:50 (UTC), 2006年3月10日 (金) 21:52 (UTC), 2006年3月10日 (金) 21:53 (UTC), 2006年3月10日 (金) 21:56 (UTC), 2006年3月10日 (金) 22:01 (UTC), 2006年3月10日 (金) 22:12 (UTC), 2006年3月10日 (金) 22:21 (UTC), 2006年3月10日 (金) 22:29 (UTC), 2006年3月10日 (金) 22:34 (UTC), 2006年3月10日 (金) 22:36 (UTC), 2006年3月10日 (金) 22:38 (UTC), 2006年3月10日 (金) 22:39 (UTC), 2006年3月10日 (金) 22:53 (UTC), 2006年3月10日 (金) 23:26 (UTC)[返信]

わかりました。一向に私の言いたいことを理解されないようなので、はっきりと指摘させていただきましょう。
  • 松井源内とは何者か?
  • 瀬川康之とは何者か?
  • 下山事件とは一体何か?
  • 下山事件以来の大捜査網を敷いたという根拠は何か?
  • 三田和夫とは何者か?
  • 三田和夫が見舞われた劇的な運命とは何か?
  • 伊達秋雄とは何者か?
  • 安藤昇は伊達秋雄と出会ったことによりどんな変化をもたらされたのか?
  • わざわざ加藤泰を「情念のローアングル」と評した意図は?
  • 「懲役十八年」のモデルを推測する意図は?
  • 今井弘とは何者か?
  • 上州共和一家とは何者か?
貴方の文章は、一読しただけでこれほどの疑問点を呼び起こさせ、且つその疑問を解決する手段を全く講じていない、非常に独りよがりで説明不足甚だしい悪文です。現在の版の文章でさえこれなのだから、手を加える前のもっと固有名詞の多かった時など言わずもがな。
ウィキペディアはあくまで事典であり、マニアックな情報を披露する場ではありません。お忘れなきよう。125.2.188.44 2006年3月11日 (土) 00:37 (UTC)[返信]
まったく何が仰りたいのかよくわかりません。人生いろいろ、意見もいろいろですから。ただし私の疑問点にお答えいただけなければ貴兄への信頼性を担保できません。信用できません。
「項目の内容がわかりづらくなるので、なるべく本文に固有名詞を組み込むのはお控えください。」
これは、あなたの発言です。自分から分からないと言っておいて、ふたたび「具体例」を提示する意味がどこにあるのか、さっぱりわかりません。
  • 分からない場合もあるから、記事の編集方針を決めましょうという事で議論したわけですよね。
だったら質問に答えて下さい。
また語彙の疑問は、あなたが分からないのでしょう。(トキドキ、アナタノ発言には「書き手」のあなたが消えて、「みんな」というイメージで語られますが?ビリー・ミリガンみたいですな)。個人のノートに記入して相互理解を求めるべきで、「ノート:安藤昇」は記事の編集方針を検討すべきでしょう。でなければ、ノートから出て行くべきです。
210.150.101.20 2006年3月12日 (日) 22:49 (UTC), 服部半 2006年3月12日 (日) 23:09 (UTC)[返信]
私の言いたいことは一つだけです。
「誰も知らないようなマニアックな単語を、ろくに説明もしないまま事典の項目に載せてはならない」
それとも、貴方の書いた項目内容は、私のそれに比べてより一般的であると仰りますか?それならその根拠をしっかりと示していただきたく。125.2.188.44 2006年3月13日 (月) 00:23 (UTC)[返信]
アナタと自分を比較しようと私は一度も考えた事はありません。私はこれ以降の「明確な編集方針」のために時間を使っているのです。私自身が「マニアック」であると認めるとして、議論を続ける努力ができるなら先程の質問に答えてはもらえないでしょうか?
このお願いは私のためでなく客観性を欠く編集方針から公正な立場を担保されるべき「安藤昇」の記事を書く者全員からのお願いとおもってください。あなたに質問して「答えてください」とお願いしてこれで3回目です。お願いという意味を受け止めて下さい。我々はそもそも全員が公平な立場なのですから。服部半 2006年3月12日 (日) 23:09 (UTC), 2006年3月13日 (月) 01:28 (UTC), 2006年3月13日 (月) 02:05 (UTC), 2006年3月17日 (金) 22:33 (UTC)[返信]
『固有名詞を入れる、入れない』は(ある意味)どうでもいいことでしょう。ポイントは『前提知識の無い読者でも理解できるかどうか』です。文中に知名度の低い人名が出てきても、必要な情報が同時に存在していればそれほど問題ではないわけです。
例えば、ある絵画についての記事で『ナントカ社の社長である山田太郎が、この絵画についてほとんど知識を持たなかったにも関わらず高額で落札し、日本企業の横暴と非難された』と述べるのは問題ないと思います。しかしここで『山田太郎がこの絵画を落札して日本叩きが起きた』としか書かなかったら、何のことか分からないでしょう。読者のために、そういう点での配慮が必要なのです。
そう言った視点で服部半さんの編集を拝見しますと、読者に(一般的でない)前提知識を要求する部分があるように思われます。なお、これは『花田瑛一の知名度が安部譲二などと比較してどうか』とは関係ありません。
参考までにWikipedia:専門用語には解説をWikipedia:読者に役立つ記事を書くも御一読下さい。 -- NiKe 2006年3月13日 (月) 02:49 (UTC)[返信]
NIKEさんの仰る意味も良く分かりません。さっぱりです。
具体的には「山田太郎さん」の例は名詞の修飾が付いていればよいというようにも見えますし、逆に下の文では「記事を読む前に」知識のある人物が該当するように読み取れます。
そもそも、意見が分かれた場合は編集方針についての意見交換が必要です。ここはその議論をするのが目的の場です。社会通念上、感想である「・・・と思われます」を書くべき場所でもありません。
議論をしないのならノートに書き込む必要はありません。文意を読み取れない苦情は貴方と私の問題です。「ノート:安藤昇」で書くべき問題ではありません。私のノートに書いてください。また他人の前提知識(=意識)についてNIKEさんが言及していますが、では貴兄はその内容を具体的に説明できるのですか?曖昧な基準はもう充分です。
NIKEさんも「配慮」と言われるなら、主観的に総括される以前に私への(それ以前にこのWIKIPEDIAを構成している皆さんへの)真摯な態度を希望します。具体的に議題の検討をしないなら、客観的な編集基準についての討論を希望しないなら、邪魔なだけです。私としてはここまで来ても何等の収穫がない状況でしたらほぼ無駄な行為に時間を費やしたとしかいえません。服部半 2006年3月12日 (日) 23:09 (UTC), 2006年3月13日 (月) 03:18 (UTC), 2006年3月13日 (月) 03:34 (UTC), 2006年3月13日 (月) 03:39 (UTC), 2006年3月13日 (月) 03:49 (UTC), 2006年3月13日 (月) 03:59 (UTC), 2006年3月13日 (月) 09:05 (UTC), 2006年3月13日 (月) 09:09 (UTC)[返信]

編集方針についての議論(3)[編集]

自分は暴力団の歴史にはそれほど詳しくはありませんが、安藤昇の項目はよく書けていると思いました。知らない者からすれば意味不明な人名の羅列に見えるかも知れませんが、安藤昇について詳しく調べようという者にとっては、かなり有用な手がかりの多い項目になっていると感じます。いろいろ出てくる人名もおそらくこれから執筆・加筆されていくことでしょうし、百科事典の一項目として不適当ということはできないと思います。マニアックな事項を説明なしに掲載してはいけないのであれば、近年の細分化した各学問分野における(ほとんどマニアックと呼ぶべき)諸概念もまた、掲載してはいけないことになってしまいます(最先端の学術概念をどんなに判りやすく記述したとしても、理解するにはある程度の前提知識が必要なのです)。
また「掲載してはいけない」という後ろ向きの姿勢はウィキペディアの精神に即したものではないでしょう。願わくば「どのようにすれば現在の情報量を損なわずに判りやすい項目となるか」という建設的な議論がなされますよう。(服部半さんは誤解されているようですが、Nikeさんもそうしたご趣旨だろうと拝察いたします。)shimoxx 2006年3月13日 (月) 03:53 (UTC), shimoxx 2006年3月13日 (月) 15:26 (UTC)[返信]

「理解するにはある程度の前提知識が必要」というのは確かにそうですが、服部半氏の場合それが度を越しているからこそ、こうして問題としているわけで。202.248.88.172 2006年3月13日 (月) 03:58 (UTC), 125.2.188.442006年3月13日 (月) 14:47 (UTC)[返信]
うぅ、しまった。自分が勘違いしていたことを皆さんにお詫び申し上げねばなりません。上で「安藤昇の項目はよく書けている」と述べましたのは、[1]を元にした発言です。お二方の議論を十分に踏まえずに横からいらぬ口をはさみまして誠に申し訳ございません。このような不始末のお詫びとしては不十分でしょうが、上の自分の発言は取り消ししておきます。重ね重ね申し訳ありませんでした。勝手な希望といたしましては、お二方がなるべく建設的な方向で議論を重ねていただきますよう。--shimoxx 2006年3月13日 (月) 15:26 (UTC)[返信]
Shimoxxさん、建設的な意見をとの事、ご忠告ありがとうございます。私もこれ以上の議論を続ける意思の無い人間にヤイノヤイノ言うつもりはありません。記事に対し編集する一方で、返事を頼んだ私には無視を繰り返す。相手の意思がわかりました。これを読み相手方がまったく質問の返事が無い場合、明確な編集方針が無いという結論の到達に辿りつく他ありません。但、その場合、編集方針は自分で決めさせて頂きます。残念です。なお、相手のノートにもこの記事を送信しています。服部半 2006年3月17日 (金) 22:33 (UTC)[返信]


何度も言いましたように、服部半氏の文章は非常に読みづらく、何故読みづらいかというと、安藤昇を説明するにあたって必要のない固有名詞を、説明もなく無駄に組み込みたがるからです。
服部半氏は、『人が理解できる文章を書く』という辞書・事典を書くにあたっての大前提が全く理解出来ておりません。編集方針を議論する以前の問題です。125.2.188.44 2006年3月18日 (土) 00:45 (UTC)[返信]

ここまで読んで頂いた方のために(自己満足でもありますが)最後に書いておきます。下山事件についてwikipediaに記事がありました。ついでですので調べてはいませんが、以下だらだらと。
  • 大捜査網を敷いたという説については安藤本人の「やくざと抗争」に。
  • 加藤泰を「情念の」と評した意図はとくにありませんが、「懲役十八年」のモデルの件については笠原和夫の昭和の劇が原典です。
  • 新宿の顔役である松井源内氏は桜井林蔵という親分の流れの人物ですが松井源一郎という名前でドキュメントを書いておられます。「任侠の祭り」というタイトルで表紙は毛筆で安藤氏の字ですが最初は知りませんでした。戦前に中村屋の店でラス・ビハリ・ボースと出会った話など興味深い内容です。
  • 瀬川康之は前出の「疵」「修羅場の人間学」安部譲二の「塀の外の同窓会」正延哲士「波谷守之 〈最後の博徒〉への鎮魂歌」を。
  • 三田和夫については元読売新聞の記者でジャーナリストです。安藤組の幹部だった人物を庇ったことで記者を辞めておりますがこの件は三橋の主演で映画にもなりました。大下英治が彼をモデルにしたドキュメントを書いていたと記憶していますが題名は知りません。
  • 週間大衆の「ファッショナブル渡世/吼えろ男たちよ」というエッセイが昔ありましたが、周囲に配慮して実名を極力排除する安藤が珍しく今井弘氏についてはそのまま書いておりました。胸襟を開く仲と見ました。
  • 上州共和一家というのは「跡継」のいない博徒の一家を集めて作った団体です。共和という形式は関東にしかないようです。なお千葉の共和連盟とは別です。
  • 伊達秋雄は法の精神を体現した裁判官として現在まで有名な人物であり、彼の前で断罪される事に安藤の心に一つの決着というか意味を持たせることであったのではと推察します。
あと上のナナシの方にはいうべき言葉は尽くしましたのでとくにありません。服部半 2006年3月17日 (金) 22:33 (UTC), 2006年3月25日 (土) 11:51 (UTC)[返信]
言うべき言葉は尽くした、とのことなので、どうやら私の言いたいことは完全に理解していただけたようです。では、気を取り直して続きを。125.2.215.67 2006年3月25日 (土) 14:06 (UTC)[返信]

ノートの編集について[編集]

発言内容が一部、勝手に更正されたため旧版に戻します。また更新者に対してもノートで意見を提示しております。服部半 2006年7月17日 (月) 07:29 (UTC)[返信]

利用者:Koba-chanの編集(差分)ですね。しかし拝見したところ、署名・タイムスタンプの追加であって、発言内容の校正はなされていないように思われます。 Wikipedia:ノートのページでは投稿に署名をするにあるとおり、署名は推奨されております。--Kotoito 2006年7月17日 (月) 08:40 (UTC)[返信]
構成を組み直しました。見辛ければ、差し戻してください。--KUROSAWA 2006年7月17日 (月) 09:06 (UTC)[返信]

検証可能な出典の明示について [編集]

「1952年(昭和27年)、サンドイッチマンを手配していた東京宣伝社を発展解消し」と書かれてありますが、検証可能な出典の明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年3月24日 (土) 13:56 (UTC)[返信]


「当初は不動産や各種興行など真っ当な仕事を扱っていた(銀座にテーラーも開いている)が、やがて賭博の開帳なども仕切り始め、会社は次第に暴力団の様相を呈してくるようになった」と書かれてありますが、『愚連隊伝説』洋泉社、ISBN 4-89691-408-2のP.62には、「業種は将来の土地ブームを予測した不動産売買、興行などである。もちろん裏営業として水商売の用心棒などもあった」と書かれています。つまり、「設立段階から裏営業があった」と明記されています。検証可能な出典の明示をお願いします--竜造寺和英 2007年3月24日 (土) 18:08 (UTC)[返信]


「これが世に言う「安藤組」の始まりである」と書かれてありますが、「これ」とは何を指すのでしょうか?「東興業の設立」でしょうか?それとも、「賭博の開帳なども仕切り始め」でしょうか?「賭博の開帳なども仕切り始め」でしたら、検証可能な出典の明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年3月24日 (土) 18:08 (UTC)[返信]


「余談だが、一部残党は解散後もしばらく東興業(安藤組)を名乗って活動していた」と書かれてありますが、検証可能な出典の明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年3月24日 (土) 18:08 (UTC)[返信]


「愚連隊となった当初は新宿で勢力を拡大しようとしていたが、敗戦直後の新宿は古豪と新興勢力とがひしめきあう激戦区であったため、やがて渋谷へ転進」と書かれてありますが、検証可能な出典の明示をお願いします。『愚連隊伝説』洋泉社、ISBN 4-89691-408-2のP.64には「外食券食堂の闇切符売りを地回りヤクザ三人との喧嘩を助けたことで、渋谷に地盤を築くことになっていく」という別の理由が書かれています。--竜造寺和英 2007年3月24日 (土) 18:08 (UTC)[返信]


「いわば「子供の町」であった」と書かれていますが、誰が云っているのでしょうか?検証可能な出典の明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年3月24日 (土) 18:08 (UTC)[返信]


「そのためか、1950年代半ばまでは警察も飲食店での揉め事に関知しない「無警察地帯」であったとされ、そこに目をつけたものと思われる」と書かれてありますが、誰が思っているのでしょうか?検証可能な出典の明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年3月24日 (土) 18:08 (UTC)[返信]


「本項では便宜上ヤクザとして扱ったが、安藤には博徒や的屋と認められる組織の所属歴がないため、安藤ならびに安藤組は厳密には『愚連隊』(青少年不良団)と分類する方が正しく、警察関係の資料でもそう扱われている」と書かれてありますが、どの警察の資料を、どこで見ればいいのでしょうか?このままでは、検証できません。私も東興業は暴力団であるが、博徒や的屋ではないと認識しています。ただ、Wikipedia:検証可能性の「方針2」には、「記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)」と書かれてあります。また、Wikipedia:検証可能性の冒頭には、『「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です』と書かれてあります。つまり、例え事実であっても、検証可能な出典の明示ができないものは、記述不可となります。具体的な検証可能な出典の明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年3月24日 (土) 18:08 (UTC)[返信]


「ちなみに警視庁に保管されている安藤組の構成員名簿では、安部譲二(本名・直也)の名前が安藤に続いて2番目に位置している(五十音順で整理されている関係)」と書かれてありますが、どの警察の資料を、どこで見ればいいのでしょうか?このままでは、検証できません。私も安部譲二氏の著作で、「安部譲二氏が安藤組に所属していた」と云う記述を、見ました。しかし、Wikipedia:検証可能性の「方針2」には、「記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)」と書かれてあります。また、Wikipedia:検証可能性の冒頭には、『「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です』と書かれてあります。つまり、例え事実であっても、検証可能な出典の明示ができないものは、記述不可となります。具体的な検証可能な出典の明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年3月24日 (土) 18:08 (UTC)[返信]

そもそも、五十音順に整理・記録されているのであれば、安部穣二さんは安藤昇よりも先に来るので、「2番目に位置している」はずはないのでは? この下り全体が真実性が薄弱であるといわざるを得ない気がします。--Blue08jp 2009年12月3日 (木) 14:27 (UTC)[返信]


「渋谷でつるんでいた事もあったという。根本が球界で寝業師と呼ばれるほど好き放題できたのも安藤等の後ろ盾があった事と無関係ではないだろう」と書かれてありますが、検証可能な出典の明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年3月24日 (土) 18:08 (UTC)[返信]


「俳優として出演していたのは専ら映画だったが、1970年(昭和45年)にはテレビ時代劇新・三匹の侍」にも主演している。監督を務めた五社英雄とは互いに義兄弟と認めた間柄であり、五社自ら自分の映画への出演を安藤に打診していたが、1974年(昭和49年)、東映配給の映画「暴力街」において安藤は江川紘一役で主役を務めた」と云う文章が「エピソード」の章に書かれてありますが、「安藤組(東興業)解散後」に入れました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年3月24日 (土) 19:44 (UTC)[返信]


「その音感は藤純子並であった」と書かれてありますが、検証可能な出典の明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年3月24日 (土) 20:03 (UTC)[返信]


「同年12月2日、安藤昇は渋谷公会堂で「安藤組解散式」を行い、安藤組を解散した」と書かれてありますが、山平重樹『一徹ヤクザ伝・高橋岩太郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2004年、ISBN 4-344-40596-XのP.219には「当日、岩太郎が会場の千駄ヶ谷区民講堂へ赴くと、入口に安藤昇をはじめ、志賀日出也らが並び、丁重な挨拶で迎えてくれた」と書かれてあります。該当箇所を修正していますので、ご了承ください。--竜造寺和英 2007年3月31日 (土) 01:13 (UTC)[返信]


私が2007年5月2日から同年5月4日にかけて、加筆した部分の出典は、山平重樹『一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2004年、ISBN 4-344-40596-Xです。--竜造寺和英 2007年5月8日 (火) 04:07 (UTC)[返信]


「石井福造(後の安藤組大幹部・住吉連合常任相談役)」としました、出典は『愚連隊伝説』洋泉社、1999年、ISBN 4-89691-408-2のP.92です。--竜造寺和英 2007年5月8日 (火) 10:57 (UTC)[返信]


申し訳ありません。帝京商業学校は現在の帝京大学高校でした。出典は帝京大学のHPです。該当箇所を修正しました。--竜造寺和英 2007年5月11日 (金) 13:38 (UTC)[返信]