ノート:大隈重信

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。


大隈重信公が日本で初めての蘭の花の協会を作ったそうです。、第一回の品評会を催した時の写真の原板があります。祖父が関係していたので持っていますがそのときの出席者が分かれば時期も分かると思いますが又詳しく分かったら知らせます。


「人となり」の項[編集]

「極めて合理的な考えを持っており、英雄を認めず、そのためか西郷隆盛を全く認めていない。」とありますが、1)「極めて合理的な考えを持っていた」という逸話が出て来ない、2)合理的な考えを持つとなぜ英雄を認めないことになるのか不明、3)西郷隆盛というあれだけの人物を「英雄を認めない=西郷を認めない」とつながる根拠が不明、という点で問題のある記述ではないでしょうか。「大隈というのはそういう無茶な人だったんです察して下さい」というつもりならわからなくもないですが。--210.141.171.193 2007年6月19日 (火) 09:16 (UTC)[返信]

人となりという節に書かれている一部のことついて[編集]

なぜ、いちいち、誰に嫌われていた・・・、誰に嫌われていた・・・、と書かれておかれなければならないのか。その際になぜ、西郷は・・・、原は・・・、などと書き、さらには彼らの仲間の人間をそれを補強するためにだろうが出し、あげつらって、こんなに嫌われていたんですよ、というようにことさらに書き立てているのか。嫌いだからだろうが、それはちょっと異様な程だ。まず、必ずしもあなたたちと同じ意見ではない人間もいるということぐらいは、わかってもらわなくてはならない。

次に、およそ、政治家のようなことをやっていれば、少なくとも政治上の敵のようなものがいたって、何も驚くようなことではないはずではないか。原敬は政友会だ、また、西郷の西南戦争の後始末では財政的にも苦労したのだから、いろんな感情があったとしても、何もいちいち、ことさらに書いておくことはないようなことだ。

そもそも原敬や西郷を持ち出してくるのはのはなぜなのか。ひょっとすると、原や西郷はこんなに偉い人たちなのに、そういう人たちと仲が悪かったんですよ、そんな人なんですよ、といいたいのかも知れないが、原は原、西郷は西郷で、いいじゃないか。これはもう、誹謗中傷に近いではないか。何かそれこそ政治的なか、何か、知らぬが、意図か思想か信条か何か、絡んじゃってるんじゃないのかと思いたくなってくる程だよ。あなたたちが大隈が嫌いなのは勝手にすればいいんだよ。しかし、これほどのこと(なんか、妨害しただって?)を書くからには、しかるべき出典ぐらいは少しでも添えるのが当たり前じゃないのか。これはいわば一種の公共空間なんだから。すでに言ったように、あなたたちと必ずしも同じ意見ではない人も、いるかもしれないわけだから。そのぐらいのことは理解してくれよ。

じゃ、そこらへんのことどもに留意して、よろしく頼むよ。またもう一度いうが、原は原、西郷は西郷、それでいいじゃないか。

しかし、大体なんでここには、この、人となり、という節があるの?まあ、あってもいいだろうけど。--221.170.19.243 2008年2月23日 (土) 03:12 (UTC)[返信]

追加[編集]

事柄によっては、しかるべき出典をしっかりと十分に示さないのであれば、そのうち削除するよ。

それでも、もし、嫌がらせをしたかっただけだったのなら、削除されるまでの間だけでも掲載されていたから、それでよかったってわけ?--221.170.19.243 2008年2月23日 (土) 03:28 (UTC)[返信]

再追加[編集]

原は政友会と書いたが、仮に、にもかかわらず仲がよかったというのなら、そしたら面白いから書いたらいいんだよ。意外なことに、仲がよかったとかって。もしそうだったのならばね。それなら面白いんだよ。出典を示さなければならないからまず無理だし、ちょっとありえないのかもしれないが。--221.171.23.77 2008年2月23日 (土) 04:11 (UTC)[返信]

大体、大人の男同士で仲がいいも悪いもないだろう。まあ、人となりという節がそういう記述を生むのだろうが、あんまりどうでもいいようなことを書くのはどうかと思う。しかも、これはそれ以外の記述について特にだが、出典も示さずに。信頼に足る出典ぐらい示してもらいたい。--221.170.11.199 2008年2月23日 (土) 05:21 (UTC)[返信]

よろしく。--221.170.19.245 2008年2月23日 (土) 05:30 (UTC)[返信]

Category:日本の貿易立国論者[編集]

  • 東京朝日新聞1888年7月31日1面2段「大隈外務大臣貿易に意を注ぐ」。外務省通商局を促し通商政策を実施、府下の紳商を招き貿易振興について談話。
  • 東京朝日新聞1893年11月3日朝刊1面5段「東方通商協会起る」。荒尾精が上海に事務所を置き、対清貿易振興を目的とする同会を創立するに際し、大隈が賛助している。
  • 「農商工高等会議に於る大隈外相演説筆記」東京朝日新聞1896年10月24日、10月25日。

朝日新聞と読売新聞のデータベースを「大隈重信 貿易」で検索した。これ以外にも「日本の貿易立国論者」に相応しい言動が大隈には存在する。--rshiba 2011年11月20日 (日) 04:11 (UTC)[返信]

  • コメント新聞の談話や通商政策を行った政治家、言動が皆「貿易立国」を唱えたということになれば、大量のカテゴリ該当者が出ますね。これをどう説明するおつもりですかな?大隈ごときが独自の貿易立国論を持っていたとは考えられないし、論じた著書も無い。そこの所、どうなんでしょうか?

まあ、LTA:NIKAIは日本の近代化は全て小栗がやったという思想の持ち主だからカテゴリを付けたと思われるが。--118.10.97.65 2011年11月20日 (日) 19:40 (UTC)[返信]

    • 外務大臣という役職についていた時の公的な行動です。アジア歴史資料センターを「大隈重信 貿易」で検索しても同様な結果になります。研究書としては、角山栄編『日本領事報告の研究―京都大学人文科学研究所研究報告』同文舘出版 (1986/12)が取り上げた世界です。--rshiba 2011年11月20日 (日) 23:31 (UTC)[返信]
  • コメント分かりました。柴崎氏がそこまで推すのなら仕方無いですね。「貿易立国論者」という場合、普通は鍋島候のような人物のことを指すのかと思いましたが。--114.171.164.78 2011年11月23日 (水) 11:17 (UTC)[返信]

大隈和英加筆[編集]

曾孫- 大隈和英は衆議院議員にして医師加筆。国会議員ですから単独記事の作成も進める必要があるでしょう。--2014年12月15日 (月) 01:23 (UTC)

節「大隈重信の公爵陞爵について」の記述[編集]

節「大隈重信の公爵陞爵について」の記述の当否は分かりませんが、論文、あるいは論考として発表すべき内容であって、独自研究であり、ウィキペディアの記事として妥当な範囲を逸脱しています。アカデミックな専門家の間で広く受け入れられている複数の説が存在する、あるいは信頼できる情報源において記述に相違がある場合にはそれぞれを紹介し、必要な場合にはそれぞれの出典について最低限の解説を加える、ぐらいしかウィキペディアではできません。 --KAWASAKI Hiroyuki会話2016年9月20日 (火) 07:30 (UTC)[返信]

数名の早稲田の(当時まだ若い)研究者や爵位辞典の検証結果もトーンが低調で蛇行していますが、結局のところ、国立公文書館が戦前の資料に基づいて「第五類の叙勲裁可書」に分類している、というのが耐え難い証拠(信頼できる情報源(専門官の話しも含め)のようです(叙勲裁可書の内国人「三止」は終巻の意味です。外国人「二止」などもあります。(アジア歴史センター)、し、早稲田の研究者(母校の創立者の事なので)もそこに帰しているような気がします。 私もただもっともっと色々な裏付けが欲しくて書いてみました。 現に、老舗の名店「新宿高野」さんや鳥取の老舗旅館「養生館」、大隈が設立し現存する日印協会のパンフレット、それから、アメリカの辞典サイトinfoplease等々も「信頼できる情報源」です。 大隈生誕地水ヶ江にも「大隈重信公誕生地」の石碑が建っています(信頼できる情報源)。墓誌もしかりです。 ただ、多くの学者が当時の「新聞記事」や「紺碧の空」の歌詞の研究にまで至っていません。 また、内閣マターの「申牒書」(通知書)を天皇の裁可を必要とする「上奏書」と皆の学者が勘違いしています。この点については、当時の新聞報道(大阪朝日新聞夕刊(1922年1月11日付・1月12日付、「宮相葉山に伺候」「両陛下と摂政宮から優渥な御諚を賜る」)、東京朝日新聞夕刊(1922年1月11日付・1月12日付、「宮相から奏上」 )、読売新聞朝刊(大正11年1月12日付、「隈侯邸に勅使差遣」「優渥な誄詞傳宣言」)を振り返れば解決できる点です。((直接葉山邸に赴いて直接上奏して翌日勅使を遣わし、「御諚」・「傳宣」=天皇の勅命を出しています(正に上奏裁可)です。 何度も言いますが、結局のところ帰結するのは、国立公文書の分類なので、それのみ、の記載に止め、数例と新聞記事の内容、「紺碧の空」の歌詞(「天皇の遣使、王と説明する甘いお言葉」、「すぐ遣使、say A(優)=(最高位)」)を、ここで、少し紹介するくらいにしておきます。

大隈公爵授爵については、様々な「歴」史的見解があり、「歴」史的な問題もあるようです。大隈重信がいかに人気のある政治家だったかが分かるような気がします。

早稲田大学の見解も一致しているので、問題解決とみて、全文削除します。

--以上の署名のないコメントは、Big10-ivy会話投稿記録)さんが 2016年9月20日 (火) 11:46‎ (UTC) に投稿したものです(KAWASAKI Hiroyuki会話)による付記)。[返信]


波多野氏による「大隈重信公誕生地の記念碑」について[編集]

旧宮内大臣波多野氏直筆の「大隈重信公誕生地の記念碑」はみたい人も多いと思うので、再度アップしました(見る人は、早稲田大学関係者が多いと思うので)。

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

大隈重信」上の2個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月30日 (土) 21:05 (UTC)[返信]

公爵は削除すべき[編集]

侯爵(公爵)や栄典の所の公爵の記述はすぐに削除するべきです。 総理大臣が承認の後に、爵記に内務大臣が署名し天皇が御璽を押して、爵記を授爵者に交付し授爵が成立する訳ですが、出典先の総理大臣が承認した時点の資料が存在したとしても、官報に大隈重信の公爵陞爵の記載が有りませんし、さらに大隈重信の薨去後の官報での表記は全て侯爵大隈重信となっております。これは明らかに何らかの理由により天皇から爵記が交付されなかった事を意味します。爵記が交付されていなければ公爵にはなっていない訳で、爵記が交付される前の段階の資料を根拠に陞爵されたと結論付ける事は出来ません。よって削除が妥当。注意書きで、このような資料が存在する程度の一文を書いておけばよろし。 2018年3月24日 (土) 2:40 (UTC) 利用者:2400:7800:4500:3A00:9C1:2D5B:44BE:CB0A

公爵は削除します[編集]

利用者:2400:7800:4500:3A00:9C1:2D5B:44BE:CB0A ですが、↑を書いてから1年以上経過しましたが、何の反応もありませんので、栄典にある公爵は削除します。 公爵を授爵していないのに、あたかも授爵したかのように記載するのは、辞典として良くありません。 2019年4月6日 (土) 20:54 (UTC) 利用者:2400:4065:2411:4700:456c:7d31:60b3:db96

大隈の爵位について[編集]

本記事に、Big10-ivy氏(およびそのソックパペット、ブロック破りIP)により大隈重信が公爵になったとする見解が加えられてきましたが、これは2017年に出版された藤間亮穂氏の著作『早稲田大学を創立した大隈重信の授爵について』(青山ライフ出版、紹介ページ)に書かれた主張と同じものであり、同書籍はノート:早稲田大学#大学令による認可日に関してにおいて、信頼できる情報源とはいえないとのご指摘がされています。Big10-ivy氏が大隈の公爵陞爵の根拠に使用した大隈重信陞爵申牒書 / 内閣総理大臣子爵高橋是清(早稲田大学図書館所蔵)については、結局牧野伸顕によって握りつぶされ、詮議にかけられることなく宮内省に留まり続け、戦後の払い下げで民間の廃品回収業者に渡った後、1988年に早稲田大学が開いた大隈重信生誕150周年記念展で紹介されたのを機に同大学図書館に寄贈されたという経緯があり(関田, かおる「なぜ大隈重信の「陞爵申牒書」は廃棄されたか 大隈と元老たち」『早稲田大学史記要』第27巻、早稲田大学史編集所、1995年7月31日、117-140頁。 )、それが存在することはまたそれで重要かもしれませんが、政府文書としては当初より失効扱いとみてよいと考えます。そもそも爵位は世襲であり、重信が陞爵したのであれば、大隈家を相続した信常が侯爵を名乗った事実が説明できません。

また、上記の#節「大隈重信の公爵陞爵について」の記述で、Big10-ivy氏は独創的なご見解をさまざま発表なさっていますが、その多くは先述した藤間氏の著作に登場しています。同氏の一連のアカウントやIPが藤間亮穂氏ご本人様の可能性もあることを念のため記しておきます。なお、このようなログがありました(Wikipedia:削除依頼/藤間亮穂)。--Ihimutefu会話) 2019年6月9日 (日) 08:08 (UTC)修正。--Ihimutefu会話2019年6月9日 (日) 08:11 (UTC)[返信]

多すぎる引用について[編集]

出典を見ると、明らかに伊藤之雄氏の引用が多すぎるというか、もはやほぼ転載です。 Wikipediaの「著作権侵害」には「何らかの著作権を侵した場合です。大抵は資料の丸写しや、ウィキペディア内のコピー・ペーストを行った(と判断された)ことが原因です」とありますが、これは「資料の丸写し」にあたるのではないでしょうか。 2019年に出たばかりの本にも関わらず、無料で勝手に大きな労力を払った研究を転載するというのはいかがでしょうか。 これがせめてもう手に入らない本ならわかりますが、現状で新刊が売っている本であり、著作権を侵害している恐れがあります。(加賀谷)

執筆者です。引用とは、「文章を改変せず」転載することを言います(Wikipedia:著作権で保護されている文章等の引用に関する方針)。文意を要約して出典を明示するのは引用ではありません。たとえば2020年6月2日 (火) 01:45時点における版 で、「この頃、下級武士の江副杢之進の長女美登を見初め、長女熊子を儲けた。しかし大隈はこの最初の結婚に関して、公の場で言及することは生涯なかった」を引用として削除されておりますが、この文章が60ページから62ページに渡って書かれていたわけではなく、要約したものです。引用と指摘されていますが、実際に読んでいるのですか。
また、学術の世界では、本や論文は公正な引用や言及が行われるほど価値があがるものです。新しい本を出典としてはいけないというルールなどは存在しません。さらに言えば実際に著作権を侵害しているほど引用しているのであれば、Wikipedia:著作権侵害への対処に従った手続きを取らなければなりません。なぜなら書かれた文章は現在も履歴から確認できるからです。--126.26.234.232 2020年12月7日 (月) 13:40 (UTC)(修正)--126.26.234.232 2020年12月7日 (月) 13:41 (UTC)[返信]